火曜日の亜砂斗・上
12月6日、火曜日。
この地域独特の、乾いた冷たい風が吹きすさぶ。
降り立った駅は、学園の生徒たちでごった返していた。
黒やグレーのコートに身を包んだ生徒たち。
今は12月。
コートを着ているのは当たり前と言えば当たり前だ。
だけど俺には理解できなかった。
なんであんな重いものを着られるのだろう。
はなはだ疑問だった。
駅を出ると一つの方向へと生徒たちが向かっていく。
俺は習慣的に生徒たちの波をはずれ足を止めた。
周囲を見回す。
だが、目的の人物はいなかった。
俺は生徒たちの波の中に戻り一路学園へと向かった。
今日もいない。
毎日一緒に登校し、毎日一緒に遊んでいた奴……夕羽。
あいつの姿を見なくなって、一週間以上が過ぎた。
学園でも見ないし、帰りも見かけない。
学校には来ているらしいけど、俺は全然会えていなかった。
避けられている。
そう感じるものの一切の心当たりがない。
周りの友人たちに聞いても首を傾げるばかりだった。
そもそも夕羽の友人というのはいないに等しい。
「お前が知らなくて誰が知ってるんだよ」
と何人かに言われた。
夕羽は人との接点を持ちたがらないし、寡黙で表情に乏しい。
言ってしまえば俺とは正反対だ。
あいつがいないのは落ち着かない。
学園生活始まって以来の大事件にも等しいものだ。
どうしていないんだ? 考えても答えは出ない。
そのとき、見覚えのある後姿を視界の端に認めた。
いまどき珍しい長く伸びた黒い髪。
人の波に歩調をあわせず早足に歩く姿。
あれは……
空。
俺の大好きな空。
人の波を割り、俺は空に声をかけた。
「おはよう、空」
帰ってくるものは沈黙。
俺は気に留めず彼女の横についた。
歩調をあわせ横目に空の顔を見る。
相変わらずの無表情。だけど若干やつれているように見える。
一週間はまともに食べていないらしい。
また去年のように倒れるのだろうか?
好きな人が衰えていく姿というのは、見ていて苦しい。
昨日教室に戻ってこなかったときは本気で心配した。
どこかで倒れているんじゃないかと、凛ちゃんと話していて、探しに行こうとしたときだった。
顔なじみの保健医が教室に来て一言告げた。
「空なら保健室にいる」
わざわざ保健医が教室に来て、俺たちに知らせに来たのか理由がわからずそれを問うと、
「『空に何かあったら伝えろ』と言ったのはお前だろう」
と言われた。
そういえばそんなことを言ったような気がする。
本鈴がなる中、俺は走って保健室に行った。
授業なんてどうでもいい。
高校3年二学期終盤の授業なんて、まじめに受けるだけ馬鹿らしい。
凛ちゃんも保健医も俺を止めはしなかった。
俺にとっての一番は空。
学園へと向かいながら、ひとり俺は昨日の出来事を反芻していた。
「夕羽はどうした」
突然、空が口を開いた。
思考をとめられ、何を言われたのかわからずきょとんとしてしまう。
「え?」
「夕羽はどうした」
先ほどと同じ口調で空は言った。
「夕羽……プールじゃないかな。他には思いつかないし」
夕羽は水泳部だった。
インターハイでも入賞し、スポーツ推薦で都内の大学への推薦が決まっている。
あいつはプールにいるのだろうか。けど、その可能性は低いだろうな。
「会ってないのか」
「全然」
「そうか」
それきり空は黙ってしまった。
ふたりの間に流れる沈黙。
それはいつもと同じ。いつもの沈黙……あれ?
……何かが足りない。
昨日はあったはずなのに今日はない…
何が足りないのか気がついて、俺は空に視線を向けた。
「あ、ねえ、空。凛ちゃんは?」
「学校」
「? 空を置いて?」
「夕羽を探すとか言っていた」
その言葉に俺は納得する。
何よりも空が大事な凛ちゃん。彼女が空をおいて学校に行くなどありえない。
昨日の5限目の休み時間、眠る空を見て、教室に帰らないと頑として譲らなかったくらいだ。
彼女が空とは別に大事にしているものというと、夕羽以外にありえなかった。
夕羽。
なんで俺を避けるんだ?
いつもと同じ、ざわついた教室。
「亜砂斗おはよ~」
「亜砂斗、教科書かして」
集まってくる生徒たち。
彼らを適当にあしらいながら俺の意識は違うところに向いていた。
視界の端に映る空の姿。辛そうだった。動くのもやっとではないかと思う。
そこに意気消沈といった表情の凛ちゃんがやってきた。
あの顔は夕羽に会えなかったって事だろう。
どこを探したのだろう? 後で聞いてみよう。
今はとてもじゃないが聞ける状況じゃない。
男子も女子も問わず、俺の周りには人が集まる。
俺にはなぜだかわからない。
ガラス窓に映る自分の顔が視界に入る。
俺は笑っている。本当の笑顔じゃない。
なんで俺は笑っているんだ?
笑いたいわけじゃないのに。
嫌なことはしない。面倒なことはしない。
それが俺の信条だ。だけど正直説得力がない。
自分の感情を抑える。それは俺がいつもやっていること。
いつからこんなことを覚えたのだろう。
両親を失って、祖父母に引き取られたときから?
いい子でいようとでも思ったのだろうか。
思考をさえぎるように予鈴が鳴り響く。
生徒たちは、ばらばらと自分の席へと着いていく。
見れば凛ちゃんが空に手を振っている。
教室を出て行く凛ちゃんの背中を見送ってから、空は机に突っ伏した。
動くのもやっとだろうと思う。
いつもは普通なのに、この季節になると何も食べられなくなるらしい。
そうだ。
春、夏、秋は普通なのに……
いったい何が原因なんだろう。
俺の周りにはわからないことが多い。
夕羽。空。そして、自分自身。
これが青春?
わからないことは考えても仕方ない。
机の中から聖書と讃美歌を出す。長年使っているため、痛みが激しい。
黙祷に讃美歌。聖書の朗読に先生の話。
適当に聞き流して、俺の意識は別の場所。
高校三年生の12月にまじめに授業を受けている者は少ない。
授業にもよるけれど半分以上の生徒はこっそり内職していた。
俺は特に何もしていなかった。
推薦でとっくに決まってしまっているため、授業中は暇で仕方なかった。
じっと空を見つめる。
彼女は黒板を見つめて、たまに手を動かしている。
きちんと授業を受けているらしい。
彼女は―たしか進路は決まっていない。
たぶんそれどころじゃないのだろうな。
四限目の終わりのチャイム。ばらばらと散らばる生徒たち。俺は即行かばんの中からいつもの食事を取り出す。
いつもの食事、ゼリー。今日はプロテインだ。
俺は10秒もかけずそれを飲み干すと、ゴミ箱に行くついでに空のいる席まで行く。
彼女の前にはいつものように凛ちゃんが座っている。
凛ちゃんの顔はいつにもまして悲しげだった。
「空ちゃん、今日学校来て大丈夫だったの?」
「……休むわけには行かないから」
「でも空ちゃん出席日数は大丈夫でしょ?」
「宗教とか、週1の授業は休めない」
そんなやり取りをしているふたりに俺は割って入った。
いつもと同じ方法で。
後ろからそっと、空の首に手を回す。
シャンプーの匂いがほのかに香る。
「空~。また夕羽に逃げられた」
「探しになんて行ってないだろう」
と即座に突っ込まれ、俺はかすかに笑う。
「あ、ばれてた?」
「授業が終わりお前が私に声をかけるまで、まだ大して時間がたっていない。
ということはこの教室から一歩も出ていないということだ。
だいいち、さっきゴミを捨てていただろう」
淡々と述べる。
今日は夕羽を捜しに行く気持ちになれなかった。
昨日、空が帰ってこなかったときのことを思い出せば、今はあいつよりも空の側にいたかった。
机の上を見る。
凛ちゃんの前には広げられたばかりと思われるお弁当箱。
空の前には……予想通り何もおかれていない。
「今日も何もなし?」
空は何も答えない。
「俺のゼリー、あげよーか?」
「いらない」
間髪いれずに答えられてしまう。
すると凛ちゃんがじっと空を見つめて、
「もらいなよ。また倒れたら絶交だから」
その言葉に、空はちょっと思案したようだった。
彼女は凛ちゃんにかなり弱い。その理由はよくわからない。
思わず嫉妬してしまう。そんなことしても仕方ないけれど。