其之一
—華南雨に烟りて 春まだ浅く
白梅しとど濡れて 一際清艶なり―
遠い遠い、遥かに遠い、昔々のことと思召せ・・・・・・。
都からずっと南へ下った華南の地に、青都という小さな街がありました。
これといって他と変わったところもないこの街には、幾たりかの人々が住み、それぞれの生活に明け暮れておりましたが、ただ、ここは昔から梅の美しい土地柄で、とりわけ白梅の頃には、それはもう、見事な有様だったのです。
家々の庭先にも、競って梅が植えられましたので、その時期になりますと、苗木を売る露店のまわりはどこも人だかりで一杯、賑々しく繁盛致しておりました。
と申しましても、商売というのは実に不可思議なもので、黒山のように客が押し寄せる時もあれば、ふっとそれが途絶えて、人の訪れも無く、森閑と静まり返ることもあるのです。
その折を、まるで見計らったかのように、一人の女が、ある店先に立ちました。
質素な身なりではありましたが、どことなく品のある、何やら奥ゆかしげな女です。
彼女は、目の前に並んだ幾本もの梅の苗木を、あれこれと、見比べておりましたが、やがて、その一番隅に隠れるように追いやられた、見栄えのしない一本に目を留めました。
他の木がすべて、小さいながらも生き生きといのち漲らせている中で、それだけが何ともひ弱で、今にも枯れそうに儚げなものですから、当然のことながら、わざわざそんなものを買う人などはおりません。
なのに、なぜか女は、心魅かれたのでした。
「あれを、下さいな」
店の男は、彼女の指さす方を見て呆れ返りました。
「いいのかい?こりゃあんた、うらなりだよ!?きっと花なんか、咲きゃしない。せいぜいその前に、枯れちまうのがおちさ。まったく、何だってこんなのが、紛れ込みやがったんだか!?」
男はぞんざいにその木を摑み、女の鼻先に突き付けて見せましたが、彼女の気持ちは変わるどころか、ますますその木に引きつけられるようでした。
「いいんです。それが欲しいの」
両親などとうに亡く、さりとて頼りになる親戚も、ましてや夫も子も持たない寄る辺無い身には、いかにも肩身の狭そうな哀れな風情に、何かしら、共鳴するものがあったのかも知れません。
「へえ!?変わった人だね、あんたも。実のところ、こいつは帰りに捨ててやろうと思っていたんだ。お代はいらないよ!」
男はそう言ってくれたのですが、いかに何でも、ただでもらう訳にはまいりません。
女は、何がしかの代金を手渡してひ弱な木を受け取ると、そっと大切に胸に抱き、家路を急いだのでした。
慎ましやかなその女は、名を、黄小佳と申します。
小佳は、街外れに近い古い屋敷に、召使いも置かず、たった一人で住んでおりました。
両親の生きていた頃は、それなりに裕福で、たくさんの召使いも雇い入れ、恵まれた生活を送っていたのですけれど、父と母を相次いで亡くしてからは、強力な後ろ楯も兄弟も無い身を、強欲な親戚連中につけ込まれ、何だかんだ、寄ってたかって喰いものにされて、せっかく両親が残してくれた、かなりの財産の殆どを取り上げられてしまい、辛うじて食べてゆける程度の本当に僅かなものだけが、彼女の手に残ったのでした。
しかし、それさえもつけ狙う悪どい伯母の思惑に、彼女は常に曝されていたのです。
あれだけ多くいた召使いたちも、いつしか彼女を見限り、一人去り二人去りして、とうとう、残ってくれる者は誰もいませんでした。
それはさておき――
小佳は、中庭の日当たりと風通しのよい場所を選んで、汗水垂らして穴を掘り、そこに梅の苗木を植えて、丁寧に丁寧に土をかけた後、充分に水をやりました。
そしてすべての作業を終えた彼女は、額の汗を拭いながら、やさしく言い聞かせたのです。
「梅よ、梅よ、大きくおなり!雨にも風にも負けないように。いつか見事な花を咲かせて、寂しい私を、慰めて頂戴な!・・・・・」
小佳は、朝夕一日も欠かさずに梅の世話をし、まるで人間にでも話しかけるように、やさしい言葉を投げかけるのでした。
花も咲かない、と決めつけられたその木は、もしかしたら、小佳の手でこの庭に植えられるのを待っていたのかもしれません。
そう思えるくらいにたちまちのうちに根付き、ぐいぐいと力強く足を踏ん張って、天に向かって伸びて行ったのです。
そして、半年も経った頃には、あの、今にも枯れそうに見えた苗木と同じものとはとても信じられないほどに逞しい、姿の良い若木に成長しておりました。
小佳は、うれしくてうれしくてたまりません。
「梅よ、梅よ、あなたは何て立派で、美しいのでしょう!?いつまでも私の側にいてくれたなら、どんなに心強いか知れないわ!・・・・・」
彼女の言葉に応えるように、風にやさしく青葉を揺らせながら、若い梅の木は、ますます力強く育って行ったのでした。
そして三年――。
どうにかして、僅かに残った財産までも、家屋敷もろとも小佳から取り上げてやろうと目論んで、理不尽な縁談を、それこそ矢継ぎ早に持ち込んで来る伯母・安大姐の噴みを、その梅の木だけを心の支えにして必死に搔い潜り、彼女がふと気づいた時には、いつしか三年の月日が流れておりました。
若い梅は、既に小佳の背丈を越えて、彼女を守るかのように拡げた枝には、はや、ふくいくと香る白い花をつけ、美しく、清らかに立ち続けていました。
そんな早春の昼下がり――。
烟ように細かく降り注ぐ霧雨に、何もかもがしとどに濡れて、おぼろな暖かさに包まれた、夢見るような午後のことでした。
小佳は一人、二階の居間で刺繍をしていましたが、何気なく、ちらと見下ろした門前に人影がありました。
白銀色の衣装を身に纏ったその姿は、まだうら若い男のようでしたけれど、廂の蔭になって、勿論、顔までは見えません。
どうやら、雨宿りをしているようです。
恐らくは、このあたりの人ではないのでしょう、まるで見覚えのない風体でした。旅の途中、雨に降られて、難渋しているのかも知れません。
(お気の毒に!・・・・・・)
心優しい小佳は、すぐに刺繍の手を止めて、急いで階下へ降りてゆくと、手早く傘をさして門のところへ走ってゆきました。
若者は、体の半分以上、雨に濡れながら、まだじっと、軒下に立っています。
「あの、もし・・・・・」
門内から遠慮がちに呼びかけた小佳の声に驚いて、彼はくるりと振り向きました。
「!!」
今度は、小佳の方が驚きました。
それは何と、美しい男性だったことでしょう!?
生まれてこのかた彼女は、これほどまでに清らかで美しい異性に、ついぞ出会ったことはありませんでした。
きりりと上がった濃い眉の下で、大きく見開かれた黒曜石の瞳は切れ長、しかも、瞼は端から端までくっきりと二重を刻み、きめ細やかな象牙色の肌の中で、ひときわ鮮やかに際立っています。
さらに、高い鼻梁にはピシリと鼻筋が通り、丸みを帯びた愛らしい唇は、さながら花びらを連想させました。
その、どれ一つを取ってみても、一点の非の打ちどころとて無く、唯ならぬ気品溢れる見事な顔立ちなのです。
小佳は見る見る、自分でもはっきりと解るくらいに赤くなりながら言いました。
「あの、・・・・・この雨で、さぞお困りでございましょう。見れば、少なからず濡れておいでの御様子。よろしかったら、中でお休み下さいませ・・・・」
「それは誠に有難いことですが・・・しかし、御迷惑ではありませんか?」
耳ざわりの良い澄んだ声音で、若者は問いかけました。
その瞳がきらきらと輝いて、何とも艶やかです。
「いえ、決して御遠慮には及びません。そのままでは、お風邪を召しますから・・・」
ひとかたならず羞じらいながら、小佳は、なおも彼に勧めました。
「お心遣い、忝い。それでは、お言葉に甘えさせて頂きましょう。雨がやみましたら、すぐにもお暇致しますから」
そう言って美しい若者は、小佳の後について屋敷内に入ったのでありました。
中に入ると、早速、小佳は甲斐甲斐しく立ち働きました。
まず、手拭いを出して来て、雫の落ちる漆黒の長い髪を拭わせ、父の衣装箱を開いて真新しい大衫を見つけ出し、若者に着換えをさせました。
そして、びしょ濡れになった白銀色の衣装を火の側に干して乾かし、卓子の前に彼を座らせて、熱いお茶を注いでやったのです。
その間中、小佳は、本当にいきき生き生きと心弾んで、幸せそうにさえ見えました。
人のために何かをするということは、何と嬉しく、張り合いがあるのでしょう!!
彼女の様子を、最初から最後まで、それは心の籠ったやさしい眼差しで見守っていた若者でしたが、やがて向かい合って腰かけた彼女に、静かに語りかけました。
「この広いお屋敷に、あなたは、たった一人でお住まいなのですね。お若い女性の身で、さぞやお寂しいことでしょうけれど、あなたには、少しも暗いところがありません。とても素晴らしいことだと思います」
真摯な瞳でまっすぐ小佳を見詰めながら、彼はこう言いました。
その目があまりに美しく、また眩しくもあったのですが、小佳は不思議に顔を逸らさず、彼の視線を受け止めました。
なぜそうすることができたのか、自分でも解りませんが・・・・。
「いえ、私は・・・・・」
彼女は、微かにほほえみながら答えます。
「私は決して、素晴らしくなどはございません。ただ梅の木が・・・・庭にある一本の白梅が、いつも私を支えてくれるのです」
正直な気持ちでした。
三年前に捨て値同然に買い取って育てたあの木がなかったら、彼女は今頃きっと、気に染まぬ相手に無理矢理嫁がされ、辛い毎日を余儀なくされていたことでしょう。
「そうですか。それほどまでにあなたは、あの白梅を・・・」
若者はひどく感じ入った様子でそう呟き、なぜか深い溜め息をつきましたが、しばらくすると思い出したように身の上を明かしたのでした。
「申し遅れました。私は都から参りました白薫郎と申します。呼び名は小薫で結構です。実を申せば、私も又、帰るべき家を持たぬ寄る辺無い身。遠い血縁を頼ってこの街に来たのですが、既に何処かへ引っ越したあとでした。行く宛てもなく、その上雨に降られて心細い思いをしていたところへ、あなたが御親切に、お声をかけて下さったのです」
「左様でございましたか。申し遅れました、私、黄小佳と申します」
彼女も又、彼に自分の名を告げました。
「小佳・・・・美しい名ですね」
「あなたの方こそ。素敵なお名前ですわ」
二人は顔を見合わせ、そっと微笑みを交わしました。
どうやら初対面にして、彼らは心が通い合ったようです。
もしかしたら『宿縁』と呼べるものかもしれません。
そうやって、時の経つのも忘れて語らっているうちに、いつの間にか、夜に近くなっていました。
小佳は、若者が辞退するのも聞かずにいそいそと夕餉の仕度にかかり、一心不乱に腕を振るって、やがて、もう何年も作ったことのない御馳走を、幾皿も作り上げました。
そして、美味しそうに湯気を立てながら卓子の上一杯に並べられた暖かい食事を、彼にふるまったのです。
彼女と若者は、向かい合って仲良く語り合いながら、ゆっくりと食事を楽しみました。
心も体も、ホカホカと芯から温まったのは、単に御馳走のせいばかりではなかったようです。
そして、食事が終わる頃には、二人の気持ちは、ますます近づいておりました。
「こんなに楽しい食事をしたのは、生まれて初めてです」
若者は、潤んだ瞳で言いました。
「私が物心ついた時、周りには誰もいませんでした。母の顔すら、憶えてはおりません。父に抱かれた記憶も持たぬ私は、肉親のぬくもりというものを、まるで知らないのです。食事をする時も、いつも独りぼっちでした・・・」
そう言った後、すぐに彼は苦笑して謝りました。
「つまらぬことを申しました。どうぞ、お許し下さい」
「いいえ、そんなことはございません。でも、どんなにかお辛かったことでしょうね」
小佳は、この美しい若者の寂しさを思いやって、思わず涙がこぼれそうになり、慌てて袖口で、それを押さえたのでした。
ふと気づくと、雨はもうやんでいるようでしたが、あたりはすっかり暗くなっておりました。
若者はひっそりと席を立ち、小佳に向かって言いました。
「大変、お世話になりました。御迷惑も顧みず、ついつい長居をしてしまいましたが、これにてお暇致します。この御恩は、決して忘れません。何もお礼はできませんが、せめてこれを・・・」
若者は―いえ白薫郎は、左の耳に填め込んでいた青玉の耳飾りを外し、小佳の掌に乗せてくれたのでした。
「あの、今から行っておしまいになるのですか!?こんなに暗くなりましたのに!・・・」
小佳は胸が詰まり、我知らず、声が震えていました。
何かしら、この若者と別れ難い気がしてしてなりません。
「はい。いかに何でも、女の方お一人のお住まいで夜を明かす訳にはまいりません。人の噂にでもなれば、それこそ、あなたに御迷惑がかかりますから」
若者は、後々(あとあと)の彼女の身を思いやり、敢えて暗闇の中へ去って行こうとしていたのですが―。
「行かないで下さいませ!!」
思い懸けず、縋りつくような小佳の声が、彼を引き止めました。
白薫郎は、驚いて彼女を見詰めます。
その彼に向って、なおも小佳は、想いのたけを迸らせるのでした。
「行かないで下さいませ。小薫さま!!私・・・私、なぜだか解りませんけれど、もうずっと長い間、あなた様をお待ち申していたような気がしてならないのです。このまま、このままお別れしたくなくて・・・こんなことを口にする私を、どうか、はしたない女だと思わないでください!!」
彼女は、頬を濡らしていました。
切なくて、懐かしくて、本当になぜだか解らないのですが、この若者が愛おしくてならなかったのです。
もしかしたら、それは若者にとって、とても迷惑なことだったかもしれませんが・・・。
でも、しかし、そうではありませんでした。
嬉しいことに、彼の方も、想いは同じだったのです。
「ご本心から、そうおっしゃって下さるのですね。小佳!?何を隠しましょう。実は、この私の方こそ、あなたと離れ難く思っておりました。けれど、あなたの身の上につけ入るような気がして、口に出せなかったのです!」
彼は小佳に駆け寄るなり、力一杯、彼女を抱きしめました。
「やっと・・・・・やっとお会い出来ましたのね。嬉しゅうございます!!」
息もできないくらいに、それは、それは強く抱かれながら、小佳は彼の胸で泣きました。
「よく待っていてくれました、私の小佳!!」
しなやかな腕に、より一層の力を籠めて彼女の体を掻き抱く薫郎もまた、少なからず涙ぐんでおりました。
秘めやかに甘く、そして切ない、春の宵にふさわしい契りを交わし、その夜、二人は結ばれました。
雨を含んでしっとりと咲き匂う白梅が、何と美しく、艶やかな夜であったことでしょう―。
以来二人は、人も羨む似合いの一対となったのでした。