金曜日の空
12月9日金曜日。
どんよりとした雲が空を覆っている。冬の冷たい雨が、町を濡らす。
空が泣いている。
いや、そんなわけはない。
ベッドに横たわり、雨に凍える町を見つめる。
今日はもちろん学校はあるが、ベッドから起きあがることができず、私は休みを取ることに決めた。
今、時間は8時半を回ったところだ。
もうすぐ朝の礼拝が始まるだろう。
頭に浮かぶのは、なぜか亜砂斗の顔だった。
なぜ、彼の顔がちらつくのだろう。
「空~」
彼の甘えたような声が頭に響く。
彼はいつも、そうやって私にまとわりつく。
同じトーンで、夕羽にもまとわりついていたように思う。
彼は本心を見せない。
私を好きだ。
と言うのも、本当に心から言っているのか怪しいものだ。
けれど、彼はずっと私を追いかけてくる。
ストーカーかと思うくらいに。
どんなに冷たくあしらおうと、彼は諦めない。
なぜそこまでできるのだろう。
昨日も、一昨日も亜砂斗は病院についてきた。
顔なじみの看護士が気を遣い、個室なんてものを用意した。
正直迷惑な話だけれど、一時間近くにわたる点滴の間、好きな音楽や芸能人、学園生活の話など、とりとめのない話をした。
点滴なんて退屈で好きではないが、その時間はとても楽しく思えた。
それが、衝撃的。
「来るのかな。今日も」
静かな部屋に、自分の声が妙に大きく響く。
学校を休んだと気が付けば、来るだろうか?
なんでそんなことを考えているのだろう?
心が、揺れ動く。
チャイムの音が、静かな部屋に響く。
期待と戸惑い。そんな感情が渦巻く。
たぶん彼だ。
無視したらきっと、管理人を呼んで騒ぐに決まっている。
私は体をおこし、リビングへと出る。
そして、オートロックの解除ボタンを押す。
モニターを見る気にもなれなかった。
私はそのまま玄関先までいき、彼が来るのを待つ。
しばらくして、またチャイムが鳴る。
玄関に座り込んだまま、私はドアのカギを開けた。
ドアが勝手に開かれる。
そこにいたのは、想像通り。
制服姿の亜砂斗だった。
彼の顔にいつもの笑顔はなかった。
急いできたのだろう。
息を切らせ、制服はところどころ雨に濡れている。
私はぼんやりと、彼を見上げた。
亜砂斗はドアを閉め、靴を脱ぐと私の頭を抱きしめた。
夕羽とはまた違う、ほのかな香水の匂い。
匂いは記憶と直結しているという。
「死んでるかと思った」
冗談めいて、彼が言う。
私は亜砂斗の腕を掴み、小さく呟いた。
「如月……」
その言葉に驚いたのか、彼は体を離し、怪訝な顔を私に見せた。
私は何も言わず、彼の腕を掴んだまま目を閉じた。
夢を見た。
クリスマスの夕方、町にはたくさんの人がいた。
カップルに、家族連れ。
町を彩るイルミネーション。
白に青。黄色に赤。夕闇の中煌めく光を、デパートの前にたたずんでひとり、見つめていた。
周りには、自分と似たような待ち合わせと思しき人たちが、携帯電話を見つめ、時折あたりに目をやっていた。
私は携帯電話で時間を確認する。
何度目かの行為。
約束の時間より早く来すぎたのが悪いのだから仕方ないけれど、遅いと思ってしまう。
黒のひざ丈スカートに、紺色のタイツ。
ブラウスに、ジャケット。黒いハーフコート。
長く伸びた黒髪をがんばってアップにしたけれど、彼は喜んでくれるだろうか?
精一杯の自分なりのおしゃれ。
駅からはたくさんの人が吐き出されてくる。
その中に見慣れた紺色のダウンを着た青年がやってくる。
茶色い髪。グレーのマフラーをした三つ年上の大学生、如月。
私と夕羽の幼馴染。
彼は笑顔で私のところまで走ってきた。
「待った?」
「待った」
私は素直に、事実を述べる。
如月は笑って、そっかー、と言った後、私の頭を撫でた。
「その髪型、かわいいね」
恥ずかしさに、思わず頭に触れる手を掴む。
如月は笑って私の手を握り、行こうか、と告げた。
今日こそは言いたかった。
彼は私を振り返り、笑顔で告げる。
「プレゼント買ってきた」
「そういうのは、直前まで秘密にしておくものだ」
顔をしかめて、私は彼に告げた。
彼は、そうだね、といって、ただ笑うだけだった。
街路樹を彩るイルミネーション。サンタクロースが木の間を渡り、お店では屋上への侵入を試みている。
駅から歩いて10分ほど、週末はイベントが行われることが多い広場には、たくさんのイルミネーションのオブジェが飾られていた。
如月の手を離れ、イルミネーションの通路を走る。
その時だった。
近くで悲鳴が聞こえた。
逃げ惑う人々。
血にまみれたナイフを手にした、若い男。
人が、倒れているのが見える。
何かわけのわからないことをぶつぶつといい、男はこちらに近づいてくる。
足が、動かなかった。
逃げなくちゃ。逃げなければやられる。
男が向かってくる。
来たのは、刺される衝撃ではなく、如月の匂い。
何が起きたのか理解するのに、どれくらいかかったか。
崩れていく如月の体と、広がる血。
彼はダウンジャケットのポケットから、何かを取り出した。
匂いがする。
夕羽だろうか。
そう思い、寝ぼけた頭で夕羽の名前を呼ぶ。
目を開けると、そこにいたのは夕羽ではなかった。
癖のある茶髪。
ピアスの一つや二つ開けていそうなのに、開いていない。
亜砂斗の顔が、そこにあった。
なんで彼がいるのだろう。
「……空?」
彼の目が、ゆっくりと開く。
長い睫。細工物のような、整った顔。
彼はいつものような笑顔を見せ、言った。
「おはよう、空」
言いながら、彼は私の髪に触れる。
おぼろげに、彼が来た時のことを思い出す。
ああ、そうか。
匂いだ。
如月と同じ、香水の匂い。
高校生が香水をつけるのは、煙草のにおいを誤魔化すためだと聞いたが、亜砂斗からはそんな匂いはしなかった。
香水と、せいぜいシャンプーの匂いくらい。
私は黙って、彼の顔を見る。
玄関先で顔を合わせ、抱きしめられた後記憶がない。
亜砂斗がここまで……ベッドまで運んできたということだろうか?
雨のせいで、外の明るさからは時間が測れない。
頭の中が、徐々に覚醒し始める。
今、自分のベッドの上で男と二人きりである。という事実に気が付く。
夕羽以外の人間と、なぜこんなことになっている?
私は未だに私の頭をなでる亜砂斗の手を掴み、尋ねた。
「なんで、ベッドで寝ている?」
彼はにっこりと笑う。
いつものように。
「そばにいたかったから」
私がほしい答えとは違う言葉が、彼の口から洩れる。
「そうじゃなくて」
言いかけた私の頭を、彼は抱きしめた。
「うなされていたから、そばにいたいと思った」
彼が喋るたびに、心の中がぐちゃぐちゃとかき乱されていく。
なんだろう、この感覚。
顔を上げると、彼は携帯電話を開き、時間を確かめている。
「お昼。何か作ろうか?」
「なぜ」
彼はいつものように笑い、
「ご飯くらい作れるし」
などと言って、起き上がった。
なんで。と聞く前に、彼はさっさと私の部屋を出て行ってしまった。
ペースがかき乱される。
私はおとなしく、ベッドに横たわった。
窓の外は相変わらず、冬の冷たい雨が降っていた。
なんであいつを受け入れているのか、自分がわからない。
どんなに拒絶しても、あいつは私のところにやってくる。
「意味わかんない」
呟いて、首にかけられたネックレスを握る。
如月がくれた、最初で最後のプレゼント。
いつもこの部屋でそばにいてくれていた夕羽がいない。
その代わりに、亜砂斗がいる。
夕羽はなんで来ないんだろう。
私のこと、嫌になったのだろうか。
「夕羽……何とかしてよ、これ」
言いながら、シーツを握りしめた。
ほどなくして、亜砂斗が呼びに来る。
当たり前のように手を差出され、拒否もできず、その手を掴み起き上がる。
リビングに行くと、小さな土鍋が食卓に置かれていた。
亜砂斗は当たり前のように椅子を引き、私を座らせる。
なんなんだろう、この男は。
亜砂斗は慣れた様子で、土鍋からおかゆをよそった。
「まあ、ふつうのおかゆっていうか、重湯? ってやつだけど」
お米からわざわざ作ったのか。
彼はにっこりと笑って、どうぞ、と言い、私の隣に腰かけた。
勧められるままに重湯を口にする。
何でこんなことになっているのだろうと考えながら、少しずつ。少しずつ。
彼はそんな私をいつもの笑顔で見つめていた。
私は、横を向き、彼を見る。
「お前はいいの?」
「俺は、いつもの食べたから」
そう言って、また笑う。
見られながら食べるというのは、ただの罰ゲームのように思う。
ああ、でも、自分は同じことをやっていたのか。
凛に。
悪いことをしていたと、初めて気が付く。
あの日のことを思い出すと、何もできなくなってしまう。
お前が死ねばよかったのに。
そんな言葉を、彼の妹から浴びせかけられた。
如月のことを思い出して、ただ思い出に浸る。楽しかった時のこと、あの日のこと。
それを繰り返して、夕羽にすがって、面倒をかけた。
「そうか。そういうことか」
ひとり呟く。
「どうしたの、空?」
横を見ると、不思議そうな顔をする亜砂斗がいた。
私は首を振り、なんでもない、と呟く。
夕羽は、今どうしているだろうか?
私は、彼から離れる時期が来ているのだろうか。
もう卒業なんだ。彼は、都内の大学に行くと決まっている。
いつまでも私に構っていられないだろう。
彼にも、未来があるのだから。
「ねえ、空。
今日は病院に行くの?」
優しい声が、自然と耳に入り、私の思考は止められる。
「ああ。その予定だけれど」
「ついて行っていいよね」
当たり前のように、彼は言う。
どうせ何を言ってもついてくるのだろうからと思い、私は何も答えなかった。
亜砂斗といると、私は、この男をどう扱うかということばかり考えている。
おかしな気分だった。
如月とも、夕羽とも似つかないやつにどうしてこんなに心を乱されるのだろう。
なんで夕羽はこんなやつとつるんでいたんだ。
全然違うのに。
私は、自分の心の中に生まれた懐かしい感覚に戸惑いながら、頭の中で幼馴染に八つ当たりをした。