表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カエルの悪あがき  作者: 夜鷹亜目
ピークエンド編 終幕
19/34

第十九話

 久留井さんが自身の手にナイフを突き刺してから一週間が過ぎた。幸いにして久留井さんは大事には至らず、十杏さんの診断によると全治二か月といったところだそうだ。

 とは言え痛々しい姿の久留井さん。俺はそんな彼女のために何ができるか。


「おい小童。おやつだおやつ。おやつを用意しろ」


 ……いやそんなことじゃないだろう。どうして俺がそんな召使いみたいなことを。と二日目までは反抗したが、『私はこの手だし、十色もメンテナンス中なんだから仕方ないだろう』と言われ、俺は忸怩たる思いで抵抗を諦めた。

 そんなこんなで勝手知ったる映像専攻室に備え付けられた冷蔵庫を検める。中にはブッシュドノエルのみが鎮座していた。


 ちなみに久留井さんは俺にもおやつを分け与えてくれるが、馬鹿正直に五対五で分ければ一日不機嫌だ。彼女の場合、七対三(無論久留井さんが七)が黄金比と気付いた。

 そんなこんなで今回のブッシュドノエルも黄金比で切り終え、それぞれを盛った皿をフォークと共に久留井さんの元へと運ぶ。


 久留井さんは定位置で何やら作業をしていたはずだったのだが、俺が先ほどまで座っていた椅子にいつの間にやら腰かけて俺が描いていた絵をまじまじと眺めていた。


「どうしたんです。作業に飽きたんですか?」


 ここで久留井さんの定位置に皿を置いても、こっちへ寄越せと言われそうだったので、俺は彼女に七割のブッシュドノエルが乗った皿を直接差し出した。

 と、久留井さんは俺に一瞥をくれてから、皿をにべもなく見つめ。


「私は片手しか使えないんだぞ? どうやって食べろと言うんだ?」

「定位置に戻って机に皿を置きながら食べれば良いと思います」

「断る」


 断るなよ。

 と、心の中で突っ込んでいたら、久留井さんがぽつりと。


「あーんしろ」

「は、はい?」

「あーんだ。あーん。知らんのか? あーん」


 いや、知ってはいるけど、よくもまあ恥ずかしげも無ければ臆面もなく、そんなことを要求できるもんだ。あるいは俺をからかっているのか? しかし、断ればどんな罵詈雑言を浴びせられるか分かったもんじゃない。

 俺は一先ず自分の皿を手近な机の上に置き、久留井さんのブッシュドノエルにフォークを刺し入れ、それを。


「あーん」


 と、阿呆丸だしな声を上げる自分に寒気を感じながら久留井さんの口元へと運んだ。

 久留井さんは顔を突き出して「あむ」と、ブッシュドノエルを口に含んでフォークから離れた。その間、彼女の瞳は俺の絵に注がれていて、一体この状況は何なのだろうかと途方に暮れる。


 結局俺はあの後、芸学祭に向けて絵を描くこととなった。理由は当然、久比さんとの対決だ。

 予定としては、絵専攻の専攻者としてこれを出展する方向だが、芸学祭の直前までは映像専攻の預かり状態で絵を描くこととした。理由はいくつかあるが、一番は久留井さんの介護……いや、見張りだ。この人はちょっと目を話したら何をしでかすか分からないから。


 もぐもぐと咀嚼を終えると、喉を鳴らして久留井さんは俺を見つめてきた。


「これで完成度はどれぐらいなんだ?」

「あくまで目算だと……おおよそ、七割ですかね」

「七割って、芸学祭には間に合うのか?」

「おやつを用意させている人間が心配することじゃない気がしますが」

「ふむ。そうだったな。ところでこの蛙は何なんだ?」


 意図を図り損ねて首を横に倒すと、久留井さんはまるでトンボの目でも回すかのように絵の中の蛙の前で人差し指をクルクルと回し出した。


「渡の絵はいくつも見たが、この種は初めて見た。それに、今回はどうして二匹いるんだ?」


 久留井さんの指摘通り、今回の絵は初めて描いた蛙だ。


「これはヤエヤマアオガエルって言って、蛙の中では比較的人気の高い種類なんですよ。二匹の理由はメスとオスを描きたかったからですかね。ちなみに下にいるでかい方がメスで、その背中に乗ってる小さい方がオスですよ」

「なるほどな。そう言えば蛙はメスの方が大きいんだったか。他にも鳴くのも求愛行動の一種であって、オスしか鳴かないらしいな」

「よく知ってますね」

「まぁな……にしても今回は憧憬的な意味合いなのだろうか。とすれば雌は私。雄は渡か」


 ぶつぶつと何やら呟く久留井さんに、俺は首を傾げる。


「どうかしました?」

「いや。可愛い所があるじゃないかと思ってな」


 何故だかにこりと笑みを浮かべる彼女に、俺は「はあ」と生返事をした。

 と、久留井さんが再び口を開けて、今度はこちらを見てきた。餌待ちの鯉か。

 俺は吹き出しそうになるのを堪え、フォークに餌を乗せて彼女の口元へと運ぶと。


「にしても、この蛙共はべったりだな。微笑ましいものだ」


 そう告げて、久留井さんはぱくりとブッシュドノエルを口に入れた。

 幸せそうに口を動かす久留井さんに、俺は説明する。


「まぁ見ようによっては微笑ましいでしょうけど、これ交尾中ですよ」

「ぶふぉお!」

「うぅわっ。きったねえ!」


 久留井さんが突如として噴飯。俺の絵からはすかさず顔を逸らしてくれていたものの、その代わりに俺の衣服にブッシュドノエルの残骸が飛び散った。やだ現代アートチックで素晴らしい……と、この期に及んで芸術に思いを馳せる程とち狂っていない。


「い、いきなり何を言い出す!」

「事実を言ったまでじゃないですか!」

「う、うぅうるさい! このエロガキめ! あなっぽこがそんなに恋しいか! 私の口にフォークが入る様をそれはさぞかし官能的に見ていたんだろうな!」


 見ねえよ。そんな捻じ曲がった性癖持ち合わせとらんわ。

 久留井さんは心なしか朱色がかった頬を微かに膨らませ、俺からフォークとブッシュドノエルの乗った皿を片手でふんだくると、そのまま窓際の自席へと戻っていった。


 一体何なんだ。情緒不安定過ぎるだろ。

 俺は嘆息交じりに衣類に付着したブッシュドノエルの残骸をティッシュで拭いとる。と、久留井さんが椅子に座り、こちらに背を向けたまま話し出した。


「……お前は、久比に勝ちたいか?」

「そう、ですね。勝てるのなら、勝ちたいです」

「それが例えば、絵による表現では無いとしてもか?」

「ん? すいません、意味が分からないです」

「私は確かにお前の才能を買っている。だが、馬鹿正直に現段階で絵表現による勝負を挑めば、返り討ちだ。そこで私が提案なんだが、私がお前の表現を映像表現に落とし込むのはどうだ?」

「……けど、それは俺が久比さんに勝ったって本当に言えますか?」

「絵による勝負とは誰も言っていなかったろう。それに、映像表現に落とし込むとは言っても主軸になるのは渡の絵だ。異論を挟む余地など――」


 そこまで言って、久留井さんはこちらを振り向いた。涼し気で、どこか慈悲に満ちた顔つきは、けれど俺を見て強張り。


「な、なな、何で半裸なんだ貴様はぁぁぁ!」


 絶叫。自分の顔の前で腕を交差させて視界をシャットアウトしつつ、久留井さんは慌てた様子で立ち上がる。


「いや、誰かさんがブッシュドノエルを服に吐きかけたからじゃないですか」

「うぅうるさい! 寄るな! 絶対に寄るな! この破廉恥小僧め!」


 いや、片手で相変わらず視界を隠しながら、もう片手でフォークを振り回して狂乱する人に誰も近寄らんて。

 俺は水場でシャツの汚れた部分だけを軽く濯いでから腕を通した。腹部がぐっしょりしていて気分が悪いぜ。


 ずっと『わー』やら『ひゃー』やら喚いていた久留井さんも、俺が服を着直したのに気付いたようで、ぜえぜえと息を切らしながら腕を下ろした。

 久留井さんらしくもない。いつもなら『体を自ら晒すなど、どれだけ屈強かと思えば貧相を絵に描いたようなみすぼらしい姿だなぁ童よ』とかニヒルに言いそうなのに、どういった風の吹き回しだか。


「と、とにかく。私と共作する件は――」

「丁重に断ります」


 まだ頬の熱も冷めきっていない様子の久留井さんだったが、俺の声を聞いて伝播するように表情を冷たくした。


「何故だ?」


 俺は自席に座ってパレットに指を伸ばす。透明に限りなく近い薄黄色の液体――油に指を浸してから、キャンバスに描かれた蛙の背景に向ける。


「俺だけの力で勝たないと、俺が納得できませんから」


 黒を基調とした背景部分に、一点のみ黄色を親指大程の大きさで塗った部分があり、俺はその部分に油を付けた親指を当て、横へサッと何度も擦った。それは一筋の光明めいたものをイメージしたもの。番いの蛙よりもずっと上に差し込んでいる。もしも雄の蛙が雌を足蹴に高く飛び跳ねれば、その光明に照らされるだろう。


「……まぁ、無理強いはすまい。気が変われば言ってくれ」


 変わる変わらない。そんな事に思慮を巡らす余地は俺の脳に無くて、ただ無我夢中で蛙の絵に向き合った。

 ……だが後日。芸学祭まで一週間を切り、絵画の完成も近くなった頃合い。相変わらずその日も十杏さんはメンテナンス中で、先んじて映像専攻室にいた久留井さんへの挨拶もそこそこに、俺は絵画制作に着手しようとした時。


「たーのもー!」


 バーンと音を立てて扉を開いて入って来たのは。


「って、朱音?」


 ぽかんとする俺へ、朱音はずんずんと俺の方へ近づくと、いきなり俺の腕を掴み。


「さ、表現館に行きましょうか」

「は? いや、突然何の話だよ」


 俺が手を振り払うと、今度は朱音がきょとんとした。


「え。久比さんの絵を見に行くんじゃないの?」

「訳分からん。俺はそんな約束していない。それにどうして俺が久比さんの絵を――」


 自分でそこまで言って察した。この要領を得ないやり取りからするに、誰かが朱音に何かを吹き込んだのだ。となると、その人物は誰か。

 俺はギロリと睨む。窓際で我関せずとばかりに読書に耽る久留井さんの横顔を。

 彼女はちらりと俺を一瞥してから本に視線を落としつつ口を開いた。


「良いんじゃないか。自分の表現ばかりを見ていたら審美眼は養われん」

「いや、審美眼とかよりも、今は自分の絵を完成させるのが先決で――」

「あー。よく分かんないけど、私も暇じゃないしさっさと行きましょ」

「おい、お前も何を強引に話を進め――って引っ張るなぁ! 話を聞けえええ!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ