其之結(むすび)
しばらくの後、はっと気づいた薫郎は、素早く床の上に起き上って、辺りを見回しました。
「姉上・・・・」
彼は小さく呟いたのでしたが、すぐに立ち上がり、妻子の許へと駆け寄りました。
小青はまだ、気を失ったままでしたが、少しずつ、手足を動かし始めていました。
きっともうじき、正気に戻ることでしょう。
「小青、母さまを頼んだぞ!父さまに代わって、大切に守ってあげてくれ!!」
薫郎は息子の傍らに跪き、ふっくらとしたバラ色の額に、そっと口づけしてやりました。
そして彼は、すっかり冷たくなった妻の体を抱き起しながら、言いました。
「小佳。私は、未来永劫、あなたを忘れはしない。今生の別れに、せめて私の・・・・」
薫郎は、氷のように冷えきった妻の唇に、温かい自分の唇を重ねました。
それは―単なる愛の仕草ではありませんでした。
彼はそうやって、小佳に、自らの命を分け与えていたのです。
長い長い口づけでした。
道士の法力に貫かれ、跡形も無く奪い去られた妻の命を蘇らせるために、彼はあらかたの自分の命を、彼女の中に注ぎ込みました。
やがて、ようやく―その頬に赤味がさし始め、密やかな息遣いが戻って来た時には、薫郎の命は、極めて僅かしか、身内に残されてはいなかったのです。
美しい彼の面差しは、血の気を失って蒼白になり、ほっそりとしたその体は、よけいに華奢に見えましたが、それでも、妻の命を呼び戻し得た喜びに、薫郎は微笑んでいました。
「さあ、生きて下さい、妻よ!この薫郎のいのちを、小青と共に!!・・・・」
そして彼は、今一度、愛しい女の嫋やかな体をひしと抱きしめ、別れを告げるのでした。
「さらばです!私の小佳!!」
薫郎の瞳から、真珠の涙が頬を伝い、ポトリと一滴、小佳の黒髪に落ちました。
彼は再び、床の上にやさしく妻の体を横たえると、よろめく足で立ち上り、中庭へ出ました。
彼の拠り所であった白梅も、今はすっかり生気を失い、息も絶え絶えに花びらを散らして、ようやく大地に立っています。
その幹にそっと体を預けて、薫郎は静かに目を閉じました。
「白梅よ、ゆこう!私たちの役目は終わった・・・・・果たして辿り着けるかどうか定かではないが、折角に、姉上が呼んで下さったのだ・・・・・」
目を閉じたまま、不思議に穏やかな微笑を浮かべつつ、彼は言いました。
「いざ、仙界へ!・・・・」
その言葉が言い放たれるや否や、ゴーッと音を立てて紅蓮の炎が燃え上がり、みるみるうちに薫郎と白梅とを押し包んで、一気に呑み込みました。
火の粉を吹き散らし、めらめらと燃えさかる炎の中から、やがて一羽の火の鳥が舞い上がり、ゆっくりと屋敷の上を旋回した後、遥か西の空をめざして、飛び立ってゆきました。
時折、よろめくように下降しては、懸命に羽ばたいて再び上昇し、それを繰り返しながら―いつしかその姿は、空の彼方へと消えて行ったのです・・・。
小佳が正気に戻った時、彼女のそばにはたった一人、小青が座り込み、べそを掻き掻き、じっと彼女の顔を覗き込んでおりました。
そして、彼女が目を開けた途端、嬉しそうに叫びながら、飛びついて来たのです。
「かーたまっ!」
「小青!」
起き上って息子を抱きしめ、小佳は滂沱の涙を流したのでしたが、愛する夫・薫郎の姿は、何処にも見当たりません。
〈何処にいらっしゃるの、あなた!?〉
彼女はせわしなく、あちこちを見廻しました。
でも、人の気配など、まるで感じられない有様です。
「かーたま、とーたまは?」
小首を傾げて無邪気に問いかける小青の手を引いて、小佳は、広間から中庭へと、夫を求めて彷徨い出ました。
その彼女の瞳に、見るも無残に焼け焦げた白梅が捉えられたのです。
「ああ!」
思わずそばに駆け寄って、まだ、微かに薄煙を上げている幹の残骸を抱き、小佳は泣き崩れました。
「あなた!!あなた!!とうとう、行っておしまいになったのですね。私と小青を残して、たった一人で!・・・・・」
身も世もなく泣き濡れて、根元にうずくまる小佳に―
「かーたま、こえ(これ)!」
そう言って小青が差し出したのは、たった一輪の白い花をつけたままに千切れ、焼け残った一本の若枝でした。
ただ、それだけを形見に残して、白梅の夫は旅立って行ったのでしょうか。
いいえ、決してそれだけではありません。
彼は何よりも、掛け替えのない息子を、父によく似た可愛い小青を、彼女に遺してくれたではありませんか!?
「小青!!」
小佳は、小さな息子の体を力一杯抱き竦め、もはやこの世では二度と会うことのないやさしい夫の、美しいその面影を、気も狂わんばかりに恋い慕うのでした。
それからひと月ほどが過ぎ去った、ある夜のこと。
くる日もくる日も、日がな一日泣き暮らし、今宵もまた、泣き疲れて眠ってしまった小佳は、夢を見ました。
そこには、片時も忘れることのない、愛しい夫がいたのです。
「小佳。さあ、もう泣かないで!」
夫は―白薫郎は、彼女の涙を、しなやかな指先で、そっと拭ってくれながら言いました。
「私は今、仙界の大聖仙姑さまの許におります。仙姑さまは、約束して下さいました。いつの日か必ず、再び私たちを巡り合わせて下さると・・・今度こそ本当の人間として、あなたの許へ還ってゆくまで、妻よ、どうぞ泣かずに待っていて下さい。私はきっとあなたを見つけて、見事添い遂げてみせますから。それを信じて、小青と幸せに・・・・ね、小佳!」
そう言い聞かせたあと、彼は深い愛情を湛えた瞳でじっと彼女を見つめ、さらに、温かいその胸にしっかりと抱き寄せて、くちづけしてもくれたのです。
「あなた!!」
自分の声で、小佳は目覚めました。
彼女の頬は、夜通し流れた涙でぐっしょり濡れそぼり、枕や床までが、少なからず湿っていました。
「わかりましたわ、あなた。小佳はいついつまでも、あなただけをお待ち申しております。きっと戻って来て下さいませ、薫郎さま!!」
彼女はもう、泣いてはいませんでした。
〈強く生きなければ!!決して、あの方を悲しませないように・・・・〉
そう決心したからです。
その後―。
小佳は逞しい母親となって、薫郎の忘れ形見の小青を、立派に育て上げました。
彼女は、夫との思い出宿るあの古屋敷に住み続け、彼の名残りの一枝を、焼け焦げた幹に接いで懸命に世話をし、奇跡的に甦らせたのです。
そして父の願い通り、小青は、母を大切に労わり孝を尽くす、秀でた青年に成長しましたが、やがてひとかたならぬ頭角を現し、蒼嶺郡・珠林に家門を打ち立て、白姓を名乗って、その家祖となりました。
健気に役目を果たした小佳は、早春のある日、息子と別れ、庭の白梅の一枝を手折って懐に抱いたまま、旅に出ました。
彼女はその足で広東へと向かい、その地の西端に小さな庵を結んで、そこに住みつきました。
仙界は遥か西方の彼方にあるのだと知った小佳は、少しでも、夫のそばに近づきたかったのです。
大切に携えて来た白梅の枝を、彼女は、庵の前にまばらに生えていた紅梅の一本の幹に接ぎました。
そこにはなぜか、紅梅しかなかったからです。
けれど不思議なことに、白梅を接いだ木は、年ごとに花が薄紅色に変わり、いつしか、すっかり白い花を咲かせるようになりました。
密やかな風の囁きに耳を傾け、鳥と語り合い、森羅万象の移ろいと共に静かな余生を送った小佳は、やがてその天寿を全うして、ひっそりと旅立ってゆきました。
彼女の死後、庵には住む人とて無く、空しく朽ち果ててしまったのですが、白梅だけは逞しく生き続けて、次々と子孫を増やし、後に『梅花苑』と称される、梅の名所となったのでした。
言うまでもなく、そこの白梅の美しさは格別で、毎年、花の頃には、近郷近在から訪れる人が絶えなかったと申します.
―それからもう、気の遠くなるような月日が流れ去りましたが、果たして小佳は、愛する薫郎に巡り合えたのでしょうか?
なにしろ、あまりにも遠い昔のことですから、はっきりとしたことは無論、誰にも解りはしないのですが、もしも、あなたが心から信じて下さるのなら、二人はきっと再会を果たし、今も何処かで、仲睦まじく暮らしているに違いありません。
だからせめて、そうあれと・・・願ってやっては頂けませんか?
―花は散り人は去りて 時久しけれども
必ずや再巡り合いて 比翼の鳥とならん―
(結束)