其之二
夫婦になった後も、薫郎のやさしさは少しも変わらず、美しい若者にはありがちな冷たさなど、ひとかけらもありはしませんでした。
彼は代書を生業とし、墨跡も鮮やかで文章も巧く、しかも上品なその筆付きはとても評判が良く、噂を聞いてあちこちから、沢山の人々が、色々な手紙や書類などを頼みに来るのでした。
ごく僅かな謝礼しか受け取らないものですから、決して裕福ではありませんでしたが、二人はお互いをいたわり、深く愛し合い、片時も離れずに寄り添って、ひっそりと心充ち足りた暮らしを送っていたのです。
小佳は、本当に幸せでした。
何と素晴らしい夫を、彼女は得た事でしょう!?
けれども、よからぬ魂胆を持った人々、とりわけ、小佳を無理やり嫁がせて、家屋敷もろとも、財産根こそぎ取り上げてやろうと企んでいた伯母の安大姐は、その姪が、いつの間にか旅の若者を引っ張り込んで、こともあろうに所帯まで持ったことを知ると、烈火の如く怒りました。
「まったく!人の好意を散々足蹴にしておきながら、よりによって、どこの馬の骨だか解らない醜男(なぜか彼女は、そう決めつけていました)なんぞを誑し込んでくっつくとは!とんだあばずれ女もいいとこだよっ!!」
そう息巻いて、まさに土埃を巻き上げんばかりの勢いで、小佳の屋敷に乗り込んで来たまでは良かったのですが、そのあばずれの姪と共に現れた『馬の骨』を見た途端、息が止まりそうになってしまいました。
『醜男』どころか、この国中の至る所、鉦や太鼓を打ち鳴らして探し廻ったところで到底見つかりっこないほどに気高く、また、美しい若者だったからです。
しかも、どちらの御大家の若様かと疑いたくなるくらいに、この上もなく上品で優雅な立ち居振舞が、ごく自然に身に付いた見事さに圧倒され、さすがの性悪な伯母も、思わず溜息を漏らしたのでした。
とは言うものの、当然のことながら、内心おもしろう筈はありません。
それは、母親と一緒にやって来た彼女の娘、つまり、小佳の従姉に当たる淑蛾にとっても、同じことでした。
少女の頃から美貌を持て栄やされていた彼女は、男など、それこそ選り取り見取り、好き放題に浮き名を流した挙句に、求愛者の中でも一番の大金持ちだった高利貸しの男と結婚し、贅沢三昧に明け暮れる毎日を送っていました。
(どっちがあばずれだか、解りませんが)
そして、母親から小佳のことを聞かされるや、ぱっとしない嫁き遅れの従妹が、焦る余りに、どんな不細工な男とくっついたのかをその目で確かめた上で、大いに笑い者にしてやろうとほくそ笑みながらやってきたのでしたが、目の前にこれほどの美男を突きつけられたのでは、それこそ笑うどころか、ぐうの音も出ない有様です。
そればかりか、彼と並んだ小佳までが、妙に華やいで美しく見え、悔しいやら妬ましいやら、何とも憎たらしい限りでありました。
〈今に見ているがいい!この私の色香に叶う男など、いるものか。必ず、お前の亭主を奪って見せてやるから!!〉
歯ぎしりしながら彼女らは、ひとまずはスゴスゴと退散せざるを得ませんでしたが、無論、このまま大人しく引き下がるような連中ではありません。
〈あれは、絶対に唯者ではあるまい。必ず尻尾を摑んで、目に物見せずにおくものか!!〉
娘とはまた別のどす黒い思惑を、その胸一杯に充満させながら、安大姐は堅く決心したのでした。
そうこうしながらも、まずはどうにか平穏無事に日は過ぎ去り、いつかまた、三年が経ちました。
薫郎と小佳はますます仲睦まじく、二人の間には元気の良い玉のような男の子も授かって、もう、二歳になっておりました。
そして、三年に一度の大聖廟のお祭りの日、親子は連れ立って、参詣に出かけたのです。
大聖廟と申しますのは、畏れ多くも天帝の第一皇女であらせられ、今は仙界におわします大聖仙姑さまをおまつりした、貴い廟のことでした。
結局、それが運命の日となるとも知らず、彼らはおろし立ての真新しい衣装を身に着け、振り返って見とれる人々の、羨ましげな視線を沢山に浴びながら、ひときわ華やいでおりました。
小青と名付けた幼い息子におもちゃを買ってやったり、代わるがわる抱き上げてやったりして散策を楽しみ、日がな一日、幸せ一杯に過ごしての帰り道のことです。
はや暮れなずむ、通い慣れた家路を辿る道すがらも、いまだ人の波は途切れること無く続き、彼らはその中を、和やかに語り合いながら歩いておりましたが、ふと擦れ違いざまに放たれた道士の一言が、忽ち、薫郎の顔から笑いを奪い去ったのでした。
「おぬし、明らかに人ではあるまい!?いづれ近々片を付けてやるゆえ、首を洗って待っておるがよい!!」
もとより、大きな声ではありません。
彼の耳だけに辛うじて聞き取れる程度の、極々密やかな声ではあったのです。
もしかしたら、実際に発せられたのではなく、心の中に直接語りかけられたものだったかも知れないのですが・・・・・。
しかし、いずれにせよ薫郎にとって、それは、まさに身を滅ぼす『宣告』でした。
はっと振り返った彼の目に、足早に人混みの中へ紛れ込んでゆくがっしりとした灰色の背中が、僅かに捉えられました。
屋敷に戻って来てからも、あの道士の言葉が耳から離れず、薫郎は口もきかずに、じっと考え込んでおりました。
「とーたま!!」
膝にまつわりついて来る愛らしい小青を、頭を撫でてやっただけで抱き上げてもやりません。
「一体、どうなさいましたの、あなた!?」
心配そうに顔を覗き込む小佳に答えもせず、彼は卓子に肘をついたまま、閉じた瞳を開こうとはしませんでした。
勿論、夕餉の食事も進みません。
その頃になると薫郎は、今度は溜息ばかりついていました。
小佳の心配はひと通りではなく、夫の突然の異変振りに戸惑い、どうしてよいのか解らずに、胸を痛めるばかりです。
やがて、夜も更けて―。
いつになくむずかる小青をやっと寝かしつけ、小佳が居間に戻って来るなり、薫郎は、意を決して口を開きました。
「小佳、話があります―――」
真っ直ぐに彼女に向かって注がれる冴え冴えとした瞳に唯ならぬ光が宿り、彼は明らかに、何かを覚悟しているようでした。
その左耳に填め込まれた青玉までが、いつもとは違う煌めきに揺れています。
小佳は、かつて無いほどに厳しい夫の表情に胸を衝かれ、無言で、彼の傍らに腰を下ろしました。
「どうか、心を鎮めて聞いて下さい」
薫郎は、最初にそう前置きして、静かに語り始めたのでした。
「今日まで、あなたを騙し続けたも同然になってしまいましたが・・・何を隠しましょう、私は、まことの人間ではありません。このお屋敷の庭に咲く、白梅の精なのです。六年前、あなたが露天商から買い取って、慈しみ育てて下さった、あの梅の木の・・・」
そこまで言うと薫郎は、そっと小佳の手を取りました。
「あなたは、捨てられる運命にあった私を見い出し、救い上げてくださったばかりか、この手を泥だらけにして丁寧に植えて下さり、雨の日も風の日も、一日も欠かさずやさしく話しかけては、愛おしんで下さいました。その御恩に報いるために、少しでも早く花開いて、あなたに喜んで頂きたいと心に念じるうちに…いつしか私は、あなたをお慕いするようになっていたのです・・・」
小佳は、彼の告白を、多少の驚きと、そして深い愛情とを湛えた瞳で黙って聞いていました。
でも、なぜか彼女は、少しも取り乱した様子はありません。
そんな妻に向かって、薫郎は語り続けます。
「その想いを押さえ切れず、ついに私は、禁を破って人に化身し、あなたの許へ参ったのです。共に暮らし、ますますあなたのやさしさを身に沁みて感じるにつけ、私は本当に幸せでした。人ならぬ身であなたの夫となり、子まで成してしまった罪深い私を、どうぞお許し下さい。浅ましき魔性よ、と蔑んで頂いて構いません。お気が済まねば、今すぐにでも、この場で打ち殺して下さってよいのです。あなたの手に懸かるならば、本望ですから・・・」
「私が、なぜ、あなたを打ち殺したりなど致しましょう!?そんなことをお口になさるものではございませんわ、あなた」
小佳の声は不思議に穏やかで、薫郎を見つめる視線は、限りないやさしさに充ち満ちていました。
それは紛れもなく、愛する夫へと向けられるものに他なりません。
「小佳!?」
薫郎は美しい目を見開いて、妻を見やりました。
「本当は私、いつの頃からか、あなたのお身の上に気付いておりました。勿論、薄々とではございましたけれど・・・」
彼女は意外な言葉を口にしました。
「気づいていた!?あなたは、私の正体を御存知だったとおっしゃるのですか!?」
余りのことに、薫郎は、ますます目を瞠ってしまいました。
恐らく彼の瞳は『まばたき』というものも、すっかり忘れてしまっていることでしょう。
「はい」
小佳は、きっぱりと答えます。
「それにも拘らず、この私を、夫として愛して下さったと!?」
「あなた」
今度は、小佳が、想いを打ち明ける番でした。
「あなたが人であろうとなかろうと、それが、私にとって何でしょう!?あの日私は、あなたに申し上げました。ずっとあなたを、待ち続けていたのだと。
あなたは来て下さった。そればかりか、心から私を愛し、小青まで授けて下さったのです。誰よりも幸せだと思いこそすれ、あなたを魔性だなどと疎んずる気持ちなど、爪の先ほどもございません」
「小佳!!」
薫郎は思わず妻を抱きしめました。
「ありがとう!ありがとう小佳!!私は嬉しい・・・これでもう、何一つ、思い残すことはありません!」
「あなた!小薫さま!!どうぞ私を、小佳を離さないで!」
二人は、ひしと抱き合ったまま泣きました。
そうです。
小佳の言う通りなのです。
たとえ人ではなくとも、全身全霊を傾け、命を賭けて愛を貫こうとする真心に、果たして何の違いがあるというのでしょう!?
その夜の二人は、いつにも増して激しく求め合い、このまま命尽きても悔いないほどに、狂おしく愛し合ったのでした。
それは、いっそ哀れで、またこの上もなく美しい、愛の交歓だったのです。