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揺れる鼓動  作者: 秋花
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四話

「あら、良子ちゃん今日は顔色がいいわねえ。何かいいことでもあったの?」

「はい、娘がわたしのために好物のケーキを買ってきてくれて……」

「あらあら! よかったわねえ! 静樹ちゃんちょっと心配してたけど、お母さん思いのいい子じゃないの! 良子ちゃんもこれで安心だわねえ!」

「ありがとうございます」


 近所の婦人との会話も適度に済ませ、良子は買い物への道すがら物思いにふけった。その面持ちからは近頃背負っていた暗い影は見えない。足取りは軽く、老け込んで見えていた相貌は今では若々しい。

 彼女の表情を明るくさせているのは、娘の態度の変化ゆえのものだった。目下の悩みは娘の心の難くなさであったのだが、それも徐々にほどけてきたのかもしれない。

(あら、いつの間にあんなところにお店ができていたのね)

 常に伏せていた顔を上げれば、そこには知らない風景が溢れている。

 潰れかけていた料理店は家電量販店に変わり、骨組みだけしかできていなかったはずのものは目新しい新築へと変貌を遂げている。知らず知らずに息が熱気に溶けた。それは、雲の上まで上ってしまいそうなほどに軽い吐息だった。

 視界に入る全てが目新しい。命を削りながらメスを呼ぶ蝉の声。太陽の陽射しに当てられた木々の影の心地よさに、熱されたコンクリートの眩しさ。藍色を背景に、散り散りに流れている青味がかった白い雲。全てが美しく、全てが愛おしい。


 良子がスーパーで品物を選んでいると、静樹が好んでいるパイナップルが、〝カットフルーツ〟と表記されたラベルを中央に貼ったプラスチックの入れ物の中に、一口大で分けられているのが視界に入った。

(買ったら、静樹は喜んでくれるかな)

 娘の頬が緩んでいる姿を思い描いて、良子はそれに手を伸ばす。気づけば、良子の持っている買い物カゴの中には〝カットフルーツ〟なるものが入っていた。


 買い物も終え、陽射しが痛い道中を歩む。平日の昼間だからかなのか、休日ならば子どもたちの声が響いている公園の前であろうと人通りは少ない。暑さのせいで蜃気楼のように不明瞭になっている世界で、蝉の声だけが現実の世界であると目を覚まさせてくれる。良子は肌に張り付く汗を拭うと、涼しい我が家に帰宅した。

 今は使わない食物は冷蔵庫の中に入れると、良子は両頬を叩いて己の士気を高めた。続いて、静穏が沁みている居間に、よし、と気合を入れる声が聞こえた。

 なんといっても今日は家庭訪問。我が家の恥部は見せてはならぬ。


 ――と、そのとき、家のチャイムが鳴った。


 思いもよらない来客に、良子は呆然と声を洩らした。

 時計を見ると、まだ家庭訪問の時間までには二時間ほどの合間がある。では、いったいだれだろう。


 ほんの少しの疑念を持ったものの、良子は誰何(すいか)することもなく「はーい」と玄関まで駆け寄り、扉を開けた。











「ただいま……」


 熱気に満ちた外から、太陽の陽射しに守られている家の中に入ると、そこはしんと静まっていた。

 わたしは首を傾げた。いつもならば母がつけているテレビの音が迎えてくれるはずだ。だというのに、テレビの音どころか母が出迎えてくれる気配すらない。

 あと少し経てば担任が来るというのに、買い物だろうか。しかし、玄関土間には、母の存在を証明するかのように母の外靴が揃えて置いてある。


「お母さん?」


 返事はない。洗濯物でも取り込んでいるのかと思ったが、足音一つ聞こえてこない。

 寝ているのかと思って、靴を脱いで中に入る。居間に入ると、母が風を押されてたなびいているカーテンに隠れて横たわっているのがわかった。


「お母さん……床で寝てると風邪ひくよ」


 母は昔から日向ぼっこをするのが好きだった。しかし、何もこんな暑い時期にやるものではないだろう。母を起こそうと近づくと、ぴちゃりと足先を何かが濡らした。水でも零れていたのかと下を確認すると、わたしの白い靴下が赤く染まっていた。


「――え」


 それは、どこかから零れてしまった赤い水溜りに浸かってしまったようだった。

 視点を上げると、投げ出された母の手が見えた。まるで人形のように血の気を失った手だった。

 心臓が早鐘を打つ音が聞こえる。いつからだろうか、呼吸が荒く、胸が痛いほど締め付けていた。

 悪戯心に満ちた母を叱ろうとカーテンに手を伸ばす。視界に映った指先は震えていた。わたしの手だった。過呼吸により体内酸素が増えたせいか、眼界が眩んでいる。頭がふらふらした。

 太陽の色をしたカーテンを握り締める。カーテン越しに、母の姿を模した影が見えた。

 勇気を掴み取るのに何分要しただろうか。もしかしたらほんの数秒だけだったかもしれない。布を掴む掌の中は熱く湿っている。わかったことは、どれだけ待っても影は動くことはなかったということだ。


 わたしは、薄暗い部屋に太陽の光を射しいれるように、窓掛けを引いた――。










 ゆぅら ゆぅら

 赤い果実が木にぶら下がっているわけでもないのに空中で揺蕩(ようとう)する。辺りは暗く、果実には釘を刺して抜いたような穴があった。とくりとくりと、その果肉は紅の水流と共に穴からこぼれだしていく。果実が微弱に鼓動する度に、穴は広がり水流はより激しく果実を濡らしていく。

 あの実はなんという名前だろう。

 じっと見ていると、それが鮮明に、それこそシワの一つ一つを捉えられるようになった。


 ──なーんだ。


 わたしはがっかりした。


 ──あれは、わたしの心臓じゃないか。

 



「──条さん、南条さん。大丈夫ですか? 私の声は聞こえていますか?」


 数回軽く肩を叩かれる。

 目をぱちくりさせて辺りを見回すと、自分がいるのが病室であることがわかった。ここは大部屋のようだ。いくつもの白いベットが己の周りに並べられている。数ある寝転がっている患者は、興味深そうにこちらを観察していた。

 肩に触れている人物を見れば、無表情にこちらを見下ろす担任の姿が視認できた。


「南条さん?」


 再度呼びかけられる。わたしはいつの間にか起き上がっていたのか、半身を起こして色のない瞳を見つめ返していた。ガラスのような黒い瞳。以前から、わたしはモルモットでも観察するようにじっと見つめてくる女教諭の目が酷く苦手だった。

 おかしいな、いつもだったら怖くて目を逸らすのに。今はなんだか頭がぼうっとしてる。


「あの、先生。なんで、先生ここにいるんですか?」


 どうせ、体の不備に耐え切れずに倒れてしまったのだろう。高等学校に上がってからはめっきり減ったものの、それでも一度もこのような事態がなかったわけではない。だが、その一度たりともわたしのいる病室に訪れなかった担任がなぜここにいるのか。

 担任は綺麗に整えられた眉を小さく上げると、隣に座っていた壮年の男性に目を向けた。わたしの主治医だった。


「先生が救急車を呼んで静樹ちゃんを連れてきてくれたんだよ。お家で倒れたの、覚えてるかな?」


 ――倒れた。

 その言葉が耳に入ると同時に、一瞬思い出しかけた過去の映像にノイズが走った。脳の隅を裁縫針が麻酔もなしに縫い付けてくるような痛みに、頭が前方へ傾く。わたしはゆったりとした動作で布団から手を出すと、額を覆うように重い頭部を支えた。

 否定のために首を振る。


「じゃあ、意識がなくなる前のこと、どこまで覚えてる? ゆっくりでいいから、少しずつ話してごらん」

「学校が終わって、少し寄り道してみたんです……。今日は体調がよかったから。家庭訪問があったけど、少しならいいかなって。本屋に寄って、それで家に帰って」


 かえって、あれ。帰って、なんだっけ。

 真っ赤な床が記憶の端を通り過ぎる。帰りに、夕日を見たんだっけ。

 大きな手が背を撫でる。気がづけば全身の毛穴という毛穴から汗が吹き出していたのか、彼が撫でるそこはべっとりとした感触がした。顔を覆い隠す手は震えていて、わたしの呼吸すらも同様のことをしている。両目はこれ以上ないくらいに開かれて、固まったように動かない。

 思い起こされる映像にあるのは倒れる母の姿。光にさらされた母の下には、赤いカーペットが敷かれていた。


「――先生」


 声は震えていなかった。それどころか今までわたしが発した言葉の中で、最もはっきりとした言葉だった。


「お母さんは、どこですか」


 主治医は答えなかった。代わりに、会話もまともにしたこともない担任が答えた。


「死にました」


 ――ああ。やっぱり。

 不思議と、心は平穏としていて涙は溢れ出すことはなかった。




 あの後、父が遅くに訪れた。

 げっそりと疲れきった様子の父は、病室に入ってから一度も口を開かずにベットに添えてある椅子に座り込んで頭を抱えていた。あまり仲睦まじい様子を見せなかった両親だったが、実のところは心の深いところで思いあっていたのかもしれない。

 わたしが膝を抱えて真正面の患者を隠しているカーテンを食い入るように見つめていると、父がようやく言葉を発した。「飯は食ったか」その声もどこか沈んで聞こえた。「そういえば食べてない」わたしは答えた。


 母の遺体は司法解剖に回された後、遺体の損傷が少なく、心臓が綺麗に抜かれていることから最近頻繁に起こっている通り魔の仕業ではないかという警察の判断に至った。父は憤慨していた。寡黙な父が泣きながらに拳を震わせて顔中に皺を作っていた。殺してやりたいと腹の底から声を出して。わたしは、ただ一言、母に会わせて欲しいと願った。しかし、室内での殺人であり、事件性があるためか、数日は葬式はおろか通夜すらできないと遺体は戻ってこなかった。

 次に母に会ったのはそれから数日経った葬式のときだった。父が見せたがらなかったのが原因なのだが、花を添える際に触れた母の体は石のように固く、事前までドライアイスで保管していたからか氷のように冷たかった。わたしは母の右耳の横に花を添えたことを、よく覚えている。

 母はその優秀さゆえか多くの人に慕われていたようだった。結婚する前までの仕事場の上司から母の学生時代の後輩らしき人までハンカチを目尻当てて泣いていた。遺影を持ったわたしに対して幾つかの慰みの言葉をかけてくれた人までいた。しかし、最後までわたしが泣くことはなかった。まるで、脆弱に鼓動する心臓につられて、わたしの人間性までもが脆く儚いものになってしまったようだった。

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