月曜日の夕羽・上
12月12日月曜日。
夢を見た。
学園で、いつものように、亜砂斗が背中に張り付いてくる。
自分の席で本を読んでいる俺のことなどお構いなしに、彼は言う。
「退屈だよー。夕羽ー。帰りどっかいこーよー」
甘えた声が耳に絡み付いてくる。
心が、ざわついてくる。
毎日のように繰り返された光景。
「重いから離れろ、暑苦しい」
いつからか俺は、そんなことを言うようになっていた。
それでも彼はめげずに、背中に張り付いてきた。
「冷たいこというなよー。空に言われるのだってショックなのに、お前にまで言われたら俺、死んじゃう」
言って、よりいっそう腕に力が込められる。
体が熱くなるのを感じるが、それ以上の拒否はできなかった。
灰色の雲が空を覆っている。
このあたりでよく吹く乾いた風が、町を荒らしていく。
全然返信をしないのに、亜砂斗からはしょっちゅうメールが来る。
まるで、別れた恋人のように。
その日の出来事がほとんどだが、時折挟まれる言葉があった。
「俺、お前に何かした?」
いいや、お前は何もしていない。これは俺の問題だから。
そのメールで、俺は亜砂斗が空の家に行ったこと。家に入ったこと。ご飯を作ったことなどを知った。
だが、週末はなぜか家に入れてもらえず、顔を合わせることができなかったという。
何があったのだろうかとは思うが、大方の予測はできる。
だから俺は、空の呼び出しに応じた。
学園をさぼり、制服姿で彼女のマンションへとやってきた。
オートロックの解除ナンバーを入力し、俺は、マンション内へと入る。
空の叔母さんから預けられた鍵で、俺は、空の部屋を開けた。
寝ていたら悪いと思い、静かにドアを開け閉めする。
幾度となく足を運んだ空の家。
彼女の叔母は海外出張が多く、今もどこか外国に行っている。
3LDKの家に、空はひとりだ。
廊下を行き、右手がわにある彼女の部屋のドアをノックする。
反応がない。仕方なくドアを開けるが、そこには空はいなかった。
空っぽのベッド。
何度か空の添い寝をしたベッドに、この間亜砂斗が寝たかと思うと、胸の奥を締め付けられる。
亜砂斗。空。
二人の存在が、俺をおかしくしていく。
空の部屋をあとにし、リビングへと向かう。
ソファーに寝転がる空の姿があった。
色気も何もない、ジャージにトレーナーを着ている。
俺は彼女が横たわるソファーのそばまでくると、床に座り込み、空の顔を覗き込んだ。
呼び出しておきながら、寝息をたてて眼鏡をかけたまま寝ている。
暖房のきいた部屋。
俺はダウンをぬぐと、それを空にかけた。
そして、そのままソファーにもたれ今日ここに来た理由を考える。
断ることもできた。
空は亜砂斗に気持ちを動かされ、戸惑っているのだろう。
如月とも、俺ともまるで違う、軽薄そうな見た目。常に人に囲まれ、楽しくもないのに笑っている。
そんなやつが、こんな無表情で、冷たい態度をとり続けた空を追い求めている。
一歩間違えればストーカーだろう。
俺に送るだけのメールを空に送っていたら完璧だ。
まあ、そこまではやらないだろう。あいつはそこまでバカじゃない。たぶん。
「亜砂斗……?」
空の寝ぼけた声が聞こえる。その内容に俺は思わず苦笑する。それと同時に心の中で、何かが壊れる音がした。
呼び出しておきながら、亜砂斗と誤認するなんて。俺はもう、彼女に必要じゃないんだ。
嬉しさと、寂しさと……妬ましさと。そんな感情が押し寄せてくる。
俺は振り返って、寝ぼけ顔の空に笑いかけた。
「おはよう、空」
彼女は目を擦り、じっと、俺の顔を見つめる。
「夕羽……ごめん、昨日あまり眠れなくて……それで……」
言いながら、上半身を起こす。
体にかけていたダウンジャケットが、はらりと床に落ちていく。
それに気がついて、空はジャケットを拾おうとするが、それよりも前に、俺はジャケットを拾い上げた。
それをソファーに掛ける。
「ごめん、ありがとう」
言って、空はソファーの端によけ、俺が座るだけのスペースをあける。
俺は立ち上がりそこに腰かけた。
足をソファーにのせ、膝を抱えてまだぼんやりとしている空を見る。
一時期よりいくぶん血色がいいように思う。
「どうしたんだ、今日は」
俺はソファーにもたれ、空へと顔を向けた。
空は二重の大きな目を細め、俺を見つめる。
「お前がなんで、急に私たちから距離をおいたのか考えた」
無駄なことをするなと思う。
俺のことなど、もう考えるのをやめたらいいのに。
「てっきりお前は私に特別な感情を抱いているのかと思っていた」
それはある意味で間違いではない。
大切な存在だが、恋愛感情はない。
俺はただの身代りにすぎない。
空が未来へと目を向けられるまでの。
「でも、違うんだな。そんなだったら、とっくに何か起きている」
その通りだ。
いくらでも、空に手を出すチャンスはあったのだから。
「ずっと、私はお前に甘えていた。亜砂斗だけでも、大変だろうに」
毎日のように背中に張り付いてきた声を思い出す。
「俺は空と、夕羽と、ついでに凛ちゃん以外はどーでもいーんだもん」
甘えた声で、そんなことを言っていたこともあった。
「お前に必要なのは、俺じゃない」
言いながら、空の頭を撫でる。
空の表情は複雑そのものだった。
「俺がいたら、ずっと思い出させるだろう。俺たちは、近すぎる」
しょせん、俺たちがやっていたのは疑似恋愛にすぎない。
大切なものなのは確かだが、だからといって、恋心は存在しない。
この奇妙な三角関係を、早く終わらせたい。
どうせ、来月初めの三学期末試験が終われば、長い家庭学習期間に入る。
いまここで決着をつけたところで、その後の生活に支障はないだろう。
それぞれ別の未来が待っているのだから。
「私は、お前を利用してきた。拒絶しないのをいいことに。甘え続けてきた。
ほんとは、お前に亜砂斗をどうにかしてほしかった。あいつ、私が何を言ってもきかないし、拒否してもうちに来るし」
空の声には戸惑いが感じられた。
俺は笑って、
「お前、その前に亜砂斗を家に入れただろう。なのに拒絶したら、あいつ、混乱するぞ」
「でも……」
言いかけて、空は口をつむぐ。
でも、というのは、俺の言うことをみとめているということだ。
空の顔が赤い。
無表情に、冷たくあしらっていたのに。ここまでかわるものなのか。
「お前は、それでいいのか」
「どういう意味だ?」
「だから、夕羽はいいのか? 何て言うか、その……」
空が何を言いたいのかわからず、俺は首を傾げて空を見る。
空は目をふせて、悩んでいるようだった。
「亜砂斗はたぶん、勘違いしてる。お前のこと。私、この間、寝ぼけてお前の名前、言っちゃったし」
「ほんとに?」
空は頷く。
それは、混乱どころの騒ぎではなさそうだ。ひとりで悶々と悩んでいそうだ。
バカなことをやっていなきゃいいが。もう遅いかもしれない。
「放っておけ。別にまだちゃんと告白もされてないんだろ。真剣に向き合う覚悟ができれば、聞きに来る」
「そう……なの?」
「ああ、だから空は気にするな。あいつと俺との問題は、きちんと片付けるから」
「ねえ、夕羽。
お前は、亜砂斗が……」
最後まで言わせたくなくて、俺はそっと、その唇に人差し指をあてる。
「言うな、空」
「夕羽……」
複雑な顔をして、俺を見つめている。
ころころと表情が変わる様を見るのは、久しぶりに感じた。
「夕羽。私は、お前が好きだったよ」
言いながら、空は俺の頬に触れる。
俺は空の唇をなぞる。
「ああ、俺もお前が好きだった、空」
でもそれは、恋だとか、そんな浮わついたものではない。
空もそれは同じだろう。
「だから、俺はお前の幸せを望む」
「夕羽……ありがとう、今までそばにいてくれて」
そんな彼女の肩に手を回し、その額に俺は口付けた。




