なろう小説は文学になっていくのか?~わたモテとかぐや様は迂回ルートをとっている点で似ている~
わたモテやかぐや様などを見ていると思うのが、当初はテンプレート化された笑いの方式に沿っているということである。
例えば、わたモテの場合だと、根暗な主人公がリア充に嫉妬するというのが序盤の定式で、そこに笑いを誘う要素がある。
かぐや様の場合は、生徒会長のことが好きなのだが照れ隠しからストレートに告白できず、相手方に告白させようという恋愛闘争に発展する。生徒会長の脳内ではたびたび、かぐやが『おかわいいこと』と嘲るような笑みを浮かべることが笑いを誘う。
が、それらも序盤だけのこと。
徐々にだが、彼ら彼女らは、このテンプレートを越えて内面に踏みこんでいく。
このエッセイのポイントは、それらの作品もそうだが、一般的になろう小説はライトノベルに位置するため、どうしても最初の選択としてはライトであることを求められるのではないかという問いである。
つまり、われわれがなろう小説を書こうとする場合、どうしてもライトさを帯びていなければならず、それからある複雑性を有する概念を伝えるためには、ある程度の回数を重ねなければならないということである。
言ってみれば、ちょうちんあんこうみたいなもので、最初に読者をわかりやすい描写、簡単な心理状態、あるいはテンプレと呼ばれる定式で釣っておいて、少しずつ複雑な状態に持っていく。
なろう小説を読んでいくと、基本は軽いままで突っ走っていく作品が多いのは事実だが、もしもこの先も水平的でなく垂直的に読まれていくためには、つまり時代を超えるようなおもしろさを残存させるには、このような"迂回ルート"が必要なのではないか。
ライトから文学へと。
シンプルから複雑へと。
キャラクターから人間へと。
次々と迂回していなければならないのではないか。
よく、なろう小説では読まれるためにはランキング上位に来なければならないとされていて、そのためには、ともかくなろう読者の欲望を投射した作品をつくらなければならないとされている。
それは実際に正しいのだろう。
ただ、それは最初の入り口の話で、わたモテやかぐや様のような転身は可能なのではないかと見ている。
ただ、これって毎日更新のなろう小説だと、少し冒険になるかな。
作品の空気というか気配みたいなものは、おそらく変えないでいい。わたモテやかぐや様もそこまで変えてるわけじゃない。がっこうぐらしの一話みたいなドキっとするような変更じゃなくて、少し、毒を混ぜるみたいな。
そんな感覚。
作者は基本的に読者に毒を盛らなければならないのです。
夏風邪引いてしまったけど、ようやく治って来ました。
少しだけ気力が落ちてました。
やっぱり健康が一番。
そろそろ次に何か書こうというので、リハビリ的に書いてみました。