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年が明けて新年の慌ただしさも忘れた頃、司君に面と向かってこう言われた。
「百合奈さん。もしかしたらこの国で戦争が起きるかもしれない。今から1ヵ月の間に引っ越しと店を閉める準備をしてほしい」
まさしく青天の霹靂というやつだ。
旅行に行こうと誘われていたけれど、まさかすぐに引っ越しの話になるとは思わなかった。
「そして1ヵ月経ったら以前言っていた旅行を楽しんできてほしい。お供には成と茉莉花を付けるから」
急な話に私は戸惑ってしまった。けれど実は店を閉める準備というのは意識していて、年が明けた頃から宿泊客への通達と予約のセーブは行っていた。
特に常連さんにはお世話になっているので早目に伝えておいたのだ。
それにしてもまさか戦争と言う単語が出てくるとは思わなかった。
「……まぁ、茉莉花と一緒にクィンガ領に行くつもりだったから、その辺は構わないけど。戦争って、また魔族とするつもりなの?」
クィンガ領と魔族の国とは隣接している。もし戦争になるのならクィンガやヴィスゴットに行くのは危険なんじゃなかろうか。
そう私が不安を溢すと、司君は優しく微笑んで安心させるようにわざとおどけて見せた。
「戦争と言っても、まぁほぼ無いだろうと踏んでるけどね。ただかなり混乱はあると思う。百合奈さんの存在は俺たちにとって唯一の弱点だから、なるべく見通しが立つまでは他国に避難していてほしいんだ」
そこから司君が教えてくれたのはヴィスゴットとクィンガの独立と、そこに至るまでの彼らの経緯だった。ゲイルさんが実は既婚者で10年以上前に奥様を殺されたこと、その奥様が現クィンガ領主の娘で2人は幼馴染みだったこと。そして奥様を殺した犯人は未だ捕まっておらず、真相はわからないこと。
けれどその真相に関しては司君達が調べてわかっている部分もあるらしい。ただ、教えていないそうだ。なぜなら司君と光君の固有チートを使って調べたため、はっきりとした目に見える形として証拠を上げられなかったかららしい。
目の前で立証できない以上、司君の胸のうちにしまっておくことにしたようだ。
独立した後はクィンガ領主が王となり、ゲイルさんが大将軍として新王を支えていく。ちなみにここでゲイルさんが王にならなかったのは、ただ一点、独身で跡継ぎが居ないから。新王となるクィンガ領主には現在3人息子が居て、万が一クィンガ領主に何かあっても跡継ぎが居る、というのはかなりの強みになるんだって。
色々めんどくさそうだな。そんな事を考えていて、ふと私の脳裏にかすみの姿が過った。
「司君、かすみはその事を全部知っているの?」
「うん、あいつは知っているよ。知った上で偽装婚約を続けてる。実際このまま結婚するかはわからないけど、あいつはけっこう乗り気みたいだよ」
この時、私はほんのちょっとだけ不安に思った。何が不安かって? かすみが乗り気だってところにね、なんか嫌な予感がするんですよ、はい。
それ以上の詳しい話を聞いても政治の絡む難しい話はわからないので、ほどほどの情報を手に入れてその場は切り上げた。最後に司君からしっかりと口止めされた。
立ち去る司君の背中を見ながら、司君はどこまで予想してたのかな、と考える。私や弟妹達の動きを見てその都度行動を変えているんだろうけど、その思いきりの良さにこちらが着いていけなくなる。
なんかこちらの世界に来てから頼ってばかりいるな。そう思うとどうにもいたたまれない気持ちになった。
さっきも言った通り宿泊客の数をセーブしているので、年明け前に比べてさらにやることがなくなっていた。
のんびりと裏庭でバルスとオニキスと遊んでいると、塀越しに声をかけられた。
「こんにちは、ユリナさん」
柔らかな女性らしい声に、私は笑顔で返事を返す。
「こんにちは、パルシアさん。今日も好いお天気ですね」
塀の向こうから顔を覗かせているのは、助産師のパルシアさんだ。明るい栗色の髪に暖かい琥珀色の瞳の美人さんだ。
年明けと共に開店した裏の助産院には、毎日たくさんの女性が出入りしている。出産だけでなく、女性特有の悩みや病気にも対応してくれて、更には女医さんと言うことで繁盛しているそうだ。
この世界では魔法や魔術があるせいか、地球に比べると医学の進歩の形跡がほとんどない。外傷や骨折などは治癒魔術で治せるけれど、体の内部を蝕む病魔は治癒魔術では治せない。さらに高位の回復魔法や魔法薬を使えば治せることもある、その程度だと言う。回復魔法で治らない場合は薬草に頼るそうだ。
そのため、薬師や治癒師は居ても医師というのはあまりいない。助産師もそうだけど、そのほとんどがアーシェリア神教の信者ばかりだという。
特にこの国は長く魔族との戦いに明け暮れていたせいか、その方面の発展がかなら遅れているらしい。
どの世界でも出産は命懸けだ。少しでも安全に楽に産もうと、女性達はいい助産師さんを頼る。いや、安くて腕の良い助産師さんを。
「オニキスは大きくなりましたねぇ。抱っこしても構いませんか?」
「どうぞどうぞ。最近よく羽ばたくんですよ~」
「あら、本当に? ならそろそろ飛びそうですね! あー、見てみたいです、オニキスの初飛行」
なぁん。
オニキスをパルシアさんに渡すと蕩けきった顔で愛でている。ふくよかな胸が邪魔そうで、オニキスが背伸びをするように胸に肉球を当てている。
オニキスはもう成猫の大きさになっていた。真っ黒だった毛並みが光沢を放ち、僅かに銀色を帯びて艶々しくなった。
「ミュエルという魔獣は黒銀色をしているんですよ。とても美しいんです。もしかしたらオニキスもそうなるかもしれませんね」
「その魔獣はどれくらいの大きさになるんでしょうか?」
「そうですね。ゼファルよりも少し小さいくらいでしょうか」
……なるほど、ポニーくらいの大きさになるわけですね。
そんな事を考えていると、ふと私の脳裏をある事が過った。思わず「あっ……」と声が出てしまう。
「どうかしました?」
気付いたパルシアさんが小首を傾げた。その可愛らしい仕草を見ながら私は躊躇いながらも常から疑問に思っていたことを聞いてみた。
「あの、聞きたいことがあったんです。その、この世界での出産事情についてですね……」
私はずっと気になりながらもあえて追求してこなかった事柄がある。それはこの世界の出産適齢期についてだ。
医学の進んだ現代日本でも、30歳を過ぎるとリスクが高くなると言われていた。この世界で私がもし結婚したとして無事に赤ちゃんを産めるのか、それがずっと気にかかっていたのだ。
私だっていつかは恋をしてその相手の子供を産んでみたい、とは思っていた。そもそも私にとって恋愛の延長線上に結婚がある。だから今まで恋はしても想いを告げたり恋人同士にはならなかった。まぁ、相手にされてないのもあるんだけど。
今の私は茉莉花が学院に行くことでかなり精神的に楽になっている。と言うか、むしろ急に自分の女としての賞味期限? みたいなものを目の前に突き付けられた気がする。
茉莉花の学院行きとかすみの婚約はそれだけの衝撃を私に与えたのだ。
……私、もう恋愛モードに移行してもいいよね?
私ももう29歳だ。本気で恋愛するのなら先を見据えなきゃいけないし、そのためには自分が出産出来るのかどうか、ちゃんと向き合わないといけない。
「私、今まで出産経験はもちろんないですし、妊娠もありません。それに29歳です。こんな状態での妊娠出産はやっぱり大変ですか?」
「そうですね……。やはり十月十日お腹の中で子供を育てて、何時間も何十時間も、人によっては何日もかけて出産するんです。しかも初産となると客観視は出来ません」
パルシアさんは私の突然の問いにも真剣に答えてくれた。そうしておもむろに私の診察をしだした。柔らかくて温かい胸元から離されて不満だったのか、にゃあにゃあとオニキスが足元にまとわりつく。その首根っこをくわえてバルスが連れていってしまった。
「貧血は無さそうですし脈拍も正常ですね。持病は何かありますか?」
「いえ、これといって別に」
「風邪をひきやすいですか?」
「それもないです。むしろ健康だと思います」
「月のものは? 乱れたり量が多すぎたりとかは?」
そんな質問がどんどん飛び出してくる。なるべく詳細に答えていく。
「――お話を伺う限りでは大丈夫そうですね。中まではわかりませんが……」
ただ、やはり早い方が良いですよ、と真顔で諭されてしまった。少し恥ずかしく思いながらも頷いた。
そんな私の顔をじっと見た後、パルシアさんはおもむろに口を開くととんでもない提案をしてきた。
「もし詳細なお話を聞きたいのでしたら、この助産院の責任者であるジークラウド様に診ていただきますか? あの方はアーシェリア神教の教区長でもあり、医師の資格もお持ちですから私なんかより詳しく……」
「……は?! いやいやいやいや、無理です、無理無理! え、ジークラウド様って、あの人間離れした美人さんですよね? いやぁ、ないわぁ」
思わず素が出てしまうほど驚いた。なんというか、この世界に来て美男美女はたくさん見てきた。けれどもどの人もどこか欠点と言うか人間味があった。
でも、あの人は違う。どう言えばいいのか……。会ったのはまだ1度だけしかないけれど、次元が違うのだ。
ただご近所さんとして挨拶したり世間話する分には問題ないけれど、診てもらうと言うからにはそれなりの接触はあるはずだ。
あんな美人さんに肌を見られたり触られたりしたら、私、きっと溶けてしまうと思うんですよね。ただでさえ、男性への免疫が少ない(無いとは言わない)のに。
なあなあのままでパルシアさんと別れた後、バルスとオニキスを連れて部屋に戻った。途中でリビングに居た真君と光君に呼び止められる。
「百合奈さん、どこに行くか決めた?」
2人は茉莉花特性のハーブティーを自分達でいれて飲んでいた。
ついでなので私の分もいれてもらう。
「うん、行きたい所といってもねぇ。思い付く所がひとつしかない」
「俺の予想では獣人の国だと踏んでるんだけど。どう?」
「当たり。ていうか、それ以外に思い浮かばなかったわ」
「俺も」
真君と笑い合っていると、光君が少し首を傾げた。
「ゆりなちゃんがノルブレストに行くのなら、真兄は行けないね。やっぱり僕も付いていこうかなぁ」
成兄だけじゃ心配かも。光君がそう呟くのを聞いて真君も深く頷いて同意を示した。
「そんなに成君じゃ心配?」
私の中であの子の評価は一番地に足着いている子、というイメージだ。他の弟妹達から散々にいじり倒されても、別段堪えた様子もなく朗らかであっけらかんとしている。
司君や茉莉花ほど人を選ぶこともしないし、かすみや真君ほど斜に構えてもいない。
人間としてとてもバランスがとれていると思う。
「うん……成兄はどっか抜けてるからね。まだまだ青いと言うか」
「お前が言うなよ」
呆れたように真君が突っ込んでいる。
「真君はどうしてノルブレストに行けないの? もしかしてなんかした?」
真君がやらかしたとすれば女性関係だろう。真君を見る目が冷めたものになるのも仕方がない。
「うわー、その目はきついなー」
そう言って笑った後真君が説明してくれた。獣人の国では強い者が好まれる。実力はもちろんのこと見た目からして筋肉隆々で逞しいとそれだけ注目を集めてしまうそうだ。そして彼らは常に己の番を探している。万が一番認定されてしまうと非常に厄介なのだそう。
真君はただでさえ見た目は獣人好みでさらに輪をかけてとても強くてそして優しい。
1度だけノルブレストに入国した際、どうやら酷い目にあったらしく、それ以来彼の地は真君にとって鬼門になったんだって。
「うーん、やっぱり俺も行こうかなー」
「止めてよ、真兄が行くとゆりなちゃんがいらない恨みを買っちゃうじゃん。真兄が一緒に行くくらいなら成兄だけの方が安全だよ」
光君の肩を竦める仕草に真君は不愉快そうに目を細めた。反論しないあたり、自覚はあるらしい。
お茶が終わって自室に戻る。部屋のドアを閉める前にバルスの巨体が滑り込んできた。その後をオニキスが飛び込んでくる。
「バルスはどうしようかな」
日本に居るときは旅行にペットを連れていくことはあまり一般的ではなかった。こちらではむしろ騎獣を連れた人が多いので受け入れられやすい。
しゃがみこんでバルスの瞳を覗き込む。
――あれ。バルスの瞳って、こんな濃い色してたかな。
思わずまじまじと見入ってしまった。確か金色はしていたけれど、普通の犬と変わらない色だったはずだ。それなのに改めて見ると濃い。ねっとりとよく練り込まれた黄金糖のようだ。
じっと見ているとベロンと鼻を舐められた。
「おうっ?!」
突然のことに驚いた。バルスはあまり舐めたりしない犬なのになぁ。珍しい。
大人しくお座りをしてゆっさゆっさと尻尾を振っている。
あら、やだ、可愛い。思いっきり抱き締めてすりすりした。
やっぱりバルスは連れていくべきだよね、オニキスは司君にでも預けておこう。まだ子供のオニキスを連れていくのは可哀想だし。
結局夕飯の支度が始まるまで、バルスとオニキスと共に自室で遊んで過ごした。