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あじさい

作者: 去日苦多





まず、頭の中に雨を降らせてほしい。


できるだけ激しい雨がいい。世界の全てにノイズがかかってしまったような、そんな激しい雨だ。ビー玉くらいの大粒の雨を、君の頭の中いっぱいに降らせるんだ。











どうだろう。雨は降っただろうか?



では、話をはじめよう。







 彼の一日は、塔に上ることからはじまった。それは彼がこの町にはじめて現れた日の朝から、ずっと変わらなかった。



 とても古い鉄塔だ。塗装は剥げ、表面は赤く錆びていた。いつ倒れてもおかしくないような高い鉄塔。分厚い鉄骨が幾何学的な模様を作りながら組みあげられている。それはまるで蜘蛛の巣のようであり、螺旋を描く羊の角のようだ。土の中から突き出した四本の足は空へ向かってのび、やがて上空で一本に集約されて雲を刺す。塔はいつも町を見下ろし、この町の人たちは時々そんな塔を見上げた。

 塔はこの町の象徴であり、この町は塔の裾野に広がっていた。

 

 小さな町。端から端まで歩くのに30分もかからないだろう。小さな畑があって、小さな川が流れていて、小さなレンガ積みの家が並んでいる。とても美しい町だ。町の色合いだって、とても落ち着いている。人々はいつもやさしいし、争いごとなどひとつもない。いつだってこの町は穏やかだ。そんな町の真ん中に、突然現れた大怪獣のように、塔はひとつだけ建っていた。

 塔がいつ建てられたのか。何のために建てられたのか。その理由を知っている人はこの町にはいない。皆、それを疑問にすら思わない。それははじめからそこにあるものなのだから、今そこにあるということは少しも不思議なことではない。自分たちと同じように、塔もただ、そこにあるだけなのだ。

 そうしてこの町の人たちは、塔の下で日々の生活を送った。



 町の上空には、いつも一羽の鳥がいた。羽を広げれば、5~6mにもなるであろう大きな鳥だ。体は黒い羽毛に包まれている。赤い目をしていて、黒く光るくちばしは鋭い。そんな鳥が、いつも町の上を舞っていた。小さな町を飲み込んでしまいそうなほど大きな翼で空をぐるぐると旋回し、町の上に影を落とすのだった。

 鳥が羽ばたくたびに、町には風が吹いた。だから町の人々は、その鳥のことを「カゼ」と呼んだ。カゼが起こす風は、町の空気をかき回し、淀みを吹き飛ばしてくれた。時にそれは心地の良いそよ風だったし、時にはすべてを奪い去るような強風だった。しかし、この町には風に吹き飛ばされて困るようなものはひとつもなかったので、皆、窓を開けてその風を浴びた。決して雨が止むことのないこの町で、風を浴びることはシャワーを浴びることよりも大事なことだった。皆、風を浴びて、重苦しく淀んだものを洗い流すのだった。

 生ぬるくて湿気た風が窓から飛び込んで、部屋の中をぐるりと駆け回り、暖炉の中へ吸い込まれていく。湿った風のせいでドアノブが錆びないように毎日雑巾で磨く必要があったけれど、それでも風は心地よかった。


 日が暮れると、カゼは塔の上で羽を休めた。塔の頂上で羽をたたみ、その中に首をうずめて目を閉じると、カゼの赤い目がまぶたの中に隠されて、この町には夜がやってくるのだった。だからこの町の夜に風が吹くことはない。夜はただ目を閉じるしかないのだ。明日を夢見ることだって許されない。だって真っ暗闇で、何も見えないのだから。

 風がやんだら、町のすべてはそこにたたずむしかなくなるのだ。





                    ※


 彼がこの町に現れたのは、今から30日前のことだ。


 彼は目を覚ますと、この町にいた。昨日までどこにいたのかも思い出せない。なぜここにいるのかも思い出せない。自分の名前すら思い出すことはできなかった。必死で記憶の糸を手繰るのだが、すぐにぷつりと切れてしまっていて、その先に何もぶら下がってはいなかった。「帰らなくちゃ」とは思うのだが、どこへ帰ればいいのかもわからない。柔らかい枕と、暖かい布団に包まれたまま、彼は途方に暮れた。目を閉じたって、もう眠りにつくこともできなかった。


 見たこともない部屋。いや、記憶がないのだから、見たことがないのかどうかもわからない。部屋にはテーブルがあって、椅子がある。テーブルの上には鉄でできた花瓶がひとつ。そのつややかな表面が、窓から差し込む鈍い光を受けて、寝ぼけ眼のよう輝いていた。

 彼はベッドから起き上がり、窓辺に立った。激しい雨が降っている。そんなに激しく打ち付けたら地面が壊れてしまうのではないかと思うほど、ただひたすら雨は落ち続けていた。空のほとんどは夜で、端っこに少しだけ朝があった。窓の向こうには塔があり、そのてっぺんにはカゼがいた。


 雲の向こう側で太陽が昇っているのがわかった。少しずつ、灰色の雲から太陽の光が滲み出してきた。暗く、重い朝だ。濡れた空に包まれて、町中が湿気ている。そして、そんな空に突き刺さるようにのびる塔と、その頂上で眠る鳥。鳥も、錆びた塔も、黒く光っていた。この世の中に黒い光などあるはずもないのに、彼にはそう見えた。それはその頂上にいたカゼのせいだったのかもしれないし、見知らぬ町に突然現れてしまった彼の感情がそう見させたのかもしれない。



 カゼが、目を開いた。朝が来たんだ。塔の上にいるカゼは、いつだって一番に朝を見つけた。

 炎で焼かれたガラス玉のような、そんな目だった。その赤い目は、彼を見ていた。何百メートルも離れた高い塔の頂上だけれど、それくらいはわかった。カゼの赤く燃えるような眼球は、塔の上から彼を見ていた。そしてカゼは伸びをするように羽を広げ、ビリビリビリと鳴いたのだった。まるで何かを破り捨てるような鳴き声が響き、町中の窓ガラスが揺れた。それでも、まだ町は眠り続けていた。

 彼は怯えた。そりゃ見ず知らずの町で、突然あんなバケモノみたいな鳥に睨まれれば、誰だって怖いさ。けれどなんだか彼は、カゼが自分を呼んでいるような気がしたんだ。それはただ〝気がした〟というだけの話で、本当にカゼが呼んでいたのかどうかはわからない。だけれど、誰にだってあるだろう? 〝気がする〟ということが。明日は晴れそうな〝気がした〟り、今日の夕食はクリームシチューのような〝気がした〟り。

 それと同じだ。彼には〝カゼが自分を呼んでいるような気がした〟のだった。



 彼は部屋にあった靴を履き、玄関のドアを開いた。誰のものなのかもわからない靴だったけれど、それはとても履き心地が良く、何年も履き続けた靴のようにすぐに彼の足になじんでくれた。

 ドアの向こうから、音が流れ込んでくる。無数の雨粒が、レンガ敷きの地面を打つ音だ。遥かかなたにある雲からこの町めがけて落ちてきた水滴が、レンガにぶつかりパチンとはじける。その音が重なり合って、まるで電波を受信しないラジオのような音になる。その音が耳の中で反響して、なんだか彼はまだ夢の中にいるような気分だった。


 玄関には傘がなかった。その家には生きていくのに必要そうなものは何だってそろっているように見えたけれど、傘だけはどこを探しても見当たらなかった。だから、彼は雨に打たれながら塔へ向かった。

 灰色の空の下の濡れた道の上を彼は歩いた。靴はすぐにびしょびしょになって、彼が足を運ぶたびに水が染み出した。


 塔へは道に迷うことなくたどり着くことができた。この町で道に迷う人間はいない。とても小さな町だし、どこからでも塔が見えるのだから、迷いようがない。いつだって、塔が自分の現在地を教えてくれる。




 そして、彼は塔に上った。


 塔の脇には梯子が付けられているので、上ること自体はさほど難しいことではなかった。きっと彼が普通の状態だったらなら、あっという間に頂上まで上りきってしまっただろう。しかし、雨の冷たさと、それ以外にあるさまざまな理由で彼の手は震え続けていたから、なかなかうまく梯子を上ることができなかった。そして雨に濡れた梯子は、何度も彼の足を滑らせた。だから彼は落ちて死んでしまわないよう、氷のように冷たいその梯子を強く握り締めなければならなかった。少しでも手を滑らせたら自分の命は一瞬で消えてなくなると思うと、胃液が逆流しそうだった。ついさっきこの町に現れたばかりの彼にとって、自分が消えて無くなってしまうということはとても恐ろしいことだった。過去を失ってしまったばかりで、未来まで失いたくはない。


 やがて凍えた体の感覚は麻痺をしはじめ、梯子を握っている手の感覚が失われると、その恐怖はさらに増していった。


 それでも彼は上った。時々上る手を休め、ふうと息を吐いては、また必死で自分の体を引き上げた。雨に濡れた体が重かった。誰かが下から洋服を引っぱっているんじゃないかと思って下を見るのだけれど、足元にはボロボロに錆びた梯子があるだけで、あとは何もなく、遠くに地面が見えるだけだった。


 彼の体は徐々に雲に近付いていった。分厚い雲だ。まるでコンクリートの天井のようだ。そこから無数の雫が落ちてくる。見上げればそこにカゼがいたが、見上げる眼球を雨粒が打ち、彼が目を開いていることを許してはくれなかった。だから彼はずっと足元を見ながら塔を上った。

 カゼは塔の頂上で、じっと彼を見ていた。


 太陽は――その姿は見えないものの――もう随分と空を明るくしていた。

 そして彼がもう少しで頂上にたどり着こうかという時、カゼはその湿った空気の中へ飛び立った。その時吹いた風によって、何もかもが吹き飛ばされてしまったんだ。朝の眠気だとか、記憶の糸くずだとか、彼の頭の中にあったそういったものすべてを、風が吹き飛ばしていった。彼は塔の上で、遠くからやってくる朝を眺めた。





                    ※


 町の人たちは皆、彼に優しかった。当然だ。皆、彼と同じなのだから。


 この町で生まれた人間はいない。ただ、ある朝、突然現れるだけだ。まったくのゼロだったところに突然、ポンってね。そりゃあ、誰だってはじめは戸惑う。気が付いたら全然知らない町にいたわけだから。でもこの町にとっては、ごく当たり前のことなんだ。だから皆、当たり前のようにそれを受け入れ、当たり前のように共に暮らす。心のどこかではそれが当たり前ではないと知っているのだけれど、そうすることが自分にとっても町にとってもベストであるということも知っている。

 きっと、どこに住んでいる人だって根本的な部分では同じなんじゃないかな。誰もが皆、鏡の前で〝当たり前な顔〟を作ってから、「よし」って言って、玄関の扉を開くんだ。





                    ※


 塔から下りた彼に最初に声をかけたのは、「ヤギ」という名のおばさんだった。


 この町の人々には、名前がない。皆、それを忘れてしまったからだ。しかし名前がないというのはとても不便なものだ。だからこの町の人々は、互いに名前を付けあう。多くの場合、それはその人の役割にちなんで付けられた。

「ヤギ」おばさんは、山羊を飼っていた。毎朝乳を搾り、それをチーズにしたり、バターにしたりするのが彼女の役割だった。




 ヤギおばさんは、自宅の部屋の窓から塔を上る彼を見つけた。雨に打たれながら、その小さな人影は大きな塔の側面を這っていた。ゆっくりとそれが上へと移動していく。まるで木の枝を這うアオムシのように、ゆっくり、ゆっくりと。そしてその頂上にはカゼがいた。這い上がってくるアオムシを赤い目で見つめていた。きっと鳥は虫を食べるだろう。頂上にたどり着くや否や、頭から飲み込んでしまうのだろう。ヤギおばさんはそう思って、彼を見守った。


 もう少しで彼の手が頂上に届こうかという時、カゼは翼を広げた。風が吹き、塔が揺れ、彼も揺れた。カゼは水泳選手のように空の中へ飛び込み、町に朝がやって来た。

 しばらく塔の表面に張りついたまま動かなかった人影もやがてまた動き出し、塔の頂上にたどり着いた。一番てっぺんの鉄骨に手を掛け、体をその上に持ち上げてから、顔を上げてふうと息を吐いた。そのとき、ヤギおばさんははじめて彼の顔を見た。とても遠くの高いところにいるから、はっきりとは見えなかったけれど、それでもヤギおばさんは彼の姿を見て、なんだか懐かしい思いがしたのだった。それがなぜかはわからない。だってヤギおばさんも、昔の記憶をなくしているのだから。


 ヤギおばさんは塔の下へ向かい、そこで塔から下りてくる彼を待ち、迎えた。「ようこそ」というその一言は、彼にとってどんなバスタオルよりも柔らかくて温かかった。



 それから彼はヤギおばさんの家で、温めたミルクをもらった。蜂蜜がたっぷりと入った、甘いミルクだった。彼はカップでかじかんだ手を温めながら、それを飲み干した。体が温まり、指先に感覚が戻ると、そこに痛みが生まれた。

「さあ、暖炉にあたりなさい」

 ヤギおばさんは椅子をふたつ暖炉の前に並べ、ミルクの入ったカップをふたつテーブルの上に置いた。そしてふたりは椅子に座って、火を眺めながら話しをした。なぜだかあの日、彼はとてもよくしゃべった。彼には話すことなんて何もないはずなのに。小さい頃の思い出話も、将来のことも、自己紹介だってできない。彼は空っぽなはずなのに、なぜか言葉だけは出てくるのだった。

 ヤギおばさんは、何度も頷きながら彼の話を聞いた。何度も、何度も、彼に微笑み、そして頷いた。

外でカゼが羽ばたくたびに部屋に風が吹き込んで、暖炉の火が細く揺れた。窓の外の遠くで、ビリビリとカゼの声が響いていた。

 やがて彼の服は乾き、その頃には薪はすべて灰になっていた。それでも彼は時々ミルクを口元に運んでは話し続けた。その部屋に沈黙がやってくるまで、彼は合計三杯のミルクを飲んだ。



 彼はヤギおばさんに礼を言い、席を立った。

「町を歩いてみるといいわ。とても小さい町だからすぐに一周しちゃうはず。古いけれどとてもきれいな町よ」

「はい。そうしてみようと思います」

「皆、いい人たちだから、きっとすぐにこの町が好きになるわ」

 彼はうつむいたまま頷いた。

「今、自分がいる町のことを知れば、きっと今の自分のことも知ることができるわ」


 玄関で、彼はヤギおばさんに聞いた。

「傘を借りてもいいでしょうか?」

 ヤギおばさんは首を横に振った。

「この町には傘がないの。『傘を作る』役割の人がいないから」

 彼はもう一度ミルクのお礼を言い、雨の中を帰った。すぐに彼の服は雨水をいっぱいに吸い込み、家に着くころ、彼はまた凍えていた。

 彼は自分の家に戻り、服を全部脱いでからベッドに入り、しばらく眠った。




 目を覚ますと、もう外は暗くなっていた。窓の外では、どの家の窓からも暖炉の明かりがこぼれだしていた。煙突からは煙が上がり、それはやがて夜空の暗闇の中に消えていった。静かな夜。雨音は鳴り止むことがないのだが、それでも夜は静かだった。

 カゼは塔の上で羽を休めている。雨が激しく体を打つが、目を閉じたまま動かなかった。


 腹が鳴った。カゼの鳴き声のような音をたてて。彼はまだこの町で、たった三杯のミルクしか口にしていなかった。体に力が入らない。力を入れる気にすらならない。だから彼はまた眠りについた。明日、目が覚めたら自分はどこにいるのだろうと不安に思い、もしかしたら元の場所へ戻れているかもしれないと期待をしながら、ゆっくりと眠りに落ち、翌朝また同じベッドの上で目を覚ましたのだった。





                    ※


 ヤギおばさんの言うとおりだった。彼はすぐにこの町が好きになった。町並みは美しいし、風が心地よかった。傘がないことの不便にも、しだいに慣れていった。彼はたくさんの町の人たちと知り合いになり、親しくなっていった。この町では皆がそれぞれの役割を果たし、互いに支えあいながら暮らしていた。

 しかし彼にはいつまでたっても名前が付けられなかった。それは彼が自分の役割を持たなかったからだ。

 だから彼は皆から「君」だとか、「お前」だとかと呼ばれた。まあ、それが彼の名前みたいなものだといえばそうだし、彼自身もそう呼ばれることを嫌ってはいなかった。ただ、早く自分の役割を見つけたいとは思っていた。名前を持たずに暮らすのは、なんとも居心地の悪いものだから。






                    ※


 この町の外には何もない。木も生えていなければ、建物もない。ただ激しい雨と、その雨によって浸食された岩があるだけ。おろし金のような荒地。それが果てしなく続く。足元に広がる荒野と、頭上を埋めつくす雨雲が、平行を保ったまま地平線の向こうまで続く。そして、それらは遥か彼方でひとつに交わる。――おかしいだろ? 平行であるのなら、ふたつは永遠に交わることはないはずなのに。だけれどふたつは、やがてひとつになる。永遠とは、そういうものだ。幾何学的な定義とか、形而上学的な理由とか、そんなものは永遠の前では意味がなくなるんだ。この町の外で、雲と地面は平行を保ったままどこまでも続き、やがて交わってひとつになる。

 その雨雲に終わりはない。だからこの雨は止むことがない。ただ空と地面の間をつなぐように、大きな雨粒が無数の線を描き続けるのだ。



 それは絶望的な景色だった。すべての終わりのような、すべてが終わってしまった後のような、そんな風に彼には見えた。そして彼は毎日塔に上り、美しい町と、その先に広がる絶望を見渡すのだった。






                    ※


 今から20日前のことだ。彼がこの町に現れてから10日後のこと。


 町の端っこに小さな工場がある。民家から少し離れたところ、針葉樹が茂る中。レンガはかなり古いもので、表面には苔が生していた。中では金属がぶつかり合う音が絶えず鳴り続けている。その音を聞いただけで、どれくらいたくさんの機械が動いているのかがわかる。何十トンもありそうな機械が狭い工場の中に詰め込まれ、そこで休むことなく動き続けている。そして、時々聞こえる笑い声。工場の騒音さえかき消してしまうほどの大きな声。それは工場長の声だった。

 工場にはいつもふたりがいた。ひとりは工場長、もうひとりは「スイッチ」と呼ばれる青年だった。スイッチはとても無口だった。きっとこの100日の間に彼の口から出てきた言葉を全部書き並べてみても、原稿用紙二枚にもならないだろう。そんなスイッチに工場長は話し続けるのだった。本当にクダらない話だ。中身なんてこれっぽっちもない。きっと工場長がこの100日の間に話した内容の重要な部分だけを要約すれば、原稿用紙一枚に入りきってしまうだろう。

 そして話の端々で工場長は大声を上げて笑い、スイッチも少しだけ歯を見せるのだった。

 席を並べて作業を続けるふたりは、まるで親子のようだった。もちろん顔も、背格好だってまったく似ていない。それにこの町に親子や家族といったものは存在しない。だけれどふたりは、いつだって家族のようだった。


 彼はよくこの工場を訪れた。他に行く場所がないからというのも理由のひとつだったし、彼にとってこの工場はとても落ち着くところであったからというのも理由のひとつだった。彼は工場で、ふたりの作業の様子を眺めながら、工場長の話と金属がぶつかり合う音を聞くのが好きだった。


 その日も「やあ、まあ座りなよ」と、そう言って、工場長は椅子をひとつ、彼のために用意した。そしていつもどおり話しをはじめた。いつものように軽い口調で、その日はいつもとは少し違った話をした。




「なんでこの町には季節がないか知っているかい?」

 それがその日の話の最初の一行だった。まさか工場長の口からこんなにも興味深い言葉が発せられるとは夢にも思わなかった。

「それはな、この町にはカレンダーがないからさ。皆、今日が何月何日かなんて忘れてしまっているからな。今日がいつかわからなきゃ、カレンダーなんて作りようがないだろ? だからこの町には季節がないんだ。そのせいでずっと雨は止まないし、そのおかげでいつだって過ごしやすい」

 そう言って工場長はいつもと同じ笑い声を上げた。鉄の塊がぶつかり合って工場が揺れ、一瞬だけ天井からぶら下げられた電球の明かりが消え、また点いた。

「でもカレンダーがないってのはいいもんだよ。おかげで俺たちゃいつまでたっても年をとらない。誕生日なんてもんもないからな。年をとるってことほど不幸なことはないもんな。昨日まで39だった自分が、ある日、突然40になっちまう。すごく残酷だよな。崖の上で足を滑らして、落っこちて死んじゃうくらい残酷だ。だからこの町はやさしいよ。すごくやさしい町だと俺は思うぜ」

 工場長は隣りで作業を続けるスイッチに「なあ」と同意を求め、スイッチがうなずくのを見てから付け足した。

「ただ、ひとつだけ寂しいのは、花が咲かないってことだ。季節がなけりゃ花は咲かない。夜が明けなきゃ、誰だって目を覚まさないのと同じだな。こんなにきれいで過ごしやすい町なんだから、あとはきれいな花でも眺めながら酒が飲めりゃ言うことないんだけどな」





                    ※


 今から千日ほど前にスイッチはこの町に現れた。その日の朝、この工場の入り口の前で倒れていた。


 何が起こったのかわからなかった。ここがどこなのかもわからないし、なぜ自分がこんな所に倒れているのかもわからない。ただ頭が割れるように痛くて、体がタングステンのように重たかった。指を一本動かすことすら辛い。呼吸をするだけで体が痛んだけれど、呼吸をやめるわけにもいかない。スイッチはそんな苦痛と共にこの町に現れた。


 地面に頬をつけて、彼はレンガの上で跳ね上がる雨粒を見ていた。空から落ちてきた水滴が、粉々になって弾ける。まるで無邪気な子供達のダンスのようだった。そして風が吹いて、その水滴の欠片を吹き飛ばし、一瞬だけ時間が止まったように静かになってから、また水滴は踊り始めるのだった。スイッチはその様子を眺め、痛みに耐えながら、遠くで鳴るビリビリビリという音を聞いていた。何かが切り裂かれる音。何かが破り捨てられる音。視覚も聴覚もはっきりとしているのに、彼の体はいつまでたっても動くことはなかった。

 そして、工場の前に倒れているスイッチに気付いたのが工場長だった。朝、目を覚まして「ああ、今日は風が強いな」なんて言いながら窓を開けると、そこにスイッチが倒れていた。工場長は家の中にスイッチを運び、ベッドに寝かせて、温めたミルクを飲ませた。そしてスイッチが眠ったのを確認してから、暖炉に薪を足し、工場へ向かった。



 そのころ工場で働いているのは、工場長ひとりだった。毎日、ひとりで工場へ行き、ひとりで機械を動かしていた。だから工場から聞こえてくるのは機械の音だけで、工場長の笑い声が聞こえてくることはなかった。

 ある日、スイッチは工場を手伝いたいと、工場長に申し出た。工場長は「別に、かまわないよ」と答えた。その日から工場には、機械の音に加えて、大きな笑い声が響くようになった。




 スイッチの役割は、工場の機械のスイッチを入れることだ。いくつあるかもわからないくらいたくさんのスイッチをONにしたりOFFにしたりする。スイッチを入れると機械は動き出し、スイッチを切ると機械は止まる。それをスイッチは操っていた。彼の指先ひとつですべてがはじまり、すべてが中断される。それがスイッチの役割だった。






                    ※


 花。


 彼はときどき花を思い出す。薄紫色の花。彼の記憶のどこかで咲いている小さな花。

 きっとそれは何かの思い出なのだろう。しかし、いつのことなのか、どこでのことなのか、思い出すことはできなかった。ただ、遠い思い出――少なくとも、彼がこの町に現れる前の出来事――の中で花が咲き、揺れているのを思い出すのだ。


 記憶とは面白いものだ。自分の名前さえ忘れているというのに、パンを見つければかじりつく。名前なんかよりもっと大事なことは、決して忘れないのだろう。






                    ※


 彼は傘を作ろうと思った。






                    ※


 彼がこの町に現れてから25日後の夜。もう少しでこの町に現れて26日目に入ろうかというころ、部屋の窓が小さく揺れた。カタカタと、ゴキブリの足音くらいの音。彼はその音を聞いて目を覚ました。風が吹くはずのない夜。窓が揺れるはずがない。


 彼はベッドから飛び起きた。暗い夜。月も星も雲の向こうだ。真っ暗な部屋の中に、窓ガラスから染み出すようにわずかな光が差し込んでいた。

 誰かが窓を揺らしたのか。窓から顔を突き出してみても、外には誰もいない。何もない夜。空っぽだった。町は全ての明かりが消えていた。何も見えない。夜の町は、もぬけの殻だった。この町の人はみんな、夜になると姿を消した。一旦、夜に消えてなくなって、そしてまた朝になってこの町に現れる。

 この町は夜になると、もぬけの殻になる。


 彼は夜空を見上げた。暗闇の中に、わずかに赤茶色に錆びた塔が浮かんで見える。その塔の上にカゼの姿はなかった。やはり風が吹いたんだ。カゼが飛んだんだ。この暗闇の中で、いつもは飛ぶことのないこの夜の中を。



 彼は家を出てカゼを探した。分厚い雨雲は、月の明かりを町まで届かせてはくれなかった。真っ黒い空の中で、真っ黒なカゼを見つけることは、砂漠の中に落ちた米粒を見つけ出すことくらい難しかった。実際、彼はカゼを見つけることはできなかったし、もしかしたらカゼは空にいなかったのかもしれない。彼は雨粒を顔に受けながら空を見上げ、塔へ向かった。いつもなら目をつぶっていたってたどり着ける塔も、暗闇の中では手探りをしながらレンガ敷きの道を進まなければならなかった。




 塔の下。四本の鉄骨が地面に突き刺さっている。その四本の真ん中に立って、てっぺんを見上げる。空へと続く、長いトンネルのように塔は空へと伸びていた。それは遠い頂上でひとつだけの点になり、暗闇の中に消えていく。

 見上げていると、彼は空に吸い込まれそうになる。まるで空の暗闇はブラックホールのようだ。雨が落ちてきているのか、それとも自分が空に吸い込まれているのか。夜の暗闇と、塔の錆と、雨粒の歪みが、それすらわからなくさせるのだった。


 鉄骨の縁から滴る雫のひとつが弾けた。まるで誰かに指で弾かれたように、砕けて落ちた。風が吹いたんだ。風が、鉄骨にぶら下がる水滴を吹き飛ばしたのだった。

 彼は周りを見回すのだが、やはりカゼの姿はない。しかし、そのとき彼は見つけたのだった。塔の四本の足のひとつ、その足の土台の上にひとりの少女がいるのを。暗くてそれまで気付かなかったのか、それとも今までどこかに隠れていたのか、もしくはたった今現れたのかわからないが、とにかく彼はそこに少女の影を見つけた。「僕は彼女を知らない」真っ暗だから彼女の顔はよく見えなかったが、影だけでもそれはちゃんとわかった。彼はもうこの町のすべての人を知っていたはずなのに、彼はその少女を知らなかった。

 少女は塔に寄りかかるようにして立っていた。鉄骨から滴る雫を指で触れようとしてまた手を引っ込めたり、雫に顔を寄せて息を吹きかけたりしていた。なんだかその影は笑っているように見えた。


「君、この町の人?」

 彼が聞くと、彼女はその時初めて彼に気付いたようなふりをしてから、小さく頷いた。そして彼女は少しだけ微笑んでから言ったんだ。

「久しぶりね。あなたに会うのは、もう二年ぶりになるかしら」

 そう言うと、ぴょんと彼女は鉄骨に跳び付いて、塔を上りだした。


 彼女はするすると上っていった。梯子も使わずにだ。機械的に組み上げられた鉄骨の凹凸に指や足を引っ掛けて上った。軒を這うヤモリのように。その手足の動きには一切の迷いがなく、一度も休むこともなかった。きっと彼女は次にどの指をどこに引っ掛ければいいのか、足をどこへ運べばいいのか知っているんだ。彼女は塔のことを知り尽くしていた。


 彼は彼女を追いかけた。彼女は彼に会うのが〝久しぶり〟だと言った。〝二年ぶりだ〟と。彼がこの町に現れる前の彼を、彼女は知っていた。彼が知らない彼のことを、彼女が知っているのだ。彼は追いかけた。彼女はとても速く上るのでなかなか追いつけないけれど、きっと頂上で追いつけるだろうから、彼は必死で塔を上った。


 彼が頂上に着いたとき、彼女は塔のてっぺんのいつもカゼがいるところに座っていた。足をぶらぶらと揺らして、空から落ちてくる雨粒を蹴りとばしながら、暗い空を見つめていた。

「ねえ。君は僕のことを知っているの?」

「もちろんじゃない。あなただってわたしを知っているでしょ?」

「僕は何も知らないんだよ。この町に来る現れる前のことは何も。全部忘れてしまって、頭の中が空っぽになっちゃんたんだよ」

「そんなはずはないわ。だって、この町に現れる前も今も、あなたはあなたなのよ。確かに忘れてしまっているのかもしれない。だけれど〝忘れている〟からといって、それが〝知らない〟っていうことではないでしょ。私はあなたを知っているし、あなたも私を知っている。それは永遠に変わらないの。たとえあなたが死んで火葬場の灰になったとしても」



 カゼの鳴き声がした。それが暗闇の中を駆け抜け、町を揺らせた。雲も、そこから落ちる雨粒も、それを浴びる町も、それらすべてを包む暗闇も、ビリビリと引き裂かれ、そして揺れた。

 しかしカゼの姿は見えない。暗闇の中に潜んでいるのか、それとも分厚い雲の上にいるのか。それともどこかすぐ近くに潜んでいるのか。カゼの鳴き声は夜の暗闇の中で、行く先もなく響いていた。

 もしくはその音は、カゼの鳴き声ではなかったのかもしれない。本当に、ただどこかで何かが破れただけなのかもしれない。

 どちらにしてもその夜、この町にカゼの姿を見つけることはできなかった。


「カゼはどこへ行ったんだろう」

「どこにも行っていないわ」

「でも姿が見えない」

「じゃあ、あなたは自分の姿が見える?」

「見えているよ。毎朝、鏡の前で歯を磨いているからね」

「なら大丈夫。カゼはどこにも行っていないわ」



 彼女は相変わらず空を眺めていた。何かを見つめるように。何かを目で追うように。

「僕のことを教えてくれないかな。僕がどこにいたのか。僕は何をしていたのか。僕の名前は何というのか。君が知っている僕のことを教えて欲しいんだ」

「いいわよ。じゃあ、付いてきて」

 そう言うと彼女はぶらぶら揺らしていた足を大きく蹴り上げ、そのまま空中に身を投げ出した。



 彼女は落下していく。雨粒たちを追い抜きながら、遠い地面に向かって。暗闇のせいで地面は見えない。だから彼女はどこまでも落ちていった。遠くまで落ちていって、見えなくなって、彼女はいなくなった。




 遠くでカゼの鳴き声がした。そして少しだけ風が吹いて、塔が揺れた。


 彼が塔を下りると、もうそこに少女の姿はなかった。あるのはただ暗闇と雨音だけだった。






                    ※


 次の日、町が明るくなってから、彼はヤギおばさんのところへ行った。


 玄関のドアを叩くと、おばさんはエプロンで手を拭きながらドアを開いた。「まあ、いらっしゃい」いつもそう言ってヤギおばさんは彼を迎えてくれた。

 椅子を出されて、そこに座ると温かいミルクが運ばれてくる。甘いミルク。ハチミツのいっぱい入ったミルク。

「ねえ、ヤギおばさん。この町の蜂たちは、いったいどこから蜜を集めてくるんですか? 花がないなら、蜜だって集められないはずじゃないですか」

 おばさんは笑いながら答えた。

「そうよね。不思議よね。でもね、蜂たちはちゃんと蜜を集めてきてくれるのよ。どこから運んでくるのかはわからないけれど、ちゃんと蜜を集めてこの町まで帰ってくるの。きっと、町の外のどこか遠くまで集めに行っているんでしょうね。それがどれくらい遠くなのかはわからないし、なぜ蜂たちはわざわざこの町まで戻ってくるのかもわからないけれどね」

「じゃあ、蜂たちはこの町の外へ行っているということですか? 町の外へ行って、帰ってきている。蜂は町の外からやってきて、また外へ戻っていくのですか? だったら僕も、町の外へ行くことができるんですね。僕は元の場所へ帰ることができるんですね」

 ヤギおばさんは、頷く代わりに彼の目を見てにっこりと笑って見せた。

「そうよ。あなたは帰ることができるわ。もちろんわたしだって。町の皆、元の場所に戻ることができるはず。だけれど、あなただってわかるでしょ? それは簡単なことではないわ。だってこの町の外にあるのは、あの果てしない荒野よ。それに自分が帰る場所がどこにあるのかもわからない。行き先もわからないっていうのに、どこまで続くかわからないあの荒野を越えていくなんて無茶よ。そんなこと、きっと羽でもないかぎりできっこないわ」

「でも、できるかもしれない」

「ええ、できるかもしれないわ。でも、それこそがわたしたちにとって悲しいことなのよ。〝できるかもしれない〟っていうことがどれだけ残酷なことだか。わたしだって、あの時はとてもショックだったわ。〝わたしにもできるかもしれない〟っていうことを知った時は」

 そしてヤギおばさんはミルクを口へ運び、小さく「美味しい」と誰に言うでもなく言ってから、話しはじめた。






                    ※


「昔――今から三、四千日ほど前だったと思うわ――ひとりの男の人がこの町にやって来たの。現れたんじゃないわ。〝やって来た〟のよ。自分の足で歩いて、町の外からね。あの荒れ果てた岩の上を、ただ遠くに見える塔だけを目印に歩いて来たって言っていたわ。激しい雨に打たれながら、何日も何日もかけてね。

 彼は何も忘れてはいなかった。自分の名前も、どこからどうやってここへ来たのかも、ちゃんと知っていたわ。ちょうど今のあなたと同じくらいの歳だったと思う。あまり笑わない人だったけれど、とても感じのいい人だったわ。名前は……何て言ったかしら。忘れちゃったわ。とても短い名前だったのに。思い出せないわ。

 その人はしばらくこの町に住みたいって言うの。もちろん皆、歓迎したわ。この町に人を拒むような人なんていないもの。それでね、ちょうど誰も使っていない小屋があったから、そこに住んでもらうことにしたの。ほら、工場の裏に今でもあるでしょ。あの小屋よ。今はもう古くて誰も住めないような小屋だけど、あの頃はまだしっかりとしていたわ。

 わたしは彼を小屋まで案内して、暖炉に火を入れてあげたの。そして彼が服を乾かしている間に、ベッドの埃をはたいて、テーブルを拭いて、窓を磨いたわ。工場の機械の音がずっと聞こえていて、なんだか賑やかだった。部屋はすぐにきれいになって、わたしも暖炉の前に座ったの。そしたらね、彼はポケットから小さな袋を取り出したのよ。『何? それは』って聞いても、『ふふふ』って笑うだけだった。けれど、中身はすぐにわかったわ。


 それからその人はね、種をまいたの。その袋の中から小さな種を一握り取り出して、外に出て行ってね。せっかく服が乾いたばかりだっていうのに、またびしょ濡れよ。それで小屋の周りにその種をまいたのよ。パラパラパラって。まるでビーフステーキに塩こしょうを振るみたいにね。

 数日すると芽が出て、それがにょきにょきと伸びて、30日後には花が咲いたわ。小さな花だったけれど、とてもきれいだった。町の皆はとても喜んだわ。いつ以来なのかは思い出せないけれど、花を見るのはとても久しぶりだったから。


 でもね、彼はせっかく咲いた花を全部摘んじゃったの。はさみでチョキチョキってね。華やかだった小屋の周りは、すぐにまた緑の草だけになったわ。だから、わたしたちがお花を見られたのは、その日の朝のうちだけ。夢を見ているより短い間だったわ。

 そして彼は、大きな花束を作ったのよ。とてもきれいな花束。畑に咲いているお花を全部、ぎゅっとひとつにまとめたんだもの。それはそれはきれいだったわ。

 そして、彼はそれを持って塔に上ったの。片手に花束を持ってだから、上るのはとても大変そうだったけれど、とても大事に、花を胸に抱いて守るようにして上っていたわ。

 それでね、頂上に着いて何をするのかと思ったら、そこに花束を置いてすぐに下りて来るのよ。てっぺんのところにポンって置いて、そのままスルスルってね。


 翌日の朝、花束はボロボロになって塔の下に落っこちていたわ。きっとカゼに突っつかれたのね。花びらは全部食べられてしまったみたいで、茎と葉っぱの切れ端だけが塔の下に散らばっていたのよ。せっかくのお花だったのに。でも彼は何も言わなかった。むしろ笑顔を作って、うれしそうにすらしてその花束の残骸を見ていたわ。変よね。せっかく作った花束なのに。わたしは残念でしょうがなかったけれど、彼は笑っていたのよ。



 あの人がこの町からいなくなる日の午前中、彼は工場へ行って、ずっと工場長としゃべっていたわ。彼がこの町にいたのは短い間だったけれど、ふたりはとても仲良くなっていたから。歳も近かったみたいだし、すぐ近くに住んでいたわけだしね。あの頃はまだスイッチが現れる前だったから、工場には工場長ひとりだけだった。でもあの頃から工場長は〝工場長〟だったわ。皆からも〝工場長〟って呼ばれていた。

 ふたりは随分と長いこと話しをしていたわ。いつもは機械がうるさく動いている工場から、あの日だけは何も音がしなかった。工場長が機械を止めたのよ。だってそうようね、あんなにたくさんの機械が動いていたら、うるさくてまともに話しもできないものね。わたしも、もう随分と長いことこの町にいるけれど、あの工場が静かだったことなんてないわ。でもあの日の午前中だけは、工場から何の音も聞こえてこなかったの。それでね、あんまり長いこと話しをしているもんだから、町の皆も『いったい、何の話をしているんだろう』なんてそわそわしだしたころに、工場からふたりの大きな笑い声が聞こえてきてね、それから工場の機械が動き出したの。そして彼は工場から出てきて、小屋に戻って行ったわ。


 その日の午後、彼は工場の裏の、小さな小屋の脇の、花を全部摘まれた花畑を片付けていたわ。残っていた草も全部根っこから抜き取って、畑はまっ平らに均されて、それでこの町からはまた花がなくなったの。まさに根こそぎね。その日、あの小屋の煙突からはずっと煙が昇っていたわ。彼は抜き取った草を全部暖炉に投げ込んだの。わたしたちは風に吹かれて散り散りにされていくその煙を、淋しい思いで眺めたものだわ。

 そして彼は、その日の夜にこの町からいなくなったの。誰も町を出ていくあの人を見てはいないけれど、きっと夜のうちに元の場所へ帰って行ったのよ。きっとこの町に来た時みたいに、あの荒地の上を歩いて」






                    ※


 工場のすぐ裏、レンガ造りの小屋が建っている。〝どうにかこうにかようやく立っている〟といった感じだ。朽ちかけたレンガたちが、互いに寄りかかるようにして支えあっていて、ひとつでもレンガを抜き取ったら、あっという間に崩れて、小屋はなくなってしまうだろう。子供が積み木で作った家くらい、その小屋は不安定だった。

 窓ガラスは湖の水のように濁り、中を覗くことはできない。どんなにガラスに顔を近づけてみても、ただ青臭い匂いがするだけだった。

 彼は小屋のドアを開いた。ドアに鍵はかかっていなかったし、この町に鍵を作る役割の人間はいない。


 小屋の中ではベッドとテーブルがひとつずつ、椅子がふたつ、埃と蜘蛛の巣の中にあった。暖炉の中では湿気を吸った灰が固まって、ひとつの石となっている。湿った空気。天井にはたくさんの水滴が張り付いている。曇った窓は光を通さず、室内は薄暗く、淀んだ空気が満ちていた。

 そしてテーブルの上には花瓶がひとつ。小さなテーブルの真ん中に一本だけ立つ鉄の花瓶。表面は黒ずんでいて、光沢はもうない。それがまるでこの町のようで、彼はなんだか悲しい気持ちになった。まるでカゼになったような気分だ。空からこの町を見下ろすカゼの気分に。ふーっとテーブルに息を吹きかけると、みぞれのような埃が重たく舞い上がって、またすぐにテーブルの上に戻った。

 その花瓶の中。そこには一輪の花が挿さっていた。花びらは完全に枯れきっていて、蛾の羽のような色になっている。ドライフラワーとも呼べない花の死骸。湿気を吸っているのに、みずみずしさはかけらもない。しかし、それはまぎれもない〝花〟だった。


 彼は椅子の埃を払って、そこに腰を下ろした。硬くて、座りにくい椅子だった。目の前にある枯れた花を見ながら何かを思い出そうとするのだが、何も思い出せない。自分が何を思い出そうとしているのかすらわからなかった。考えたって何も浮かばない。けれど目を閉じると、あの花が目の前に浮かぶのだった。

 薄紫色の花。甘い香りがする。花の香りが風に乗って流れてくる。やがて声が聞こえてきた。少女の声だ。彼が知っている、あの少女の声だった。

「今日はとてもいい天気ね。ほら、空があんなに青い。葉も茂っているし、蕾もだいぶ膨らんできたわ。もう少しで花も咲くわね。……ああ、風が気持ちいい。きっと明日には花が咲くわ。きっと」

 彼は目を閉じたまま、――だって目を開いたって何も見えるはずがないのだから――少女に言った。

「君は誰なんだい?」

「何を言っているのよ。あなたはわたしに、あんなにきれいな花束をくれたじゃない。あなたがくれるお花は、いつだってとてもきれい」

「君はどこにいるの?」

「わたしは空にいるわ。今だってあなたのすぐそばを飛んでいるわ。ほら、風に吹かれて花が揺れている。風があなたのところまで香りを運んでくれるわ」

 強い風が吹いて窓ガラスが揺れる。隙間風が小屋の中に吹き込んで、花びらが揺れた。

彼が立ち上がろうとした時、彼の足がテーブルにぶつかって、花瓶が倒れた。花瓶は床の上に落っこちて、テーブルの下で枯れた花びらは散った。


 暗い。もう日が暮れたのだろうか。いや、まだ夜になるには早い。何よりも、まだこの町に風が吹いている。

 彼は椅子から立ち上がった。硬い椅子に押し付けられていた腰がポキポキと鳴った。テーブルの下には花の死骸。それを拾い上げようとしたとき、彼は床の上に種を見つけた。花の種。しかしもうそれも芽を出すことはないだろう。この町には季節がないんだ。だからこの町に花は咲かない。





                    ※


 翌日。いつもどおり塔に上って町を見回してから、彼は工場へ向かった。

 その日、工場に工場長の姿はなく、スイッチがひとりで作業をしていた。騒がしい工場。だけれど、工場長の笑い声はない。

「こんにちは」彼が言うと、スイッチは顔を上げて微笑んだ。「やあ、よく来たね。まあゆっくりしていってくれよ」という言葉をスイッチは口に出さずに言った。きっと口に出したところで、それは工場の騒音にかき消されてしまうだろうから、スイッチはこの工場で一番確実な意思の伝達方法を選んでいるのだろう。

 彼は工場長がいつも座っている椅子に腰を下ろし、工場を見回した。たくさんの機械が動いている。ベルトコンベアの上には鉄の塊が並び、その周りで歯車が回り、ピストンが上下や左右に動く。鉄の塊たちは、叩かれたり伸ばされたりしながら次々と流されていく。スイッチはそれらを管理しているのだ。どの鉄の塊がいまどこでどんな形になっているのか、次にどんな形になっていくのか、スイッチはそれを知っている。


「工場長はどうしたんですか?」

 彼が聞くと、スイッチは肩をすぼめて首を二回横に振った。

機械は動き続けた。工場長のいない工場は、それでも動き続けていた。


 彼が帰ろうと腰を上げようとしたとき、スイッチが口を開いた。優しいが、太い声。工場の騒音にだってその言葉の輪郭を削り取られることはないしっかりとした声で、スイッチは話した。彼がスイッチに話しかけられたのは、これがはじめてのことだった。

「君は、塔の上でいつも何を見ているんだい?」

 それがスイッチの質問だった。

「何も見ていませんよ。少なくとも、僕が見たいと思っているようなものは今まで一度も見えたことがありません」

 スイッチは声を出さずに笑った。口を開かずに、そして目を糸のように細めて笑った。それからまた、彼の前に並ぶたくさんのスイッチを点けたり消したりしながら話し続けた。



「実は僕も、一度だけあの塔に上ったことがあるんだ。あれは僕がこの町に現れてから100日くらいしたときだったかな。なんだか急に、すべてが嫌になってしまったんだ。この町も、この工場も、この自分自身も、すべてがね。毎日が同じことの繰り返しでさ。きっとこれからもずっとこの毎日を繰り返すのかって思ったら、もうどうしようもなくなっちゃってね。『僕がいる場所はここじゃない』『ここで一生を終えるのなんてごめんだ』って、頭の中で僕自身が叫んでいるんだよ。僕の知らない僕が、僕に向かって怒っているんだ。それでね、自殺をしようと思ったんだよ。まったく、今考えればとても楽観的な発想だったと思うよ。死んだらすべてが終わるとでも思ったんだろうね。死んで、次に目が覚めれば元のところに戻っているかも、なんてね。とにかく僕は『よし、自殺をしよう』って、そう決心をしたんだ。でもさ、人間っていうのはわがままなものだよ。『もう、どうなったっていい』って口では言っているくせに、頭の中では『一番楽な死に方はどれかな?』って考えているんだ。腹を切るのは痛いだろうし、毒なんてこの町にはない。じゃあ、どうやって死ぬのがいいんだろう? それでね、僕は塔に上ったんだ。きっとそれがこの町で一番楽な死に方だろうって思ってね。ヒューって落ちて、地面にドスンで終わりだからね。

 下から見るととても高く見える塔だけれど、上ってみると意外と簡単に頂上までたどり着けたよ。ただ右手と左手を交互に上に伸ばせばいいだけだからね。ただそれを繰り返しているだけでいいんだ。そうしたら僕は塔の頂上に到着することができた。

 塔の頂上で、僕は初めてこの町を見下ろした。きれいだったな。自分の住んでいる家が見えて、この工場が見えてね。この町は、皆びしょびしょなんだ。表面がつやつやでデコボコでさ、まるで流れる川の水面みたいなんだよね。それで僕は『ああ、きれいだなあ』って、しばらく町を見下ろしていたんだよ。『ちょっと一休みしてから飛び下りよう』って、自分に言い訳してみたりしながらさ。別にこれから死ぬんだから、休憩なんか必要ないのにね。

 それでしばらくぼーっとしていたら、急に頭の上でビリビリビリって声がしたんだよ。びっくりしたよ。鼓膜を誰かに噛みつかれたのかと思うほど大きな声だった。見たら、僕のすぐ真上をカゼが飛んでいたんだ。

 カゼはとても大きかった。大きいってことくらい知っていたけれど、それでも驚くくらい大きかった。それが僕の頭のすぐ上で翼を広げていたんだ。僕はカゼの影の中にいた。まるでブラックホールに飲み込まれてしまったような気分だったよ。カゼの翼はそれくらい黒くて、大きかった。

 カゼの目は真っ赤でね。僕はぞっとしたよ。考えてみたら、あんなにも赤いものを見るのは、かなり久しぶりなことだった。この町に、あんなに真っ赤なものなんて他にない。この町には色が少ないんだ。皆、灰色や茶色ばっかりで、それ以外の色も全部雨でにじんでいる。なんだかはっきりしない色ばかりなんだよね。だからカゼのあの目を見たとき、僕は目が覚めるような思いだった。

 それでね、僕は少しだけ思い出したんだ。僕が昔いた場所を。

それはとても暑いところだった。太陽がカンカンに照っていてね。地平線が陽炎になって揺れているんだ。僕は汗をいっぱいに流していた。前髪の先からしたたり落ちるほどだよ。洋服だってもうびしょびしょだ。そうして僕はどこかを目指して歩いていた。

 それだけ。たったそれだけで、あとはやっぱり何も思い出せなかったけれど、カゼの目を見て僕はそれを思い出したんだ。

そしてそんな僕の頭の上で、カゼは羽をはばたかせた。それはそれはすごい風だったよ。体のすべてが持っていかれそうなんだ。クジラに飲み込まれる小魚の気持ちがよくわかった。僕は必死で塔にしがみついた。『吹き飛ばされてなるものか』って、鉄骨にぎゅっと抱きついたんだよ。

風がやんだとたん、僕はなんだか恥ずかしくなっちゃってね。それでそのまま塔を下りて、工場へ戻った。

 あれ以来、僕は一度も塔には上っていないけれど、今でもあの時眺めたこの町の風景が忘れられないんだ。

 それでさ、毎朝塔の上の君を見て思うんだよ。『彼は今、何を見ているのかな?』ってね」

そしてスイッチは口を閉じて、少し恥ずかしそうに笑った。「ちょっとしゃべりすぎちゃったかな」って、口を閉じたまま言った。





                    ※


 工場長はどこにもいなかった。工場長の家にも、工場の倉庫にも、工場の裏の小屋にも。ヤギおばさんに聞いてもわからなかったし、町の誰も工場長の行方を知らなかった。そして、ようやく工場長を見つけることができたのは、その日の夕方――空の半分以上が黒く染まったころだった。

 工場長は町のいちばん端っこにいた。

 この町が終わるところ。この町の外がはじまるところ。そこにはきれいに線が引かれていて、見えないけれど目には壁があるんだ。その線の内側に工場長はいた。町の外の、西の空のまだ黒くなっていない部分をずっと見つめていた。

「こんなところで何をしているんですか?」

 彼が聞くと、工場長はしばらく黙っていたけれど、振り返って答えた。

「いやあ、なんだか懐かしいなあって思ってさ」

「懐かしい?」

「そう、〝懐かしい〟んだ。まだこの町に現れたばっかりのお前にはわからないかもしれないけどな、長いことこの町にいれば、それはそれでこの町での思い出ってもんができるんだよ。俺はもう随分長いことこの町にいるからな。思い出だっていっぱいだよ」

 そう言って、大きな笑い声をあげた。

「あの小屋に住んでいた青年の思い出を、僕に教えてくれませんか」

「ああ、あいつのことか。どうして?」

「その人はこの町の外からやって来て、またこの町から出ていったそうじゃないですか。僕も、この町の外へ行きたいんです。僕は帰りたいんです。そのために、その人のことを教えてほしいんです」

「そうか。でもな、俺も何も知らないよ。あいつがどこからどうやってここに来て、どうやって帰っていたのか。俺たちは一度だってそんな話しをしたことはなかったからな。

 まあ、でもとにかく歩いたんだろうよ。『どうやってここに来たのか?』って言ったら、『ひたすら歩いて』だよ。あいつは『ここに来なきゃいけなかった』って言っていたし、『帰らなきゃいけない』って言っていたからさ。どうやってかは知らないけど、どうにかして、そうしたんだろうな」





                    ※


 彼はそれから毎日、小屋へ行った。そして薄暗い部屋の中で椅子に座って、じっと灰のたまった暖炉を見つめた。

 きっと彼は、あの少女を待っていたのだろう。自分はどこにいたのか、何をしていたのか、自分の名前は何か、まだ彼女から何も聞けていなかったから。しかし、いつまでたっても少女の声は聞こえてこなかった。




 今から三日前の朝、彼が塔に上った時のことだ。


 その日も、いつもと同じようにカゼは町の上を飛んでいた。翼をいっぱい広げ、空気の上に乗っかるようにして滑空をした。音も立てず、カゼは町の上をあっという間に一周して見せた。

 穏やかな朝だった。塔の上から、町の皆が目を覚まし、窓を開けて伸びをするのが見えた。きれいに並んだ煙突からは煙が上り、まるで雨雲を支えるたくさんの柱のようにまっすぐ真上に向かって伸びていた。


 突然、カゼが羽を動かした。とても激しく。まるで湖で溺れる子供のように、羽をバタつかせた。羽に染みこんだ雨水が飛び散り、町にはつむじ風が起こった。カゼはそのまま上昇をしていった。もがきながら、上へ上へ這うようにして上っていった。つむじ風はカゼの尻尾の先から町の地面へとつながっている。それがどんどん長くなり、塔より高くなって、やがて雲にまでたどり着いた。

 カゼはそのまま雲を突き抜けて行った。その時、雲に穴が開いたんだ。

 ほんの一瞬だけれど、雲の隙間から青い空が見えた。真っ青な空。澄み渡った空。それが、ちゃんとそこにあった。カゼはその空に飛び出して、そこで何かを吐き出した。それでやっとカゼは落ち着きを取り戻し、空気の上で羽を休めた。

 カゼの嘔吐物はふわふわと雨雲の上に落ち、それを突き抜けて町の上に舞い降りた。紫色の花びら。それが町に落ちていく。たった一枚の小さな花びらだけれど、それが彼にとってどれだけの救いであったことか。永遠に続く雲。永遠にやまない雨。だけれど、その向こうには青空がある。この町は絶望にだけ包まれているんじゃない。その向こうにはしっかりと希望がある。たとえその希望の向こうにはまた絶望があろうとも、それは彼が決心をすることの妨げにはならなかった。





                    ※


 彼が塔から下りると、そこにはヤギおばさんがいた。彼がはじめてこの町に現れて、この塔に上った時と同じように。

 彼は言った。「僕、行くことにしました」

 ヤギおばさんは驚いた顔をしていた。彼が突然何を言い出したのか、理解するのには時間が必要だった。そしてヤギおばさんは、ゆっくりと彼の言葉を理解していった。だんだんと驚きの表情は緩み、やがてそれは微笑みに変わった。ゆっくりと、まるで季節が移り変わっていくかのように。

「残念ね。せっかく皆とも仲良くなれたのに」

「はい。僕も皆さんとお別れをするのは寂しいです。もし僕がどこかにたどり着けたとして、その時にまだこの町のことを覚えていられるのかもわかりません。また全部を忘れてしまうとしたら、それは本当に辛いことです。でも、僕は行こうと思います。〝行かなくちゃいけない〟とかそういうわけじゃないけれど、〝行こうと思う〟んです」

 ヤギおばさんは、何度も頷きながら彼の話を聞いた。


 その日の夜、彼はまた小屋へ行った。真っ暗な小屋の中で火のない暖炉を見つめていると、ドアが開いた。

「おう、やっぱりここだったな」工場長の声だった。

 暗闇の中に工場長の影がわずかに浮かぶ。その小さくて丸い輪郭が小屋の中に入ってきて、暖炉の灰をスコップで捨て、新しい薪をくべて、火を点けた。部屋の中に明かりが灯り、工場長の顔が笑っているのが見えた。

「お前、行くんだってな。ヤギから聞いたよ」

 彼が頷くと、工場長は大きな声で笑った。

「そうだよな。俺もお前がいつかはそう言うだろうって思っていたよ」

 そう言うと工場長は一本の花瓶を差し出した。鉄でできた花瓶。まだ新品で、鏡のように光っていた。

「工場長は、ずっとこの町にいるんですか?」

「ああ、俺たちはこの町の一部だ。だからここにいるし、ここにいるべきなんだよ。ある日突然、自分の眉毛が『僕、他の人の顔に行きます』って言って、ひょいっとどこかに行っちまったら困るだろ? この町はいい町だし、この町の人間は皆いい奴らだ。だから俺は、ここでこの工場を動かすよ」

 工場長がこんなに真面目な顔をして話すのを、彼ははじめて見た。

「これでも持っていってくれよ。うちの工場で作った花瓶だ。花の咲くところに帰ったら、使ってくれな」

 細い花瓶の首には、長く伸びた彼の顔が映っていた。






                    ※


「僕はこの町に来たことがあるような気がするんだ」

 これは二日前、彼が言った言葉だ。





                    ※


 そして昨日、彼ははじめてこの町の外に出た。


 塔の下から続く、レンガ敷きの道。塔が張った根のように、曲がりながらも放射状に伸びていく。その道が終わるところが、この町の終わりだ。彼はその境界線をまたぎ、外へ出たのだった。


 彼は歩いた。ごつごつした岩の上はとても歩きにくかったし、雨に濡れてとてもよく滑った。岩の凹凸をよじ登り、跳び下りては、またよじ登る。彼は両足と両手の四本を使って歩かなければならなかった。〝歩く〟というよりは、〝這う〟と言ったほうが近いかもしれない。右手に持った鉄の花瓶が邪魔で仕方がなかったけれど、それでも彼は花瓶を握り締めたまま、塔に上る時と同じように一歩一歩手足を動かして岩の表面を進んだ。

 背中を雨が打ちつける。激しい雨だ。雨粒はとても重たくて、彼は岩の上に体を押し付けられそうになる。きっと少しでも力を抜いたら、彼は雨に押しつぶされ、尖った岩に腹を刺されて死んでしまうだろう。彼は必死で岩の上を這った。

 遠くにカゼが見えた。塔も見えた。随分と進んだのか。それともまったく進んでいないのか。カゼと塔は、彼から遠近感を奪った。



 半日が過ぎた。もうすぐ日が暮れる。

 塔がはるか遠くに見える。いつもは雲の上まで突き刺さっているように見える塔も、遠くから見れば、指先にできたただのささくれのようだった。

 遠くから夜が迫ってくる。逃げても、逃げても、逃げ切ることはできない。やがて夜は塔を飲み込み、町を飲み込んで、彼を飲み込んだ。


 真っ暗な荒野で彼はひとりだった。

 何もない。そこにあったはずの激しい雨と、岩と、絶望さえも、今は夜に飲み込まれて消えてしまった。残されたのは〝感覚〟だけだ。冷たさ、重さ、痛み、雨音……。暗闇はとても柔らかかった。まるでカゼの羽の中に包まれたようだ。町も、荒野も、すべてがその中に包まれて、ひとつになる。そう、すべてはひとつなんだ。はじめから今まで、ずっと。彼も、彼女も、町も、すべてはひとつで、それぞれがそれぞれの部分として互いの存在を支えあっている。まるであの塔を組み上げる鉄骨のように。彼は町を出はしたけれど、それでも暗闇の中からは抜け出すことはできない。なぜなら、彼が歩いているのは道ではないから。彼はどこにも向かってはいない。彼は彼の中を歩いている。そこで彼は町にたどり着き、塔に上り、彼に出会い、そして彼女に出会う。



 声がした。少女の声だ。とても無垢で、それでいてすべてを破り捨てるような怖さも持つ、そんなきれいな声。彼にはそれが鳥のさえずりのようにも聞こえたし、激しいノイズのようにも聞こえた。

「ねえ、どこへ行くの?」

「わからないよ。でもとにかく行くんだ。きっと、そこにたどり着いたときに、そこがどこなのか思い出すよ」

「そう、残念ね。せっかくまた会えたのに」

「きっとまた会いに行くよ。僕がぜんぶ思い出したら、きっとまた会いにね」

「ええ、待っているわ」

「うん。きっとまた、あの塔の上でね」


 それっきり声は聞こえなくなった。

 その夜、彼は雨の中で眠った。一度だけ夜中に激しい風が吹いて目を覚ましたが、その後は朝になるまで一度も目を覚まさなかった。




 朝。


 彼はどっちへ進めばいいのかわからなかった。塔が見えない。昨日までは小さく見えていた塔が、今朝は見えないんだ。彼はこの何もない荒野の中で、方角すらなくしてしまったのだった。

 しかし、それでも彼は歩いた。彼が移動する手段は、歩くこと以外になかったからだ。何度も岩の上で足を滑らせ、両肘と両膝の四ヵ所から血が流れていた。きっとそれ以外の場所からも血が出ていたのだろう。体中がずきずきと痛んでいた。けれども彼は歩くしかなかった。今の彼にとってするべきことは、歩くことだけだから。町の外の何もない荒地では、人はただ歩くしかないんだ。それ以外にすることなど何もない。だから彼は歩いた。



 岩と岩の隙間にある薄紫。彼は、荒野の中でそれを見つけた。まわりには何もないというのに、そこにだけ色があった。わずかながらも、匂いがあった。

 彼は花を摘み、また歩き続けた。花瓶の中には雨水が溜まっていたので、その中にそれを挿した。





                    ※


 やがて遠くに塔が見えてきた。とても高い、鉄の塔だった。


 彼は町の境界線をまたぎ、町の中を進んだ。レンガ造りの家が並ぶ町。まるでずっと昔から知っている場所であるかのように、彼はその町を歩いた。空には一羽の鳥。とても大きい。黒い体をしていて、するどく尖ったくちばしを持っていた。

 町の人たちは皆、彼を見た。傘を差して家の外にまで出てきて、彼の手の中にある花瓶と花を見た。花は町に甘い香りを漂わせた。

 町のはずれに花壇があった。花壇といっても、花は咲いていない。ただ石を四角く並べて土を耕しただけの、とても小さな花壇だ。その脇に、ひとりの男が立っていた。

男は「やあ」と彼を迎え、そして言った。

「お帰り。あれからもう二年になるな」

 彼は答えた。

「ああ、もう二年も経つんだな」

「そうだよ。彼女が死んでから、今日でぴったり二年。そして、お前が『花を摘みに行く』って言ってこの町を出てから、明日でちょうど二年だ。間違えるはずがない。しっかりとカレンダーに印を付けているからな」

 そして男は、彼に傘を差し出して言った。

「さあ、彼女のお墓へ行って来いよ。そのために帰ってきたんだろ?」

 彼は傘の中で濡れた花瓶の雫を払ってから、小さく頷いた。


 彼が向かったのは塔だった。塔へと続く長い道を、彼は傘を差して歩いた。時々、風が吹いて傘を持っていかれそうになったけれど、彼は強く傘を握って歩いた。

塔は雨に濡れて、冷たく光っていた。表面は赤く錆びているというのに、つやつやとしている。彼はその前に花を置き、目を閉じた。雨粒が鉄の花瓶を打ってチンチンと鳴った。彼は塔の足に手を触れ、目を閉じ続けた。


 目を開くと、彼は塔に上った。傘を放り捨て、鉄骨に跳びついた。塔に梯子は付いていなかったけれど、それでも上るのは簡単だった。彼はまるで塔の表面を歩くようにして塔を上っていった。


 空には鳥がいる。塔の下で、開いたまま捨てられた傘がふわふわと風に流されている。雲はどこまでも続いているし、雨は止まない。


 やがて彼は頂上にたどり着いた。塔の上から眺める町はとてもきれいだった。町のすべてが光っている。太陽は雲の向こう側に隠れたままなのに、なぜだか町はピカピカと輝いていた。もしかしたら、その時の彼の感情がそう見させたのかもしれない。

 彼が見たかったのは、どんな景色だったのだろうか? 塔のてっぺんに上って見ようとしたものは? きっと彼は自分自身を見ようとしていたのではないだろうか。キラキラと鏡のように光る町に映った、自分の姿を。自分はあらゆるところに同時に存在し、それぞれの自分が互いを探している。皆、自分だ。死んでしまったのも、突然どこかに現れたのも、どれも皆、自分自身なんだ。




彼は空を見上げた。その先には鳥がいた。

「久しぶりだね。君に会うのは、もう二年ぶりだ」

彼が塔の頂上でそう言った時、彼の頭上で鳥が羽ばたいて、彼はその風に吹き飛ばされ、塔から落っこちた。



 彼の体は落ちていく。途中で塔の中に組まれた鉄骨に何度かぶつかって、地面に着くころにはもう既に死んでいた。




これでこの話は終わりだ。



しかし問題なのは、僕は自分のことを何も知らないということだ。こうして彼のことを話してはいるものの、僕は僕自身については何ひとつとしてわからないんだ。自分の名前も、自分が今いるここがどこなのかも、どうして僕が彼のことを知っているのかも、全部わからない。




そして彼がいなくなってから、僕の周りは真っ暗になって何も見えなくなってしまった。ビリビリビリと何かが破けるような音がたった一度したっきりで、それから聞こえるのは、ただ雨音だけだ。


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[良い点]  ,',','个o(^o^)丿,',',',',',  雨の表現が好きです。登場人物たちの移ろい続ける曖昧で雑多で謎に満ちた関係性。百年の孤独のような不思議な世界観に惹きこまれました。
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