三話
未だに太陽が燦々と輝く月曜の夕方、わたしは病院の白い壁を呆っと見つめて、四本の鉄製の足に支えられた四人席の端っこに座っていた。月曜の病院は人が多く、病原菌が仄かに舞っているかのような毒気がある空気が、肺を循環している。ガヤガヤと、閑静とは程遠い老人たちが話す声が、受付の看護師の声に混じり、孤独者を浮き彫りにしていた。
横五列、縦三列に整列されている長椅子の正面にはテレビがあり、老若男女はそこに映し出されている映像を一心に見ている。今は夕方のニュースの時間のようで、画面の中の妙齢の女性が、手元の紙を時たま覗き見ながら、最近の出来事について放映していた。
『五人目の被害者が現れました。この度の被害者も心臓を抉られており──』
近頃話題の通り魔の話のようだった。市内で起こっている出来事だからか、辺りの人々のざわめきが穏やかな水面に水滴を落としたように広がった。
「おや、五人? 四人じゃなかったかい?」
「今朝、また発見されたみたいだよ。ああ、こわい。うち近所なのにねえ」
老人たちがそれらを見て怯え、若者たちは遠くの現実で起こっているものだと錯覚する。わたしもその一人だった。殺人現場を見たわけでもない。テレビの中だけの出来事ようだ。
「しかし、この犯人。隠すって事を考えないのかね」
「そういやそうだね。山に埋めたりだのしとけば、発見は遅れるだろうに。心臓取ったらあとはぽいって感じだもんね。捕まるのが怖くないんじゃない?」
「んー、そんなのどうでもいいって気がするけどな。それよりも、俺が疑問なのはなんで最初のOLだけ滅多刺しにしたのかってとこなんだよな……。あとの被害者みんな綺麗に捌いてるじゃん」
「案外、最初とそれからの事件の犯人が違かったりして」
「それも考えづらくね? OLと警官。死体が同時に二つ発見されたんだぜ? たぶんあれだろ、最初だからうっかりしちゃったんだな。ドジっこ通り魔現る」
「そのドジっこ。萌えのオーラというより血に塗れているんですがそれは……」
学校と同じ閉鎖的な空間。だが、同じ孤独でも病んでいる世界とでは、感じるそれが相違していた。強者と弱者で混沌としていた学び舎とは違い、この白い箱の中にはそれこそ弱者しかいない。
ここはわたしを俗世から守ってくれる。そんな言葉には言えようもない安らぎが、わたしの足をここへ導く。
―― どうして、どうして母さんを ――
こうして独りの空間を作っていると、過去を反芻することが多くなる。
きしりと胸が苦しくなって、わたしは抑圧してくるそれを、吐息として吐いた。
―― どうして、お前は母さんをそんなに苦しめるの ――
「……苦しめてるのは、わたしじゃなくて――」
その先の言葉は、看護師がわたしの名を呼ぶことで遮られた。吐き出されきれなかったそれは、喉元で踊っている気がした。
「――最近疲れるようなことでもあった?」
生まれてからずっと面倒を見てもらっている医者は、わたしの心臓の奥深くを覗いてきたかのような言葉を投げてきた。しかし、わたしは助けを求めるようなことはせずに首を振った。
「……いいえ、特に、いつものとおりですけど」
「またお母さんと喧嘩でもしたの? ……おや、不服そうな顔だね。そりゃちっちゃい頃から見てるんだからわかるさ」
「まるで、わたしことなら何でも知ってるみたいなこと、言うんですね」
「はは、何でもはむりかな。でも、娘みたいだとは思ってるよ」
邪な思いなど微かにもない柔らかな眼差しに、わたしの胸の靄が疼きだした。
わたしだってわかってる。先生は好い人だ。子どもの頃から見てきた。わたしはただ、もっとわたしを見てほしくて、構ってほしくて、拗ねている子どもなのだ。
わたしは震える唇で、吐露すべき言葉を紡いだ。
「……家庭訪問、母に黙ってたんです」
「いつなの?」
「……明日」
「それは……よくないね。何で黙ってたのかな?」
「……嫌、だったんです」
少しの沈黙があった。誰も言葉を発しない、機械音のみがそこにあった。
「わ、わたしは……」
焦って飛び出した言葉は続かない。
なぜ嫌だったのか、先生はそれを聞いているのだ。しかし、言わなければならない先の言葉は、わたしの口の中から出ようとしない。どくどくと血が脈動する音が、耳元で大きく鳴り響いている。飲み込んで、話した内容全てなかったことにしてしまおうかと息を吸うと、先生の大きな手がわたしの手を包んだ。
──大丈夫。穏やかで力強い声が、わたしの中に溶け込んでいく。先生はわたしを急かすようなことはせずに、ただ一言だけを与えてくれた。わたしに、時間をくれた。
飲み込もうとしたそれを吐き出して、わたしは口を再度開いた。
「言われたく、なかったんです」
「うん」
「わたしの、学校での姿を、お母さんに知られたくなかった……」
孤独に沈んでいくわたしの姿を、何も知らない担任の口から言われたくなどなかったのだ。わたしの恥を、知られたくなかったのだ。せめて、身内だけには醜いわたしの姿を見せたくない。
「静樹ちゃんは、優しい子だねえ」
「優しくないです」
「優しいよ。お母さんの迷惑になりたくなかったんでしょう?」
「違います。だって、知ってしまえば、またお母さん、謝りだす」
何度となく聞いた言葉。わたしが胸を痛めるたびに、風邪で休むたびに、母はそんな体に産んでしまってごめんなさいと謝罪を繰り返す。母から溢れだす後悔の念と劣等感の鎖が、幾重にも絡まってわたしを縛りつけるのだ。
「母にとって、わたしは失敗作なんです」
わたしは、優秀な母から間違って産まれてしまった欠陥品に違いなかった。
母から漏れる謝罪の言葉は、決して贖罪のためのものではない。母はわたしという人間を否定しているのだ。己がこのような不出来なものを作るはずがないと、爪を噛んでいるのだ。
わたしは生まれながらに否定されて生きてきた人間だ。唯一、誰かがわたしを肯定してくれればそれでいい。たった一人だけがわたしを知ってくれればそれでいい。なのに――。
「母は、母が――わたしを認めてくれるはずの唯一のあの人が、わたしを肯定してくれない。そんなわたしに、生きている意味などあるのでしょうか。先生、わたしは……」
「意味がない、価値がない人なんていないよ。だって、僕は君が死んでしまったらとても悲しい。それは、僕にとって君はとても価値があるということなんだ。君のお母さんだってそう思ってるはずだよ」
「うそだ」
「嘘じゃない。だって、君のお母さんはいつだって君の心配ばかりじゃないか。君を真に認めてあげられるのはお母さんだけだけど、お母さんをわかってあげられるのも、静樹ちゃんだけなんだよ?」
「……」
「お母さんはね、きっと周りが見えないだけなんだ。自分のことで精一杯でね。だから、静樹ちゃん、君から歩み寄ってみたらどうかな」
「歩み、寄る」
「うん。ほんのちょっとだけでもいいから、頑張ってごらん」
ありがとうございましたと言葉を残して、わたしは診察室から退出した。
―― どうにもできなかったら、また頼ってきてもいい。僕はいつだって、君の味方だから ――
帰りに。
帰りに、ケーキ屋さんに寄ろう。お母さんの好きなチーズケーキを買おう。
訪れたときは弱弱しかった足取りは、どこか力強いものになっていた。
◇
カンカンカン。錆びれた鉄骨で作られた階段が小気味よい音を立てて、私の帰りを歓迎する。剥がれかけた瘡蓋だらけの手摺を垂直に曲がった先にある通路の一部屋の鍵穴に、ガチャリと、容易く贋物を作れそうなカギを差し込んで回した。
ド、ド、ド、ド。昼間の蝉に負けないぐらいの大きな鼓動の塊が、私を温かく迎えてくれる。
おかえり。おかえり。おかえりなさい。
私は美しい旋律に対して微笑を浮かべた。
「ただいま」
靴を脱ぎ、奥にある襖に閉じられた部屋を開けると冷房による冷気が私の体を撫でた。ゴー、ゴー。エアコンが運転している音が部屋を巡回する。早速、今日新たに救助してきた仲間を棚に並べておいた。
大きなもので五つめ。小さなものは二十に至っている。己を脈打つ力は、個々によって様々だ。宝石よりも艶やかなその姿に、私はさらに笑みを深くした。
それらは腐らない。また動くことを止めない。私が手ずから取り出したそれは、一般のものと違い稼動を停止することはなかった。冷気に満ちた部屋に閉じ込めるのは、彼らに熱された空気で苦しんでほしくないがためだ。
畳の上に座り込み、鞄を漁り、明日の予定を確かめる。社会に溶け込むための作業だ。彼らを助けるためにも、私はこの行為を止めてはならない。
するり――と、鞄の中から荷物を取り出していると、一枚の白い紙が流れ落ちた。
〝家庭訪問予定表〟と題されたそれは、一部の訳ありの生徒だけが関係するものである。そういえば明日から始まるのだったか。いけない、すっかり忘れていた。日時によって生徒の名前が分けられている表を目で追うと、初日の生徒が一人、それも遅くに始まることに気がついた。南条静樹。確か、体が弱い生徒だったはずだ。
ふむ。私は少し考える。最近は辺りも警戒して、通りを歩く人が減ったのだ。そろそろ室内に隠れている同士にも手を伸ばしてみようか。
夏ホラー投稿期間中に終わらないこと決定。次回が中間地点のようなものなので、多分二万いきます。




