ニキシーとルッシー(後)
結論から言うと、さっぱり釣れなかった。
途中からフライアが不思議に思って様子を調べてくれたが、エサも取られておらず、本当に、単純に、『アタリ』が来ていないらしい。
「いやぁ……普通はじゃんじゃん釣れるんだけどさぁ」
黙りこくって湖面を見つめ続けるニキシーに、フライアは何度目かになる言い訳をした。
かれこれ二時間、ニキシーは動いていないし、口も開いていない。
「透明な湖だけどさぁ、魚群とか見えなくても、釣れるんだよね。ホント」
「………」
「ゲームだから、たぶん判定に成功したときに針の先に魚がポップする? みたいな感じでさぁ」
「………」
「えっへっへ……」
「………」
「………」
気まずい沈黙が続く。
──その沈黙を破ったのは、ニキシーにしか聞こえない声だった。
『ニキシー、まだログインしてる? こっちはちょっと手間どってて。そろそろログアウトする時間じゃない? あたしたちを待たなくていいから、先にログアウトしていいわよ』
セレリアからのフレンドチャットだ。それで、虚無になっていたニキシーの意識に火が灯る。
ふふ。やれやれ。自分としたことがつい熱くなってしまった。たかがゲームの釣りじゃないか。はっはっは──と。
「わかりました。そちらの調子はどうですか?」
『迷って行き止まりに行っちゃったのを戻ってる。ディーがもっとちゃんと地図を覚えてくればよかったのよ。まったく──』
「ちょ、ちょいちょい、ニキシーちゃん?」
フライアが割り込む。
「急に何言い出すかと思ったら、フレンドチャット?」
「そうですよ」
「フレンドチャットなら考えるだけでチャット送れるから、喋らなくていいよぉ? 一人の時なら喋っててもいいけど……」
「………」
ニキシーは口を閉じる。
『マイクテスト、送信』
『急に何?』
『いえ……なんでもないです』
ニキシーは顔にこもった熱を振り払うかのように、ぶんぶんと首を振った。
「仲間は時間がかかるようなので、わたしはそろそろログアウトします」
「ああ、そう? そりゃ残念ねぇ、こんなルートを考えるひとにも会ってみたかったけど」
「伝えておきます。釣り竿、ありがとうございまし──」
グンッ──と。
ニキシーは釣り竿に手を引かれる。
「アタリ! ニキシーちゃん、引いて引いて!」
「は、はいッ!」
心臓が跳ねあがる。興奮のままに、力を込めて竿を引く。ぐぐっと竿がしなり、獲物の抵抗を伝える。
「お、重い……」
「もっと力を入れて!」
「……クッ!」
ギリッ、と歯を食いしばって、ニキシーは力を振り絞る。
《示せ》
脳裏に響く声に驚いたのは一瞬。ドッとSPが持っていかれる。
「【振り回し】」
体がひとりでに動き出す。右に左に、かかった獲物を暴れさせて体力を奪う。
ニキシーは知らなかった。生産スキルも、基礎スキル以外はひらめいて獲得すること。そしてスキルを使えばSPを消費することを。
散々泳がされた獲物の抵抗が弱まっていく。
《示せ》
「【海老で鯛を釣る】」
「おっ」
SPがさらに減る。獲物の動きが止まり――そして、竿が急激にニキシーを湖へ引き込む。
今かかっている獲物を犠牲に、あらたな獲物を食いつかせるスキル。
スキルは常に成功するわけではない。スキルを使った攻撃が回避されることがあるように、生産スキルにも成否が存在する。
例外は『ひらめいたとき』。ひらめいたときは、攻撃は必中、生産は成功。
「こりゃキタかもぉ!?」
湖面に、巨大な影が姿を現す。それを見てフライアはニタリと笑い――
《示せ》
三連続のひらめき。ニキシーのSPが尽き、思考が鈍る。
それでも体は勝手に動いた。
「【大物一本釣り】」
「えっ?」
グワッ! とニキシーが竿にかかるテンションを無視して立ち上がり、そのまま大根でも引っこ抜くかのように腕を振り上げる。
パキン、と竿が破壊されると同時に、湖面の影は巨大な水柱を上げて舞い上がった。
空に。はるか上空に。
鯨とみまがうサイズの巨体が、釣り上げられる。
「き、キタアァァァア!」
それが湖面に叩きつけられて再び水柱を立てると同時に、フライアは両手を挙げて歓声をあげるのだった。
◇ ◇ ◇
北ルーシグ湖で見えない足場が発見されると、釣りをメインに据える冒険者たちはこぞって押し寄せた。
釣りは場所によって獲得できる魚が変わる。だが船を出せばモンスターにやられるので、それまで北ルーシグ湖の沖に何の魚が潜んでいるかはわからなかった。
こんな特殊な湖なんだ。沿岸には雑魚しかいないが、沖ではきっとすごい魚が釣れるに違いない。
そう意気込んだ釣り人たちは――数日のうちに寄り付かなくなった。
確かにすごい魚は釣れる。魚系の、『モンスター』が釣れるのだ。船を襲って全滅させる、あの強力なモンスターが。
それ以外に高級な魚も釣れることは釣れるのだが、それらは別の場所でも釣れるため、リスクに見合わない。そういうわけで、釣り人たちはさんざんモンスターに食い殺されたあと、湖を後にした。
そのモンスターはこう名づけられている。
「キタ! キタ! 『北ルーシグ湖のルッシー』ィィ!」
◇ ◇ ◇
今日。フライアは特に目的があって北ルーシグ湖に来たわけではなかった。首都で荷物整理をしていたところ、以前使っていたボロの釣竿が大量に見つかったため、売り払うよりは使いつぶそうと、ふらりと湖にやってきたのだ。
『北ルーシグ湖のルッシー』は、一定以上の品質の釣具――つまり良い魚を釣り上げられる釣竿を使ったときにしか出現しない。雑魚しか釣れないボロの釣竿では針にかからないと、検証の結果分かっていた。
だから、のんびり雑魚を釣って遊ぼうと思っていた。
そこにニキシーという『おもちゃ』が現れるまでは。
いつも使っている高品質の釣竿を、親切な顔をして渡す。疑われないよう、とにかく親切にアドバイスして。
もちろん初心者の熟練度では、自分の釣り竿を使ってもルッシーが釣れない可能性の方が高い。何も起きないかもしれないと思っていた。
だが、同じくらい『何か起きるかもしれない』とも考えていた。
それが、『カモ』が三連ひらめきをみせてルッシーを釣り上げる。
フライアは顔が緩むのを止められなかった。
◇ ◇ ◇
ニキシーは霞のかかった思考で、水面に浮き上がった魚を観察する。
その魚は不思議な姿をしていた。顔から下の体の部分は、いたるところから緑色の帯が生えている。海草のようだが、先端は丸い。触手といったほうがいいだろう。
ウーパールーパーのように白い顔は大きな口が大半を占めていた。なまずのような横長の口、ずらりとならぶ牙。目に当たる部分にあるのは模様だろうか? 黄色い丸を紫で縁取ったものが、左右に二つ――これを目だと思わなかったのは、頭頂部に巨大な黒い目玉があったからだ。
現実でなら深海に潜んでいそうな、鯨サイズの化け物。数多の船、釣り人を飲み込んできた、北ルーシグ湖の主、ルッシー。
「ひゃほおおおお!」
「あ……」
隣で歓声をあげていたフライアが、急に走り出す。塔の下へ向かったのだろう、見えない階段を降りたところで姿が見えなくなる。
ぼんやり、それを見送ったニキシーだったが――
「……!?」
ゾッ、と背筋に悪寒が走り、ニキシーはルッシーに視線を戻す。
ルッシーは――ニキシーを睨んでいた。明らかな敵意を、ニキシーに向けている。
無意識にニキシーの手が、背中のバックパックに回された瞬間――ルッシーのひとつしかない巨大な黒目が、白く濁る。
「ぅ……ッ!」
それはとっさの判断だった。ニキシーは前に倒れこんで、塔から落下する。
《【裁キノ光】》
その一瞬後。ルッシーの目玉から放たれた光線が、ニキシーがいた場所を貫いた。その太さはニキシーの身長の倍以上もある。横に避けようとしていたら、今ごろ全身黒焦げになって死んでいただろう。
飲み込めないサイズの船、届かない場所にいる相手に対して発動される、長距離貫通攻撃。何隻もの船を沈め、プレーヤーの恨みを買ってきた攻撃スキル。
幸運にもそれをかわしたニキシーだったが、状況は良くならない。
落下した場所は、見えない足場ではなく、湖面。水柱をあげて沈む。
「ぐ、がぼッ……」
混乱する頭で、なんとか水を掻き分けて水面へ上昇する。息を吸い、足場を求めて手を闇雲に振り回すが――その手が足場に触れることはなかった。
足場の特性のひとつ。水に濡れたものは、乗れない。そのルールが適用される。
「はっ……はっ……」
気持ち悪かった。寝起きでもシャワーを浴びれば頭はすっきりするのに、SP枯渇によるペナルティは泥のように重く、全身が水に浸かっても意識が浮かび上がってくれない。
「はっ……う……」
かといって眠いわけでもない。ただただ、ぼんやりする。
ニキシーの動きが緩慢になるが、逆にそれが水に浮かぶのには都合が良かった。湖の中で姿勢が安定する。
ルッシーは、少しニキシーを見失っていたようだった。ぐねぐねと頭を左右に振り、そのたびに湖面が波打つ。
「うっぷ……」
リアルな水の感触が顔面を襲い、うめき声を上げる――と、ルッシーの動きが止まった。こちらを『見て』いるのを感じる。ニキシーは――
「やったああああ! 取れたっ、取れたっ! ルッシーの触手ぅ!」
「え?」
フライアの声がした方を見ると、麦藁帽子を跳ね上げてフライアが喝采をあげていた。手には羊毛を刈ったときにニキシーが使ったのと同じ、毛刈りハサミ。
「これが欲しかったんだよなぁ!」
◇ ◇ ◇
フライアは、ただ面白いからとルッシーを釣らせたわけではない。
釣り上げられたモンスターのヘイト、敵視は、釣り上げたプレーヤーに向けられる。
ルッシーは強力なモンスターにも関わらず、ヘイトに関しては基本に忠実だった。ニキシーが死亡するか、フライアが手を出さない限り、ルッシーがフライアを襲うことはない。
そして敵視を向けられていない間、他のプレーヤーはルッシーの体に生える緑の触手を採取できることが分かっていた。これは生産材料として、高値で取引される。
「じゃ、アタシはこの辺でぇ」
そんな素材が獲得できるのに、ルッシーが放置されてきたのにはもうひとつ理由がある。
「ルッシーはさぁ、湖に落ちてるプレーヤーと、足場にいるプレーヤーがいなくなるまで暴れまわるんだ。えっへっへ、お仲間によろしくねぇ!」
「な……」
多数のプレーヤーが協力して採取したとしても、持ち帰る前に全滅させられるからだ。
では、フライアは?
「【フライト】」
スペルブックを取り出し、唱える。ふわり、とフライアの体が浮く。
「えっへっへ、じゃあねぇ!」
飛行魔法。ごく一部のプレーヤー間で独占されているそれを使って。
フライアはあっという間に、空に消えて見えなくなってしまった。
◇ ◇ ◇
「ほかの……ぷれーやー……」
湖面に浮かびながら、ニキシーは回らない頭で考える。
「……セレリア、と、ディーザ……ッ!」
だがいつまでもルッシーは待ってくれない。その巨体がたわみ、力が蓄えられる。
ニキシーはなんとかバックパックに手を回して、インベントリーから武器を取り出した。
「ッ!」
ドバッ! 透明な湖を割ってルッシーが直進してくる。巨大な口が、ニキシーを飲み込もうとする。
「くぁ……っ!」
祈るような気持ちで武器を突き出す。長柄というカテゴリーに属する、斧と槍が一体化したような形の武器、ハルバード。250シルバー、ほとんど全財産をはたいて買った。
鼻先を狙って――
「ガッ……」
衝撃。支えるもののない水中で、ニキシーは無力に押し流される。ごぼり、と全身が水に浸かる感覚。
「くるし、い……」
HPゲージが急速に減少する。
目を開けると、周囲は赤かった。ルッシーの口の中だ。ハルバードがつっかえ棒になって、噛み砕かれずに済んでいる。
だが、それだけだ。ルッシーはそのまま急速に湖底へ向かって潜行している。絶え間なくルッシーの口からは水流が流れ込み、とてもではないが泳いで出てはいけない。
つっかえ棒になっているハルバードは、みしみしと嫌な音を立てている。
窒息ダメージでHPが尽きるのが先か。ハルバードが折れ、噛み砕かるダメージで死ぬのが先か。
「――ま、だ」
まだ、ある。ニキシーは片手で体を支え、片手でバックパックに手を伸ばした。
武器はまだある。ルッシーがどれだけ潜ったか知らないが、もうHPゲージは半分を切った。息継ぎは間に合いそうにない。たぶん、死ぬのだろう。
けれど、自分がここで死んだら、次は?
「ぐ――」
インベントリーから取り出したのは、初心者用の棒。ニキシーの身長よりも長い、初心者向けに角が丸められた、中古の武器。
つっかえないように、横向きに手の中へ出現させる。
狙うは、喉の奥。
デカブツは内側からの攻撃に弱い、というのが物語のお約束だ。
片手で、狙いすまして突く。
ガッ。
ガッ。
「……っ」
ルッシーは、まるで意に介さない。HPゲージがわずかになり――つっかえ棒をしているハルバードが致命的な音を立てる。
「っ……!」
パリン。ゲーム的な破壊音。ハルバードが消滅する。巨大魚の顎が閉じ、暗闇が訪れ――
《示せ》
「【突き出し】」
ドッ……ガチン!
ルッシーの牙が噛み合う。だが、攻撃の反動でニキシーはすでに水中に飛び出していた。
周囲には、建物の廃墟が沈んでいた。ここは湖の底だ。だが、ニキシーはもう思考する余裕がない。
《示せ》
「【顎打ち】」
水中では体は思うように動かせない。スキルの補正を得てもなお、水中を自在に動く敵を相手にするのは至難の業だ。だから、ルッシーは無視されてきた。水中に落とされれば分が悪すぎるからだ。
だが、ひらめいたときであれば、スキル攻撃は必中である。
ニキシーは水中で器用に回転し、ルッシーの顎を棒の先で打つ。ルッシーはひるまない。
《示せ》
「【石割】」
対象の防御力に比例して攻撃力の増すスキル。水を蹴って飛び出したニキシーは、ルッシーの頭から一撃を加える。頭頂部にある、黒い目玉。
「ギャアアアアアアア!」
目玉を覆う水晶の膜にひびが入り、ルッシーは身をくねらせる。はじめて、この怪魚が声を発した。
《示せ》
そしてそれが最後の声になる。四連続のひらめき。
「【海割】」
天が轟く。晴れ渡っていた空が一気に暗雲に包まれる。強風が吹き荒れ、ごうごうと波が立つ。
その中心、湖の中で、ニキシーは再び、怪魚の目玉に棒を叩きつけた。
衝撃波が、ひとりと一匹を中心にして広がる。
そして、湖が二つに割れた。
「………ぅ?」
HPバーの減少が止まる。湖が割れて湖底が空気にさらされたため、窒息によるダメージが停止した。
SP枯渇で重たい頭で、辺りを見回す。
目の前には、頭頂部からドロドロと目玉が流れ出しているルッシーの死体。
左右は、水の壁。天候が嵐になったせいか、透明度が下がって空気との境がはっきりとわかる。
「たすか……た?」
口にしたその瞬間、耳がドドド……という水が流れ落ちる音を聞きつける。
割れた湖は、その端から急激に元に戻ろうとしていた。
水が、津波となって押し寄せてくる。
「……うそぉ……」
そう呟いたが最後。ニキシーは波にのまれ、もみくちゃに流されていったのだった。