第十四話
「……何で俺はあんな勝負を受けてしまったんだろうか。もう終わりだぁ」
失意のどん底、マリアナ海溝の底すら抜けて、マントルに達しそうな程俺の気持ちは落ち込んでいた。
かっはぁ、と声にならない悲哀のため息を零す。
映像専攻室にて、席に腰かけながら俺は頭を抱えて項垂れていた。
何を大見得切って勝負だ。阿呆か。得意分野の絵で勝負したとしても、細貝さんの音に敵うはずが無い。分かり切ってることだ。しかもこっちは時間も無い。半端な表現を作ってぶっ倒されるか、あるいはおめおめと敵前逃亡するか。俺にはこの二者択一しかない。
絶望の真っただ中でエクトプラズム的なものを口から漏らして打ちひしがれていると。
「大丈夫ですよ、きっとどうにかなります」
トン、と物音がして俺は顔を上げた。机の上には専攻室に常備されているコップが一つ置かれていた。中にはどうやらお茶が入っているみたいで、湯気が立ち昇っている。
横を見れば、獅子ヶ谷さんがお盆を前に持って、ふんわりと微笑んできていた。
「ティーポットと茶葉があったので勝手に作ってしまいましたけど、大丈夫でしたか?」
「……うん、大丈夫。ありがとう」
「そう鼻を鳴らして捨てられた子犬みたいな顔をなさらないでください」
「で、でもぉ」
なっさけない声を出す俺に、獅子ヶ谷さんは尚も微笑む。
「胸を張ってください。音専攻、いえ芸学筆頭でもある細貝さんを相手にあのように堂々と物を言えるのは、先輩ぐらいです。誇ってください」
俺だけ? そうか、俺だけか。なるほどね。うんうん。そうだよね。そりゃ。
「そうだよねぇ、うわあああああん!」
「せ、先輩?」
当たり前だろ、芸学筆頭の細貝さんを敵に回すなんて、生徒主体で運営されている芸学の生徒がするはずない。なのに、俺は。
号泣している最中、獅子ヶ谷さんは察したように声を上げた。
「だ、大丈夫ですよ。細貝さんも表現者ですし、表現勝負を仕掛けた事で機嫌を損ねたりしませんよ。そこにあるのは、表現をより高い次元へと押し上げる熱い気持ちだけです!」
「ぐすん。そうかな? そうなのかな?」
「はい! 私を信じてください!」
ポンと胸を叩く獅子ヶ谷さんに、俺は涙声で尋ねる。
「でも俺、細貝さんを呼び捨てにしちゃったよ? それにタメ口だったよ? それでも嫌われてないかな?」
暫しの沈黙の後、獅子ヶ谷さんは片手を胸の前で握りしめた。
「勝てばいいのです。勝てば官軍ですからっ」
「勝手に晴れやかな顔してるけど俺の問いにまったく答えてないよ!」
やっぱり絶対嫌われた。間違いない。もうダメだ。マヂ無理。細貝さんに嫌われたとあれば俺はもう芸学はおろか表現の世界で生きることは出来ない。首を括ろう。
と、絶望の淵に立って最早悟りの境地に至っている俺に、獅子ヶ谷さんはあくまで呑気で、それでいて優しげな声を振りかける。
「それに、私は胸がすかっとしましたよ?」
「すかっと?」
「はい。細貝さんから紫藤さんを救うために声を上げて、自分に注目を集めようとした先輩、とっても格好良かったです」
「あ、あれはそういうのじゃない。俺は単に細貝さんにむかっ腹が来ただけで、べ、別に朱音を庇おうとかそんなことはこれっぽっちも――」
「はいはいそうですねその通りですきっとそうなのでしょう」
まったくもって聞く耳もたねえ様子だ。にしても、獅子ヶ谷さんはやけに上機嫌だ。そんな彼女を見ていると、自分が酷く滑稽に思えてきた。
俺は体にため込んでいた負のエネルギーを吐きだすために、大きく息を漏らす。
「……何にせよ、芸学祭に向けて映像を作らなきゃだな」
「やはり、日数的に厳しいですか?」
「あぁ。でも問題はそれだけじゃない。山積みだよ。そもそも題材も決まっていないし」
「そうですよね……」
俺はカップのお茶を一気に仰ぐ。
「とりあえず、今日は帰ろうか。直に日も沈むしね」
そうして、俺と獅子ヶ谷さんは伴だって専攻室を後にすると、校舎の入り口で携帯電話やウェアラブルデバイスの類を専用のロッカーから回収した。校舎を出て無道を歩く道中、獅子ヶ谷さんが自分の携帯電話をしげしげと眺めていて、俺は思わず声をかけた。
「どうかした?」
「あ、いえ。転入の際に説明は受けていましたが、どうして電子機器を持ち込んではいけないのだろうかと考えていまして」
「……獅子ヶ谷さん、前に朱音から色々と話を聞いたんだよね?」
「あー……前と言うと……」
思い当たる節があるだろうに、獅子ヶ谷さんは俺に上目を向けて言いづらそうな顔を見せた。代わりに俺が引き継ぐ。
「俺が錯乱した日のことだよ。久留井さんの事を思い出してね」
我ながらみっともない醜態を晒したもんだ。
俺は思い出しながら自嘲する。
「留井さんの事も聞いたんだろう? もっと言えば、誰が何をしたのかも。であれば、何で電子機器の類が校舎内に持ち込めなくなったのかは分かるんじゃないかな?」
「あ……」
察した様子で口を開ける獅子ヶ谷さんを見てから、俺は前へと向き直って歩き出した。獅子ヶ谷さんも俺の後を付いてくる。
と、無道の門を越えた付近で、獅子ヶ谷さんが口を開いた。
「私は、久留井さんの表現が嫌いでした」
突然の発言に、俺は「え?」と聞き返しながら振り返る。門前で獅子ヶ谷さんは胸に手を当てて立ち止まっていた。俯き加減の顔は、何かを思い返すような面持ちに見えた。
「久比さんにも申しましたが、久留井さんの表現は感じさせられている、つまり強制的だと思ったからです。芸術は自由であるべきなのに、彼女の表現は何かに押し込められるような感覚があったのです」
それは、きっとそうなのだろう。あの人は、表現者では無かったから。そして俺は井戸に押し込められた蛙だ。そう考えれば、獅子ヶ谷さんは俺よりもずっと優れた表現者なのだろう。俺は、未だに井戸の中で囚われたままなのだから。
と、獅子ヶ谷さんは顔を上げる。
「ですが、去年の表現だけは違いました。久留井さんの最高傑作。私はそう断言できます」
有無を言わせぬ久留井さんの物言いに、俺は口を噤んでしまう。
と、獅子ヶ谷さんは何かに気付いたように目を大きく開いた。
「そうだ。あの作品を完成させて、今度の芸学祭に出展するのはどうでしょうか?」
「あの作品?」
「そうです! 先輩は現在も蛙の絵は描いているのでしょうか?」
そこまで言われて、彼女が何を言おうとしているかを理解した。そして浮かぶ疑問。
「描いてはいる。けど、どうしてあれが未完成品だって知ってるんだ」
「私は監修者です。そのぐらい分かります。その上であの作品を完成させれば、今年の芸学祭、細貝さんにも勝てる見込みがあると思うのです」
獅子ヶ谷さんの発言に、こっちは眩みそうだっていうのに、彼女は至って真面目。それどころか自信満々な顔つきに、俺は更にクラクラとしてしまう。
「あのだなぁ、そんな簡単に細貝さんに勝つだなんて――」
「下を見れば落ち着いて、自尊心を高められる。だが、表現者でありたいのならば、上を見るべきだ。上を見れば果てしがない。だからこそ表現者たり得る。下を見る人間がいるのなら、眼前にニンジンをぶら下げられた馬の方がよっぽど表現者としての素養がある」
「……久留井さんか」
獅子ヶ谷さんが告げた文言は、過去に見聞きした言葉だったからだ。彼女が告げたのは、久留井さんが過去にインタビューで表現者に必要なことを問われた際に答えたものだ。
獅子ヶ谷さんは無邪気に笑って頷いた。
「そうです。私は久留井先輩の表現は好きではありません。ですが、あの方の考え方には共感出来る部分があります。例えば、先輩の表現が大好きなこととか」
俺は何も言い返せなかった。久留井さんがどうとか、獅子ヶ谷さんがどうとかはどうでも良くて、俺はただ、俺の表現が大好きと言われて、年甲斐もなく照れてしまったのだ。
だから俺は顔に熱を帯び始めたのを気取られぬよう、獅子ヶ谷さんに背を向ける。
「わ、分かった。分かったから」
「では、今から先輩のお宅まで随行しますので、蛙の絵を回収させて頂けますか?」
「ろ、ろろろ論外だ! 来るな!」
「えー」
残念がる声が背中にかかるが、俺は振り返らない。当たり前だ。うら若い少女が、男の家に、例え真っ当な目的があろうと向かうべきではない。至極当然だ。そうあるべきではないのだ……しかし、どうして俺は獅子ヶ谷さんに、そういう俺の思う女性らしさ、あるいは女性がそうであるべき姿を投影しているのだろうか。分からない。分かりそうもない。何にせよ、それが俺の気持ちを静める一番の方法に思えたのだ。
「とりあえず、蛙の絵は今度学校に持っていく。それでいいだろう?」
「いえ、私が今から随行致しますので――」
「随行はやめい!」
頑なだった獅子ヶ谷さんに、俺も頑なに応戦し、結局は彼女が折れてくれた。
獅子ヶ谷さんと別れ、とぼとぼと家路に着きながら、俺はぽつりと呟く。
「世界は下らない……でも、それは俺の世界だけの話なのかもしれないな」




