第一章 向日葵(ひまわり)の季節 ①
蒸し暑くて薄暗い理科室の中で、僕は女の子と二人っきりの昼休みを過ごしていた。
っていってもテーブルをはさんで碁を打っているだけなんだけどね。
手を伸ばせば届きそうな距離に、栗色の髪をツインテールにした女の子が座っている。
僕は少し赤くなっている顔を見られるのが嫌で、ほとんどうつむいたままだった。
彼女のかすかな息づかいが聞こえるだけで胸が高まる。腕を組んだり首をひねったりする時の衣擦れの音が聞こえるたびに、頭がどうにかなってしまいそうになる。
ああ僕はきっとヘンタイなのだ。いわゆるムッツリスケベというやつだ。
僕、時田悠は今、我ながらとてもじれったい片想いをしていた。相手は僕が部長をつとめる囲碁将棋部の後輩、目の前に座っている彼女だ。
名前は日向葵。あだ名はひなちゃん。
僕は最初、彼女の名前を「ひまわり」と間違えて読んじゃった。彼女は素直で明るくて、それこそ大輪の向日葵ように元気いっぱいに笑うんだ。
僕みたいに陰気な先輩相手でも、ひなちゃんは全然気にせず話しかけてくれる。囲碁どころか将棋のルールさえ知らなかった彼女は、僕のヘタクソな説明でさえも好奇心まんまんの笑顔で聞き入ってくれた。
女の子が僕だけに笑顔を向けてくれるなんて、いったい何年ぶりの事だっただろう。僕はその一瞬で彼女の笑顔に心をうばわれたんだ。
ピシッ。
気がつくと僕は盤面に石を打っていた。ぼんやりと妄想にひたりながら打ったその手は、まったく意味のないでたらめな一手。これで部長だってんだから我ながら嫌になる。
でも初心者のひなちゃんは今の悪手が分かっているのかいないのか、うーんと可愛らしくうなっている。
チラッと表情をうかがってみると、彼女は眉毛を八の字にゆがめて悩んでいた。
悩んでいる顔も可愛い!
……とか思ってしまう僕は、やっぱりヘンタイだ。好きな子が悩む姿を見て喜ぶって、どんな趣味だよまったく。
ちなみに我らが囲碁将棋部の部員は、実質的に僕たち二人だけ。他にも在籍している人はいるんだけど、全然参加しようとしないから僕たちだけと言い切ってしまって良いだろう。
部の活動日時は月~金曜日の、しかも昼休み限定という堕落っぷり。部長の僕がいうのもなんだけど、典型的な廃部寸前のダメ部だと思う。
でも、そんないい加減で楽な部活だからこそ、僕はひなちゃんに出会えた。
彼女は他にもいくつか部活動をかけ持ちしていて、いつだって忙しそうにしている。
現在ほかにやっている部活はバスケに園芸、美術とアニメ・漫画研究などなど……。
そんな彼女だから早朝と放課後の予定なんかはだいたい毎日埋まっている。だから昼休み限定というユルユルな我が部は、とても都合が良かったらしい。
おかげで僕はこうして週に五日、数十分だけ彼女と二人きりの時間を過ごせている。
……彼女はどうやら次の一手を決めたようで、碁石をつまみ上げた。
「なんかぁ、センパイとこうやってのんびりパチパチやっているのって、いいですよね」
「そ、そう?」
思わぬ一言に、期待ととまどいを抱く僕。
「はいー、なんか『身も心もスローモーション』ってかんじ? ふああ……」
大あくびをするひなちゃんを見て、僕は内心ガックリきた。
どう考えてみても恋の情熱みたいなものをふくむ言葉じゃないよね。スローモーションって、
それじゃあまるでお爺さんお婆さんじゃないか。まあやっているのは囲碁だけどさ。
つまり、やっぱり、結局。
愛されてないってことだよね、僕。
パチッ。
安物の碁盤に乾いた音が響いた。
彼女の可憐な指先が、黒ずんだ安物の盤上で鮮やかに映えている。
細くて小さな白い指、桜色の爪、こんなのをマジマジと見ていたら胸のドキドキが激しくなってしまう。
ああ、わかっている。きっと今の僕は恋愛補正が強すぎて、ひなちゃんのことなら何でもかんでも好ましく思えてしまうんだ。
でもしょうがないでしょ。
恋心って、そういうものでしょ。
胸の奥にわきあがるモヤモヤした想いが急速にふくれ上がって、ため息となって口からあふれ出そうになる。
「グェップ!」
……なぜか、ため息のかわりにゲップが出た。
品のない音が消えると、もともと静かだった室内は恐ろしいほどの静寂に包まれた。
思わず口を押さえながら僕はひなちゃんの様子をうかがう。
ひなちゃんはプッとふきだし、大口を開けて笑いだした。
「やっだぁセンパイ、お昼ゴハン食べすぎですよー」
「はっ、ははっ、ゴメンね!」
うわあああああ死にたい! むしろ死んでしまえ!
好きな子の前でゲップとか、するか普通!?
あまりのみっともなさに自分を呪う僕。ひなちゃんが笑って許してくれたのが不幸中の幸いだった。もし軽蔑のまなざしでにらまれでもしていたら、本当に自殺したかも。
「さあさあセンパイのばんですよ、ドンドンいっちゃいましょう!」
「う、うん」
後輩にフォローされまくって、しかも言いなりな僕。
ミジメだ、ブザマだ。
それにしてもひなちゃんは優しいなあ、いい子だなあ、エヘヘ。
僕は落ち込みながら鼻の下を伸ばしていた。我ながら器用だと思う。
こんなグッチャグチャな精神状態でまともに打てるはずもなく。
勝負は、僕の負けでした。