閑話~伸ばした手の行方~
本編再開前に司のキャラ付けのために書いた短編を閑話としてあげます。以前活動報告に上げていた分になります。時系列的にもかなり過去の話なので読まなくても本編には支障はありません。嫌な方はスルーしてください。
「――さくん、司くん? 大丈夫? ご飯少しでも食べられるかな?」
浮上する意識の中で優しい声が僕を呼んでいた。
「かあ、さん?」
母さんを呼んだつもりだったけど、耳に届いたのは自分の掠れた息を吐き出す音だった。ぼんやりとした視界は暗くて、母さんの姿を確認するとこが出来ない。
……あれ、母さんは僕のことを何て呼んでいたっけ。思い出そうとしても熱と遠い過去の記憶ゆえに上手くいかなかった。
「辛いよね、苦しいよね、待ってて、すぐに冷やしてあげるから」
その声が心地好くて目を閉じる。
母さん。あのね、朝から熱が下がらないんだ。頑張って学校行ったけど無理でさ、早退したんだ。ごめんね、母さん。迷惑かけないようにするからさ、大人しく寝てるから。だから、溜め息を吐かないで――。
ひんやりとした感触がおでこに当てられた。冷えピタだ。自分で貼った分はいつの間にか剥がれ落ちたようで、新しい感触に少しだけ頭がスッキリした気がした。
その後すぐに顔の周りを濡れたタオルで拭かれた。タオル自体はぬるま湯で絞られていたみたいだけど、タオルが通った跡は熱が籠った肌に気持ちよかった。
「ちょっと頭上げるね」
優しい手がそっと頭の下に回された。汗でベタベタだろうにその手は躊躇いなく僕の頭を抱え込んだ。柔らかい布地の感触とどことなく甘い香りが強く胸を締め付けた。
「首の裏にも冷えピタ貼ったけど。冷たすぎない? もし嫌なら教えてね。すぐに剥がすから」
頭を枕の上におろすと、その感触が変わっている事に気が付いた。洗い立てのタオルの匂いが心地好い。汗で濡れた枕にタオルを敷いてくれたようだった。
あちこちから優しいいい匂いがする。それはとても心満たされる匂いだ。
ホッと身体中の力が抜けていく。側に居て心を寄せてくれる人がいるだけでこんなにも安心できるんだ。
「どうしようか、体起こすのも辛そうだもんね。とりあえずポカリだけでも飲んで?」
口元をなにかがツンツンつついてきた。少し唇を開くとそこから何かが入ってきた。
先が少し潰れたストローだった。
ストローをくわえてゆっくりと吸い込んでいく。口の中に口腔補水液が染み渡っていくのを感じて、自分が酷く喉が渇いていた事に気付いた。
はっきりと体の渇きを実感して夢中でストローを吸い続けた。
「喉渇いてたよね。本当に気付くのが遅くなってごめんね」
僕はその時になって初めて彼女の顔を見た。
「百合奈、お姉さん……?」
声は割れていたけど問題なく出せた。
半年前、母の再婚相手が連れてきた義姉だ。面倒見のいい人で、そのせいで一番貧乏クジを引いている女性。
「仕事、終わったの?」
「うん、もう18時回ってるよ? 司くん、いつからここで寝てたの?」
「……多分、10時くらいからかな。熱がもう少しでも下がったら、病院行こうと思ってたんだ……」
「そっか。独りで寂しかったでしょう?」
覗き込んでくる眼差しが優しい。どこまでもどこまでも優しくて、その言葉が僕の心を強く揺さぶった。
ぐっと堪えて口を開いた。
「平気、慣れてるから……」
「強いんだね、司くんは。でもね、辛い時は辛いって言わなきゃ駄目よ。お姉ちゃんは司くんが独りで苦しんでいるなんて、嫌だもの」
百合奈お姉さんは優しく頭を撫でてくれた。その感触に呆然とする。記憶にある限り、僕は初めて頭を撫でられたのだ。
「本当に大丈夫だから……。あんまり側に居ると百合奈お姉さんに移るよ?」
だからもう行って――心の声と真逆の事を言う。ふい、と顔を背ければ静かに立ち上がる気配がした。自分で行けと言ったのに、行かないでとすがり付きそうになる自分が嫌で、強く下唇を噛んだ。
独り残された部屋で体をギュッと小さく折って布団の中に潜り込む。
少し優しくされたくらいで、甘えるなよ。お前はそんなに弱くないだろ? どうせ母さんのことだ、きっとまた違う男を連れてきて、あの優しい人ともすぐに別れることになるんだ。だから、だからせめて、迷惑をかけないようにしないと。
百合奈お姉さんが来るまで、寂しいなんて思ったことなかった。苦しいなんて自覚したことなかった。日々弟達を守り生きるのに必死で、自分の境遇を振り返る余裕なんてなかったんだ。それが、あたりまえだと思って生きてきた。
けれど百合奈お姉さんが来て、たくさんのことを知った。朝食の熱いお味噌汁の美味しさも、お帰りなさいを言って、ただいまと笑顔で応えてもらえる喜びも。そして何よりも名前を呼んでもらえる喜びや庇護される安心感が僕を酷く弱くした。
知らなければそんなものだと思って生きていけた。けれど知ってしまった今、その心地好さが絶望をも僕にもたらそうとしていた。
「――司くん、おじやと着替えを持ってきたから少し体を起こせる?」
それほど間を置くことなく百合奈お姉さんが戻ってきた。戻ってくるとは思っていなくて、僕は驚きで固まっていた。
彼女はそっと掛け布団をめくると僕の上半身の下に幾つかクッションを挟み込んでいった。
「司くん、そのまま体を後ろにずらせるかな?」
言われるままに体をずらしていき、クッションを背もたれにして座り込んだ。
僕の上半身が安定したのを見て、百合奈お姉さんがベッドの上に座り膝の上にお盆を置いた。そして匙でおじやを掬い、ふー、ふー、と冷ました後に僕の口元へと運んだ。
「まだ少し熱いかも。ゆっくり口に入れてね」
白菜と卵と塩鮭が入ったおじやは思いの外熱くて、思わず顔をしかめてしまった。すかさず百合奈お姉さんが冷えた麦茶を渡してくれる。
「……ありがとう」
「もう少し冷やした方がよかったね、ごめんね。どうかな、おじや、食べられそう?」
口の中に広がるほのかな味噌の風味に、自然と食欲が湧いてきていた。僕が頷くと嬉しそうに百合奈お姉さんは相好を崩した。
「そう。よかったぁ。無理のない範囲で食べて、食べたらお熱を計ろっか。一人で食べられそう?」
気遣うように覗き込んでくるその眼差しに吸い込まれそうになる。これは熱のせいだろうか。……そうだ、きっと熱のせいだ。
だからこんなにも胸が苦しくなるんだ。切なくて幸せなのにもどかしくて、でも満たされていく。
……貴女は……。
「ゆっくり食べてね。真君達の晩御飯はスーパーの惣菜にしたから、安心していいよ」
いつもにこにこと笑顔で僕を見てくれる。蔑むわけでも哀れむわけでも、母のように無表情でもなく。
……貴女は、僕が。
一匙毎に体だけではなく心にも栄養が溜まっていくようで。この温もりを失いたくない、僕はそう祈るように願っていた。
……貴女は僕が、手を伸ばしても振り払わないだろうか? 母のように。
この女性の笑顔を守りたいと、俺は確かにその時強く思っていたのに――。




