水曜日の凛
私の大好きな人。
空ちゃん。
大切な人。
色が白くて綺麗で。今にも壊れそうで。
一人ぼっちだった私を受け入れた人。
なのに、私は空ちゃんより……でも空ちゃんとは違う意味で……大切な人に出会った。
夕羽君。
出会ったって言ったら変な表現かもしれない。
会ったのはずっと前。
中学一年のときだから。
その時は気にも留めていなかったし、空ちゃんの幼馴染という点以外、なにも知らなかった。
仏頂面で、何を考えているのかわからない夕羽君。
いつも空ちゃんばかり見ていたのに、彼を追いかけるようになった私。
この二週間くらいかな? 彼を見かけなくなったのは。
いつも一緒にいた亜砂斗君も知らないという。
授業の合間の休み時間も、昼休みも放課後もなぜかつかまらない。
避けられてる? 私たち。
亜砂斗君は何も知らないみたいだし、空ちゃんも。
二人が何も知らないんじゃ、私には何もわからない。
夕羽君どうしちゃったのかな?
朝の7時半。学校にはまだ部活がある生徒たちしかいなかった。
下駄箱を見れば、夕羽君の靴がある。もう学校に来ているんだ。
昨日学校中を探した。だけど見当たらなかった。
夕羽君は水泳部だったからプールにいるかもしれないと思ったのに……プールにもいなかった。
いったいどこにいるんだろう。
学校にいるのは確かなのに。ここまで人を避けることってできるのだろうか?
「それってありえないわよね。だって、学校ってそんなに広くないもん」
ひとり呟く。
私は靴を脱いで校舎内に入った。
こんなに早く学校に来たのは6年になる学園生活の中で初めてのことだ。
「そうそう。こんなに早く来る必要なんてないもん。私、美術部だし」
空ちゃんと出会った部活。空ちゃんは途中でやめちゃったけど、私は続けてた。
そして美術大学に入るのが、今の私の目標……
ううん、違う。今の目標は夕羽君を探すこと。
それ以外の目標なんてないわ。
私は一人歩き続ける。歩きながら考える。夕羽君がいそうな場所。
学園はそう広くない。
なのに……なのに
「どうしていないのかしら」
「なにがいないんだい?」
聞き覚えのあるようなないような声に、私は振り返る。
そこには先生が立っていた。
二年前に担任だった先生だ。今は空ちゃんと亜砂斗君のクラスの担任をしている。
見た目は30歳前くらい。優男といった感じで女生徒の間では絶大な人気を誇っている。
ノンフレームのメガネに長めの黒髪。知的な感じが素敵だけれど、私にはどうでもいいことだった。
「先生、おはようございます」
私は深々と頭を下げた。
「おはよう。誰か探しているのかい?」
先生が笑顔で言う。
この人に聞いてわかるだろうか……?
「……夕羽君を探しているんです」
「夕羽君……?」
すると先生は目をぱちくりさせる。
「学校に来ているはずなんですが、見つからなくて」
「なにか約束しているのかい?」
私は首を横に振る。
「そう」
「ずっと変なんですよ。なんだか避けられているみたいで」
言葉にしてから考える。誰が避けられているのかな?
亜砂斗君? 空ちゃん? 私?
避けられる? どうして?
考えてもわからない。
「心当たりはみんな見たの?」
先生の言葉に思考がとめられる。
「あ……はい。教室とか校舎内や中庭見ましたけど……」
「靴はあるの?」
私はこくり、と頷く。
先生は微笑んで言った。なんだか「微笑みの貴公子」みたいに。
「学校はそう広くないよね。ここにいるはずなんてない、だから探しに行っていない場所、
あるでしょ」
言われて考える。
いるはずなんてないと思って行っていない場所。
いくつかある。
いわゆる特別教室。鍵がかけられているし、水泳部だった夕羽君がいるはずないと思って探しにはいっていない。
あとは、屋上。常に鍵がかけられているから行っても仕方ないと思っていた。
それに、屋上手前の階段にはたまにカップルがいたりするから正直近づきたくなかった。
「……そっか。学校中探したつもりですけど、行ってないところがあります」
「そこを探してみたら」
私は頷いた。
「先生、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて私は走り出す。
まずは視聴覚室。鍵はかかっている。
図書館、生物室、化学室、物理室……
いくつか開いている部屋があったけれどそこに夕羽君はいなかった。
そして最後。
屋上。
幸い、階段の途中にカップルはいなかった。
屋上へと出る扉は重い鉄製の扉。この向こうに夕羽君はいるのだろうか?
あまり期待せず、ノブへと手をかける。
そっとまわすと……回った。
ゆっくりと扉を開くと、冬の冷たい風が流れ込んでくる。
向こうに見える茶色に染まった山。
そして。
空を見上げて寝転ぶ一人の少年。
扉を開けたまま、私はしばらく彼を見つめた。
頭には枕なんてしている。なんて用意がいいんだろう。
ここからじゃ起きているのか寝ているのかわからない。
どうしてここにいるんだろ? なんでずっと私たちの前に現れなかったのだろ?
次々と浮かぶ疑問たち。
私はそっと扉を閉めて、ゆっくりと彼のほうへと向かった。
なんて声をかけようか、いろんな言葉が駆け巡る。
だけど言葉なんて決められなくて、そして、出た言葉はいたって普通のものだった。
「おはよう、夕羽君」
ちょっと離れたところで、私は言った。
すると、彼はゆっくりと上半身だけ起き上がらせてこちらを振り返った。
メガネの奥、真っ黒な瞳が私を射抜く。ちょっと怖い。
「おはよう」
それだけ言って、彼はそのままの体勢で風景を見つめる。
私はその隣まで歩いていって、座り込んだ。
何も言葉はなかった。
遠くに響く踏切の音。
風の吹く音。
車の走る音。
いろんな音が響いている。
あまり気にしたこともなかった。
街にはこんなにたくさんの音があったんだ。
学園に通って6年。なのに、こんな風に学園の周りを眺めたことなんてなかった。
当たり前の景色。当たり前の音。
みんな当たり前にあったもの。
だけど……もうすぐお別れするもの。
そうだ。もうすぐ卒業なんだ。あと少しで、あと少しで学園生活が終わる。
そうしたらみんなばらばら。
ばらばらになったら……どうなるのかな?
「早いな」
突然、夕羽君が言った。
なんのことだかわからず、きょとんとしてしまう。
「お前、こんなに早起きだっけ」
そういうことか。
「ううん……いつもよりかなり早い、かな?」
うん。かなり早い。いつもより一時間速い電車で来たんだもん。
受験勉強もろくにしていない。まあどうにかなるかしら?
絵は毎日描いてる。塾にも行ってる。なるようにしかならないわよね。
「他のふたりは?」
「……空ちゃんはまだ。空ちゃん心配だけど、大丈夫かな?」
最後は独り言みたいになった。
空ちゃん。相変わらずご飯食べてないのかな? 今度泊まりに行ってみようか。
大好きな人がやつれていくのは見ていて心が痛む。
なんで空ちゃん、この時期になるとご飯食べられなくなっちゃうのかな?
「……あいつは?」
「えーと……亜砂斗君? 亜砂斗君はたぶん空ちゃんと一緒」
亜砂斗君はすごいと思う。ほとんど相手にされていないのに、なのに空ちゃんの側にいる。
空ちゃんも亜砂斗君のことほんとは嫌いじゃないのに、なのに相手にしてない。
なんでだろう?
何が空ちゃんを変えちゃったんだろう?
「ねえ、夕羽君」
「何」
そっけない返事。
「夕羽君、空ちゃんと幼馴染だよね」
「ああ」
「空ちゃんになにがあったのか、知ってる?」
夕羽君がじっと、私を見つめてくる。
そこに、これと言った表情はない。どうしたんだろう? 私、まずいことを聞いちゃったかな。
「それを知って、どうする?」
問われて、私は考える。
ただ、理由が知りたい。それだけじゃだめなのかな。
理由がわかれば、何かできることがあるかもしれない。
そうは思ったけれど、よく考えたら、私に出来ることなんてないかもしれない。
でも、友達なんだから気になるに決まってる。空ちゃんを変えたものはなんなんだろう?
私が知らない空ちゃんのこと、夕羽君なら知ってるかもしれない。
夕羽君はじっと私を見ている。物憂げな表情を浮かべてる。
私の答えを待ってる。
「私は、空ちゃんのこと、心配だから」
「それはわかってる。
本人が言わないこと、なぜ俺が言うと思う?」
その言葉は、ナイフのように、私の心に突き刺さった。
そうか。考えても見なかった。
空ちゃんが教えてくれないから、夕羽君に聞こうと思った。それは普通の考えだけど、だからといって、本人が言わないことを夕羽君は言わない。
私が好きな夕羽君が、友達の、幼馴染みの秘密を言うわけなんかないんだ。
私は夕羽君から目をそらした。
なんだか、自分が恥ずかしかった。
「意地悪なこと言ったな」
静かに彼が言う。
私は首を横に振り、小さく、ごめんなさい、とこたえた。
遠くに部活の人たちの声が聞こえる。
もうしばらくすれば、たくさんの生徒が学園にやってくる。
空ちゃんと亜砂斗君もくるかな?
「ねえ、夕羽君」
私は顔をあげ、彼をみた。
夕羽君はじっと、遠くの山をみたまま、なに、と答えた。
「どうして、皆を避けてるの?」
夕羽君が、私を振り返る。
眼鏡の奥の瞳はなんだか切なそうだった。
何があったんだろう。夕羽君、何を考えてるんだろう。
その表情からは何も読み取れなかった。
夕羽君は静かに言った。
「べつに、お前を避けている訳じゃない」
含みのある言い方だった。
私を避けていないけど、それ以外を避けてるってことだよね?
空ちゃん? 亜砂斗君?
どっちだろう? なんでだろう。避ける理由がわからない。
頭のなかをぐるぐるといろんな考えが巡る。
「なあ。たのみがある」
夕羽君は私に顔を近づけてくる。
思わぬ行動に、私は顔が赤くなる。
真剣な眼差しで、彼は言った。
「誰にも言わないでほしい。俺がここにいること」
私は何度もうなずいた。
夕羽君との秘密。
それはなんだか嬉しかった。
「誰にも、知られたくないんだ」
「うん。でも、気になるんだけど聞いていい?」
「何」
「鍵、どうやって開けたの?」
すると、めったに表情を動かさない彼が、わずかに笑った。
「あれくらいの鍵、開けられる」
なんだか聞いちゃいけないことを聞いた気がするけれど、秘密が増えた。
夕羽君との秘密。
空ちゃんも、亜砂斗君も知らないこと。
「ねえ、夕羽君。私からもお願いしていいかな?」
「内容によっては」
「たまに、ここに来ていいかな?」
私はじっと、夕羽君の目を見た。彼はいつもの物憂げな表情で、小さく頷く。
「たまになら」
やった。
私の心は嬉しさで一杯になった。夕羽君とふたりきりになれる。その事が何よりも嬉しかった。
「それと、空を、見ててやってほしい」
意外なせりふが、その唇からもれた。
夕羽君、そんなそぶりを見せないのに、空ちゃんが心配なんだ。
「空ちゃんを? それは大丈夫だけど」
「あいつだけじゃあ、不安だから」
そう言って、夕羽君は離れ、もとの場所に寝転がった。
不安。その気持ちはよくわかる。
私も空ちゃんが心配だ。
夕羽君にとって、空ちゃんは気持ちを動かされる存在ということだ。
そうなると、夕羽君が避けているのは亜砂斗君?
理由がさっぱりわからないけど、私の知らない何かがあったのだろうか?
亜砂斗君、始めの頃は夕羽君に会えないこと、余り気にしてないみたいだった。
でも、一週間がたった頃、焦り始めたように思う。
夕羽君が亜砂斗君にくっついて回ってたと思ってた。たぶん、みんなもそう思ってる。
でも、実際は違うのかも。
亜砂斗君が、夕羽君にくっついてた。たくさんの生徒に囲まれて、友達沢山いそうなのに、彼は夕羽君を追いかけ回していた。
なんだかおかしな感じ。
正反対なふたりなのに、いったいなにがあったんだろう。
時間が静かに流れていく。
ときおり、冬の凍てついた風がふき、私の顔を突き刺す。
それきり私たちは何も話さなかった。
予鈴がなるまでの間、私はずっと、夕羽君と冬の景色を見つめてた。
昼休み。
私はいつものようにお弁当袋を抱えて、空ちゃんたちのクラスに行った。
騒がしい教室内。空ちゃんのいる理系クラスは、若干男子の方が多い。
だからか、なんとなく男臭い感じがする。
そんなクラスの片隅で、空ちゃんの背中に、亜砂斗君が張り付いている。
私は早足で近づくと、黙って亜砂斗君の頭をぺしっと叩いた。
「いたっ!」
亜砂斗君がこちらを見上げる。
その眼には、困惑の色がありありと見える。
「どうしたの。
凛ちゃんにしては珍しいことを」
私は空ちゃんの前の席の椅子を、空ちゃんの席のほうに向けてそれに腰かけた。
私は黙って、亜砂斗君を見る。
首をかしげて、私を見つめてくる。
彼はいったい夕羽君に何をしたのだろう。
心当たりはないけれど、何かしたとしたら許せない。
私は空ちゃんへと視線を移す。
空ちゃんは首をかしげている。
だいたい、私の大事な空ちゃんに手を出しておきながら、夕羽君も独占するなんてずるすぎる。
どっちかにしてほしい。
ううん。
空ちゃんだけにしてほしい……
って、あれ?
私は自分が今考えたことに首をかしげる。
それだと結局、亜砂斗君は喜ぶだけだ。
なんか、ずるい。
「どうしたの、凛ちゃん」
亜砂斗君の声で、私の思考は止められる。
この軟派で軽薄そうな、私たちとはすむ世界が違うとしか思えない彼が、空ちゃんを追いかけ回すようになったのは一年前の秋だ。
夕羽君のおまけでしかなかった彼が、私たちの世界に入り込んできた。
私はお弁当を開けて、手を合わせる。
「いただきます」
海苔ののったごはんに、小さなハンバーグ。ホウレン草のいためもの。
よくあるお弁当用の冷凍食品。
空ちゃんの目の前には、スポーツ飲料があった。
いつもはなにも飲まないのに、心境の変化でもあったのかしら?
私たちは、とりとめのない会話をかわす。
ときおり、亜砂斗君が空ちゃんにちょっかいだして、冷たくあしらわれる。
それでも亜砂斗君はめげない。
一生懸命、空ちゃんを笑わせようとする。
頑張りはわかるけど、頑張る方向が間違っているんじゃないかしら?
もしかして、亜砂斗君、自分がちゃんと告白してない事に気がついてないんじゃない?
モテる人だから。そういう真剣に向き合って告白するって発想がなさそう。
私は思い切り、ハンバーグに箸を突き刺した。
あの亜砂斗君が固まっているのがわかる。
空ちゃんも、若干ひいてる気がする。
私は気にせず、モグモグとハンバーグを食べる。
もうすぐこういうお弁当ともさよならするのかしら。
「ねえ、空ちゃん」
ハンバーグを飲み込んで、私は口を開いた。
首をかしげて、不思議そうな顔をする私の大切な友達。
「病院は行ってるの?」
すると、空ちゃんはちらっと亜砂斗君をみた。なんでだろう。
そして、彼女は口を開いた。
「帰りに、いこうと思って……」
「俺、ついていく」
最後まで言いきる前に、亜砂斗君がいつもの笑顔で言った。
そんな彼に、無表情に、極力冷たく、空ちゃんは言い放つ。
「断る」
「鞄人質にとってでもついていく」
ああそうか。だからさっき、ちらっと亜砂斗君をみたんだ。
やっちゃった。
早く気が付けばよかった。
亜砂斗君、
ね、空。
なんて、笑って言っている。
もう、なんで気が付かなかったのかしら。私のばかばかばか。
私はもう一度、ハンバーグに思いきり箸を突き刺した。