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ドオォォ……ン。
地を這うような轟音が足元を揺らしたのは、冒険者ギルドの階段を下りている時だった。
ガタガタガタッと揺れる様に思わず手摺を掴む。
「なに? 地震?!」
地震にあうのはこちらの世界に来て初めてだった。
元日本人として、地震の恐ろしさは身に染みている。
もっと大きな揺れが来るか?! と体を固くしたが、それ以上の強い揺れは来なかった。ただ地響きのような音と小さな揺れが続いていた。
「な、なんだろうね、これ」
アリスが支えるために差し出してくてた手をとりながら、私は地震が収まるのを待った。
「……止まった? 外に出よう」
階段を下りるとそこの風景は一辺していた。
まるで屍のように転がっていた冒険者達が消えており、代わりに窓に張り付く背中がいくつも重なって見え、入り口は外を覗き込む冒険者で塞がれていた。
確実に外で何かが起きているようだ。
「おい! なにがあった?! 物凄い魔力の波動を感じるぞ!」
階段上からドタドタと下りてくる音がする。
慌てて場所を空けると、ギルド長と後数人が下りてきた。
………そういえば、このギルド長の名前聞いてなかったな。
ギルド長は現場を見て瞬時に入り口に向かうと、群がる冒険者達を放り投げて道を作った。
その道がまた塞がる前に、私達も後に続く。
外の空気を感じると同時に思ったのは、寒い、ということだった。鼻の奥が空気の冷たさに痛みを訴える。
そして目の前を落ちていく無数の光の欠片。陽が射していないこの状況にあっても欠片達は小さな輝きを放ちながら落ちていく。
最初は雨かと思った。
けれどよく見ればそれは小さな塊で、手のひらの上に落ちればすぅ…と溶けてしまう。
雪? ……ううん、違う。これは多分、氷、だわ。
「見ろよ! あれ!!」
「なんだよ、これ……。夢じゃねえよな」
「すげぇ、なんだよ、なんなんだよ、魔族が攻めてきたのかよ!!!」
パニック一歩手前の、畏怖か恐怖に蝕まれた人達の声が、今まさに爆発しようとしていた。
私は彼等と同じように視線を上げて空を見た。
そしてあまりの光景に息を飲む。
―――雲が、凍っていた。あれほど重苦しく頭上を圧迫していたものが、無色透明な氷に包まれていたのだ。
見える範囲だけでも完全に氷に覆われてしまっている。頭上から響く氷が軋む音や、それに呼応して降り注ぐ氷の欠片に恐怖が募る。
その異常な光景に、私の心も周りの恐怖に飲まれそうになった時。
「うるせぇ!!!!!!」
と、その場を一喝する怒号が響いた。その力強い声に心の中に芽生えてい恐怖が吹き飛ばされた気がした。
「ガタガタ騒ぐな、野郎共!! 大の男が怖い怖い騒ぐくらいなら最初から冒険者になんぞなるな!! さっさと田舎帰って母ちゃんの乳でも揉んでろ!!」
………いや、そこは「揉んでろ」じゃなくて「飲んでろ」ではなかろうか。いや、「飲んでろ」も問題あるけど。
おかしいな、私の聞き間違いかな?
私がそんな場違いな事を真剣に考えていると、男はつかつかとこちらに戻ってきた。
「おい、ホシミヤ兄弟の姉、ちょっと付いてこい。―――アリオス! 基地に行くぞ! 騎獣を出せ!」
「は?! 何を言ってるんですか、ギルド長! こんな状態の王都をほっとくつもりか?!」
「おうよ! 俺が居ても仕方がねえだろ。それよりもこうなった原因に会いに行った方が速ぇ」
周りの批難など気にも止めずに、ギルド長は私の肩をガシッと掴んだ。えっ? と思うまもなく体が浮いた。
いわゆるお姫様抱っこ、というやつである。
驚きで固まった私を見下ろして男はニヤリと笑った。けれどすぐに真顔に戻り、言い含めるように私に言った。
「あいつらを止められる奴はあんたしかいねえ。だから一緒に来てもらう」
そう言って男は歩き出す。
私は呆然とした頭で、それでも男の言葉の意味を考えていた。
―――あいつって、誰? 私が止める?
抱き上げられたことで空が真っ直ぐ目に入った。黒く重い雲を囲う氷の檻。氷が欠けたりひびが入る所以外は透明で、冷気を放出している。
―――司君? まさかあの子が?
氷は彼の怒りの象徴だ。
―――この空を覆うほどに、何かに怒っているの? でも、それにしたって。これは異常だ。
かつて魔王討伐に向かう司君達が言っていた。魔王1体につき、兄弟2人か3人で立ち向かわないと倒せないって。
だからあの時彼らは万全を期して、光、成、かすみ、真、司の5人で討伐に向かったのだ。当時、まだ力に慣れていない弟妹達では、正直5人でも辛かったと思う。
それなのに、これはどうなんだろうか。
馬車を走らせておよそ3時間の距離に購いの渦は発生したと聞いた。状況から考えておそらく司君が居るのはそこだろう。
―――そこからここまでの雲を凍らせたの? そんな力が司君にあったの? ………司君のチートってなんだっけ?
私は弟妹達のチートにほとんど興味は持ってなかった。あると便利だけど、無くても全く気にならないもの、という認識しかなかったから。だからあの子達も私には自分の力のことは口にしなかった。
言葉にできない重苦しい不安が心を侵食する。
―――私はもしかしたら大事なことを見過ごしていたのかもしれない。
「下ろしてください」
私が発した言葉に男は訝し気にこちらを見下ろした。
その目を見返してもう一度同じ事を繰り返す。
「下ろしてください。―――私は自分で歩けます」
自分でもなんて可愛いげのない性格だろうと思う。
けれどこれは、私が関係のない男に甘えていい問題じゃない。むしろ私が立っていなきゃいけない問題だ。
力のない私にだって、力がないなりの矜持がある。
「―――そうだな。あんたは紛れもなくホシミヤ兄弟の長女だ。遅れたら置いていくからな、走ってでも付いてこい」
私は両足を地面に付けてギルド長の後を追った。
ギルド長の騎獣は馬と同じ大きさの見た目は犬のような魔獣だった。
なんでもゼファルという名の魔獣で、とても人懐こい性質をしており騎獣として一番人気を誇るらしい。
そのゼファルの上に飛び乗ったギルド長に鞍の上に引き上げられて、私はアリスを振り返った。
「ユリナ様!」
「アリス、家をお願いね。みんなが帰る場所を必ず守って」
「わかりました。ですが、ユリナ様、無理だけはなさらないでください。それから、ギルド長。必ずユリナ様をお守りください」
本当は止めたいのだろうけど、アリスはなにも言わなかった。ただ悔しそうにギルド長をひたと見詰めている。
その視線を受けて、男はふと目元を和らげて頷き返した。
「安心しろ、俺だってまだ死にたくねぇよ」
にゃん。
バルスの背に乗っていたオニキスが、ジャンプして膝の上に座った。ちなみに今の私はスカートなので横座りである。
「アリス、バルスをお願いね」
「わかりました。おまかせください。―――どうかご無事で!」
アリスの言葉を最後まで聞くことなく、騎獣は走り出した。
騒然とした王都の大通りを横目に、騎獣は屋根の上を軽く飛び跳ねていく。
「数分程度なら空も飛べるぜ」
その身軽さに目を見張っているとギルド長が教えてくれた。
人間なら歩いて数時間かかる距離を、道など無視して真っ直ぐ進むので、ものの数分で王都を抜けてしまうと自慢している。
その言葉通りすぐに王都を囲む城壁に辿り着く。そしてそのまま城壁の上に降り立つと、門番らしき人にギルドカードを見せている。
「ご協力ありがとうございました。お気を付けて!」
王都を抜けると北東に向かって真っ直ぐ進む。
そうして10分も走った頃だろうか。丘陵地帯の谷間を抜けて小さな林に差し掛かった頃。そこで奇妙な光景が目視できた。
重い雲を突き破り聳え立つ黒い塔。明らかに異様なその景色に嫌な寒気を感じた。見ているだけで不吉な予感を植え付けてくる、まるで呪いのようだ。
近付けば近付くほど、その異様さは気味が悪かった。
―――と、その時。
「………?!! チッ、間に合わねぇ!! クソが!」
いきなりそう叫んだかと思ったら、ギルド長は急に私の頭を抱えこんだ。私も思わず反射的にオニキスを強く抱き締めてしまう。
に……。
オニキスの微かな鳴き声が聞こえた瞬間。
世界から音が消えた。一瞬だけ重い静寂が世界を満たした後、それは突然に大きな反動となって大地を襲ったのだ。
投下された爆弾のように、強烈な風と熱が塔を中心に大地を走り抜けていく。吹き飛ばされていく黒い塊が大地に落ちる前に燃え尽きてしまい、風に霞のようにかき消されていく。
「来るぞ!! チクショウ! 目を閉じて無事を祈ってろ!」
私を守るように塔に背を向けたギルド長の肩越しに、草や木を薙ぎ倒し走ってくる衝撃波が見えた。その勢いは凄まじく、どんな大きな木も根本から引き千切られてしまっている。
私は強く目を閉じると、ギルド長の胸の中に大人しく身を隠した。
「………すまねえな、巻き込んじまって」
男の呟きが辛うじて耳に入った時、物凄い衝撃が私達を襲った。自分の声さえもかき消してしまう、蹂躙される大地の悲鳴が世界を覆う。音の暴力が魂を破壊しようとさえしている。そして体中に叩き付けられる突風は、まるでハンマーのような打撃を―――て、あれ? 突風?
私はそっと頭をあげた。深いエメラルドの瞳と近距離で視線があった。
―――私、生きてるよね?
しばし無言で見詰め合う。お互いにお互いの存在が信じられない、そんな感じで視線だけで探り合っていると。
「―――いつまでそうしているつもり?」
はるか上空から冷気を纏った声が響いてきた。
「司君!!」
私は理解する前に名前を呼んでいた。
ギルド長から体を離すと空を見上げる。そこにいたのは濃紺の外套を羽織った司君だった。少し伸びた前髪のすき間から無感情な眼差しが私達を貫いている。
―――うん? 空を飛んでる? いや、浮いている?!
「………どうして百合奈さんがここに? その人を巻き込むのなら容赦しないぞ、アルフレド・バーツア。地獄を見るか?」
一瞬、誰のことだろう? と思ったけれど、この場で言うなら考えるまでもなくギルド長のことだ。
「待て、ツカサ! 早まるな! 俺は場の確認に来ただけだ! あんたからも何か言ってくれ!」
ああ、これが殺気ってやつかー、なんて考えていると助けを求められた。
私は騎獣から降りるとオニキスをギルド長に預けてもう一度司君を見上げた。風に煽られて乱れた髪を手で整えながら。
―――下りてきてほしいんだけどな。
上空で留まったままの司君を見ていて、ふと状況の変化に気付いた。空を覆っていた黒い雲が氷と共に消えており、薄曇りの雲が空高くに流れていた。
「司君がやったの?」
ポツリと呟いた声は司君の耳に届いたようで、少しだけ気鬱そうな表情を見せて頷いた。
―――ああ、そうか。
司君が下りて来ない理由がなんとなくわかり、私はクスッと笑った。
「下りておいでよ、司君」
彼は動揺も見せずに見下ろしている。けれど私にはわかる。司君は怯えているのだ、私に。
私は両手を腰に当ててムッと怖い顔を作った。
「お姉ちゃん、怒ってるんですけど? 君達揃いも揃って無断外泊して! お姉ちゃん寂しかったんだから!」
怒るとこ、そこかよ。と、呆れた声が後ろから聞こえた。
正直、彼らの仕事のことはよくわからない。冒険者も騎士団も私には想像もつかない世界だ。
だから私は自分の基準で考えるしかない。そんな私にとって無断外泊は絶対厳禁だ。そんな事をするくらいならさっさと独立して一人暮らしすればいい。
同居人として無断外泊は怒るべき事案だと思ってる。
「………百合奈さんは怖くないの?」
「怖くなんかない。それよりも下りてきてよ。無事を確かめさせて?」
私が両手を広げて呼び掛けると、少し躊躇った後司君は下りてきた。まるで透明なエレベーターに乗っているみたいで、外套だけが風を受けて揺れていた。
ふわりと私の前に下り立った司君の目が、真っ直ぐにこちらを射抜く。何度も何度も見てきた目だ。
未だにこの子は不安になるらしい。
人間てやっぱり本質的なものは変わらないものらしい。
私は1歩司君に近付くとそっと彼の頭を撫でた。さらりと揺れた前髪のすき間から覗く灰緑色が、なんだか不安そうに揺れている。
「大丈夫、司君は優しい良い子だよ。お姉ちゃんの自慢の弟なんだから。お姉ちゃんのために悪い奴らをやっつけてくれたんでしょ? ありがとう」
「………百合奈さん?」
「いつも守ってくれてありがとね。司君達がいるからこそ私も安心してこの世界に暮らせるの」
「待って、百合奈さん。なんか思ってたのと違う」
「大丈夫だって! 悪く言う奴がいたらお姉ちゃんがちゃんと言ってあげるから!! うちの司君は兄弟思いのとても優しい子なんですって」
「待って、ホントに待って! ―――おい、なに笑ってんだよ? マジ殺るぞ? あ"あ"?」
何とか笑い声は堪えられても、リズムを取るように跳ねる肩の動きは抑えきれなかったギルド長。司君が今まで聞いたことのない声で凄むとギルド長を睨み付けている。
「ふっ、ふへっ、だ、だってよ。くくく、これが、笑わずに、いられるかっ、て。ぶふっ! 優しい良い子のツカサ君? ぶふぉう!」
「よし、遺言は5文字のみ許してやる」
「! ま、待て、悪かった、悪ふざけしすぎた! 謝るからその物騒な物、しまいやがれ!」
私からは見えないけれど、司君の左手には何か物騒なものが持たれているようだ。
好奇心から覗き込もうとした私をさえぎるように司君が私の方を見た。
―――ああ、まだ駄目だ、まだこの子の心は凍ったままだ。
そう理解すると同時に私の体は勝手に動いていた。つま先立ちで背伸びをして、司君の首に腕を回してギュッとしがみついた。
冷たくなってしまった彼の心に温もりを分け与えるように、ぴたりと体をすり寄せた。
「!! ちょ、百合奈さん!?」
焦った司君がなんとか私を引き剥がそうとしている。かといって私に触れるのが抵抗があるみたいで手だけが右往左往している。
「司君。お姉ちゃんをギュッてしなさい」
「んな?!」
「こんなに心も体も冷やして。お姉ちゃんが温めてあげるから、ギュッてしなさい」
息を飲む司君の気配と後ろでも同じように息を飲む気配がした。マジか、この姉ちゃん、天然なのか?! などというギルド長の呟きが聞こえる。
意味わからん。
「百合奈さん、さすがにこれは……」
焦った司君の声に私はさらに抱き付く力を強くした。
「ねえ、司君。君のチートのことはよくわからないけれど、心まで力に染まってしまったら駄目だよ。もし万が一にも君に何かあったら、私は一生、後悔し続けるよ」
君は一人じゃないよ。少なくとも温もりを分けあえるお姉ちゃんがいるんだから。
私の言葉を聞いて、司君の体からふっと余分な力が抜けた気がした。
そして、躊躇いがちに彼の手が私の背中に回されて、少しだけ力が込められた。
「………ありがとう、百合奈さん」
小さな呟きが私の鼓膜を叩いた。