木曜日の夕羽・下
死んだ人間がかえってくることはない。
そんなことはよくわかっている。
二年前。
俺は亜砂斗とふたり、夜の町で生きていた。
夜の世界に、自分から足を突っ込んだ。
どうしてそうなったのか。
水泳部に所属し、期待される重圧。
思うようになかなか結果が得られない焦り。
そんなものだったのだろうか。
違う理由かもしれない。今となってはよくわからない。
ただ、夜のどこかよどんだ空気に浸り、ただ居場所を求めてさまよっていた。
そんな俺を止めようとしていたのが、如月。
俺の三つ上の幼馴染。
空は知らない、俺の夜の顔。
髪を染め、カラーコンタクトをすれば、俺は俺ではなくなる。
亜砂斗はどこにいても、何をしても目を引く。
その見た目の良さで相手をひきつけ、油断させ、その懐に飛び込む。
その危なっかしさと、豹のような俊敏さと、隠した鋭い牙はいろんな人間を惹き付けた。
彼を慕う者がつくったチームが『アスタルテ』
ただ集まって馬鹿をやる集団。
本名も年齢も知らない連中が、ただ居場所が欲しくて作った。
そんなものに俺たちは興味などなかったが、周りは勝手に俺たちに期待した。
厄介事が起これば、勝手に俺たちを巻き込んだ。
俺は面倒に感じていたが、亜砂斗は嬉々として首を突っ込んだ。
暴れられる。
それがあいつの喜びであり、存在意義。
あの自由奔放な学園でも、さすがにこんなことがばれたら、停学か、最悪退学だろう。
そんな綱渡りな感覚も、俺たちをよりいっそう夜の世界にひきこんだ。
今思えば、なぜ、如月にばれたんだろう。
親にでも頼まれたのか。
茶色の、少し長めの髪。虹彩のはっきりした茶色の瞳。
俺よりも背が高い、温厚そうな青年。
俺がひとりで溜まり場に向かう途中に現れた。
彼は真剣な眼差しで俺を見つめ、俺に手を伸ばした。
「帰るぞ」
俺はそんな如月を無視して先を急ごうとした。
あいつが待ってる。
如月に腕を捕まれる。
俺は振り返り、彼を見た。
「空は、まだなにも知らない」
弱点をつかれ、俺は動けなくなる。
如月は俺を引き寄せ、同じ言葉を繰り返す。
「空には、まだ知られていない」
だから帰ろう。とでも言うのだろうか。
こんな姿をみたら、空は笑うだろうか。
口がいいとは言えないあの子なら、ひとしきり笑ったあと、いろんな言葉を浴びせかけてくるだろう。
正直、あの子にはばれたくない姿だ。
その日だけは、如月に従った。
途中、スーパー銭湯に連れ込まれ、髪の毛を洗われた。
「お前、ドラッグとかに手を出してないよな」
帰り道、彼の車に乗せられて詰問された。
「俺は、そういうのは大嫌いだ」
そう答えたら、如月は安心したように、ならいい、と呟いた。
その二週間後。
如月は死んだ。
空を庇って、彼は殺されたらしい。
犯人は未成年だった。
今は危険ドラッグと呼ばれる、ハーブにおぼれた末の犯行。
被害者は他にもいたが、そんなニュース気にしている余裕などなかった。
泣きながら電話してきた空を迎えに、病院に向かった。
そこにいたのは、手や顔に血をつけたまま、女性警察官につきそわれ呆然とする空の姿だった。
その頃、空の両親はすでになく、保護者である叔母さんも出張で海外に行っていて、空のそばにいられるものは誰もいなかった。
しばらくの間、俺はずっと空のそばにいた。
如月の両親は、決して空を責めなかった。
空の身を案じてくれた。
けれど。彼の妹は違った。
俺たちより二つ年下の少女は、葬式に現れた俺たちを責め立てた。
「そんな不吉な色した服着て、こんなところに来ないで!」
完全な言いがかり。
高校生が制服を着て、葬式にでるなど当たり前のことだ。
深紅の制服は、去年まで如月だって着ていた制服だった。
未成年の凶悪犯罪被害者ということもあり、如月の家族はマスコミに追われていた。
加害者の名前は少年法に守られ、一切出てこないにも関わらず、被害者はそれまでの人生を、家族のことを暴露される。
そんなストレスの捌け口にされたのだろう。
マスコミに囲まれてはたまらない。俺たちは極力目立たないように、他の参列者に紛れて式場を離れた。
空の家でふたりきり。
俺にすがって泣く空を、ずっと抱き締めていた。
泣きつかれて眠っても、俺は空の隣にい続けた。
俺たちはそんな関係を続けていた。
はたから見たらおかしな関係。
叔母さんがいない間は、しょっちゅう空の家に行き、面倒を見続けた。
思い出の中に沈み、俺を如月の身代わりにしてきても、俺は空のそばに居続けた。
空に対して、抱きしめる以上のことはしたことはない。
俺は思い出の中の彼の身代わりでかまわなかった。
そこから彼女を解放するのは、俺じゃない。
空と思い出を共有する俺は、そんな立場にない。
俺がそばにいる限り、彼女は思い出に閉じこもる。
そのことに俺は気が付いた。
そして、空の後悔。
「言えなかった……好きだってちゃんと、言えなかった」
泣きながら何度も、彼女は俺に訴えた。
そこに入ってきたのが亜砂斗だった。
夜の町で、ハーブの売人の話を耳にしては潰しにかかっていた。
嬉々として俺にくっついてきた亜砂斗は、俺に尋ねた。
「なんでそこまで憎むんだ?」
憎んでいる。
それはそうだ。
如月を奪ったのだから。
空の後悔はどうにもならない。
俺はただ、自己満足で、彼を奪ったハーブの売人を潰していた。
無意味であるとわかっていても。
亜砂斗とふたりで暴れまわっていた。
学校と、プールと夜の町での生活。
ある日教室で、俺が亜砂斗に張り付かれているとき、彼女は教科書を借りにやってきた。
空は亜砂斗に向かって、心底不思議そうな顔をして言った。
「なんで楽しくもないのに笑う?」
背中で完全に固まる亜砂斗。
俺は空に、
「言うな、空。こいつはばれていないと思っている」
と答えた。空は目を細め、
「めんどくさそうなのに、取りつかれてるんだね」
と言って、去って行った。
それが強烈だったらしい。
亜砂斗は、俺に問い詰めた。空が何者なのか。
「空はやめておけ。お前の手におえる相手じゃない」
「なに、お前あの子のこと好きなの?」
背中に張り付いたまま、俺の顔を覗き込む。
俺はいつもの顔で、違う、と明確に否定した。
教科書を返しに来た空をつかまえ、亜砂斗はなんの脈絡もなく唐突に、彼女に宣言した。
「俺、君と付き合いたい」
クラス中が注目する中、空は冷たく、言い放った。
「お前、誰?」
他人になんの関心も寄せない空が、亜砂斗を認識しているはずもなく。
彼女は一時間前の会話など、覚えているわけもない。
地味にへこむ亜砂斗を慰める気もなく、ただ、経過を見守ることにした。