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揺れる鼓動  作者: 秋花
2/8

二話

 ピー、と定年間近の体育教師が笛を鳴らして、模擬試合の開始を宣した。

 途端に跳ねる二人の少女。二本の手が、頭上に飛んだバスケットボールを求めて伸び上がる。頭頂部で焦げ茶色の髪を一つに纏めている少女が、先にボールを仲間のもとへと叩き落した。十人ものの少女たちが、指定されたフィールドを駆けていく。


 わたしは、少女たちが活発に体を動かしている様子を、体育館のステージの端から見つめていた。背を丸め、足を折り、自分を抱きしめるように畳んでいる両足に腕を回している。こうでもしなければ、地上のあまりの広大さに、酸素を失った魚のように喘いでしまいそうだからだ。世界は、小さなわたしには広過ぎる。


 ドンドン、太鼓の音に似た振動が体育館に響く。夏の気の滅入るような熱気が、手足に纏って、生徒たちを堕落させる。その暑さを振り切って走っている少女たちの頬から、汗が垂れ落ちた。もし、あんなふうにわたしが動いたらどうなるだろう。


 自嘲の笑みが思わず浮かんだ。無駄な想像だ。ありえない空想だ。ない未来を思ってもなにも得られない。――いや、得られるには得られるだろう。だが、それはわたしが生存し続けるのを妨げる敵である。

 もちろん、羨ましいと思う。同時に、憎たらしいとも思う。わたしには決してできないことを、彼女たちは平然とやってのけるから。

 まるで、スクリーンで彼女たちの世界を見ているようだ。わたしが観客で、彼女たちが物語の主役。わたしには決して入ることのできない、虚妄に彩られた画面の向こう側には、届かない光が満ちている。

 ──ああ。

 いっそのこと、このまま溺れ死ねたらいいのに。


「──ねえ、今日どっか寄ってかない?」


 足下で、そんな気安い声が聞こえた。どうやら、ステージの縁のすぐそばで、待機中のメンバーが話し込んでいるらしい。少年少女が発する体温が体育館に篭っているせいか、呼吸が苦しくなった。


「えー、先生すぐ帰れって言ってたじゃん。不審者が出るとかって」

「そうそう、その話、回覧板で見たよ。犬とか猫が殺されてるんだって。ペットを飼っている方は、個人で対策を立てて気を付けてくださいって書いてあった」

「あ、そっか。ここらへんだっけ家」

「うん。でさ、近所のおばさんから聞いたんだけど、なんでも心臓だけくりぬかれてるらしいよ」

「なんで心臓? 食べるの? または生け贄とかそういう?」

「うっわグロ……!」

「でも、それの被害にあってるのって犬とか猫じゃん。大丈夫だって! あそぼーよー」

「やだよ。うっかり見かけちゃったらどうすんのさ。あたし、まだ死にたくない」


 胸を抑えて、呼吸を整え、苦しみを和らげる。脆弱な心臓は、ゆっくりと、ゆったりと、動いてる。大丈夫だ、わたしは、まだ息ができる。昔から夏は苦手だ。胸の痛みがいつにも増して迫ってくる。

 ――本当、嫌になる。

 時々思うのだ。こんなにも弱いわたしは本当に人間なのかと。だって、彼らとわたしとではあまりに違い過ぎるじゃないか。


 気づけば、少女たちはとっくの昔に話題を取り替えたのか、試合中の女生徒たちの姿に注目していた。一人の少女が、シュート目前で二人の人間の壁と相対している。キュッキュッ、運動靴がゴムを摩擦する。床を鳴らして、少女が背後にいた仲間にボールをパスした。


 ――いたい。


 大きく息を吸って、吐いて、それでも胸にこびりついた泥は拭えない。


 応援の声を背に、ボールを受け取った少女がゴールに向かってシュートを放った。待機している黒髪の少女が、ストップウォッチを片手に五、四、三、と数を減らして残り時間を伝えている。入れ、誰かの声が聞こえた。

 ボールがボードにぶつかり、パサリと音を立ててネットを潜った後、それは地面に落ちる。最後に、バスケットボールが終わりを告げるように床を叩いた。それに引かれるように、ゼロと少女が口にした瞬間、教師が試合の終了を笛の音を以って伝えた。

 画面の中で、少女たちが手を叩き合う。その顔に浮かんでいるのは喜びであり、心嬉しい感情で溢れている。対してわたしは暗い部屋、じっと彼女たちを見つめている。孤独に苛まれようとも、わたしは一人座って、直接触れることの出来ない照明(ゆうじょう)浴びている(のぞいている)


 なんて――遠い。こんなにも近いのに、こんなにも鮮やかに見えるのに、彼らのいる場所は、遥か遠くにある。


 逃げよう。次の笛がなった後、保健室へ行こう。

 痛む心臓を労わるように、胸を覆う服を掴むと、わたしはそう心に決めた。





 ◇



 くぅん。

 抱えている犬が、寂しそうに鳴き声をあげた。閉じた暗闇の奥で、その音はなによりも澄んで聞こえる。私は犬に良く聞こえるように、口に指を当ててしーと静かにするように訴えた。

 大丈夫、なにも怖くない。私は君を救い出そうとしているだけだ。


 犬は口を縛り付けている紐を懸命に振り取ろうとするが、首を大きく振るばかりでそれは叶わない。

 川辺に添えてある大きな石の上に、犬を押し付ける。鶏を解体するのと同じように、黒い毛皮に覆われた首の付け根を強く持つと、私は持ってきた包丁を耳の真下にある首の頚動脈に叩き付けた。まな板代わりの石一面に、勢いよく夜の闇が溶けこんだ黒い花が散った。顔全体に飛び散ったそれは、顎を伝って石の上で跳ねた。

 ぴくぴくと手足を震えさせている獣であったが、数分もすればその動きは止まった。こうしてしまえば、あとは手馴れたものである。私は目当てのものを取ろうと、皮一枚から筋繊維一本まで気にかけて、丁寧に解体していった。


 ある程度まで開き終えると、私は肉の中に手首まで埋めて、鼓動を続ける小さなそれを掴み取る。それは、いつにもまして強く鼓動していた。ぷち、ぷちりとこれまた包丁で、心臓を血管から解放してあげる。取り出したそれを、持参してきた袋の中に隠してしまえば、もう事は済んだようなものだ。


 ――だが、人間社会ではそうはいかない。非常に面倒なのだが、宝石を失った肉の塊を見せ付けるように放置すると、彼らは動物虐待だの、外道だの、残虐だのと騒ぎ出すのだ。こんなにたくさんいるんだから、その中の一割にも満たない肉が動かなくなろうが構わないだろうに。

 私は煩わしいと思いながら、温くなった肉を、数分歩いた先にある腰まで伸びた野草の群生地に放り投げた。草の海に飛び込んだ拍子に、黒い飛沫がそこから一斉に噴き出した。ぶーんぶーん。羽音が耳に木霊する。川に戻って、錆びたにおいを水に流した。


 穏やかな水流の囀りに混じって、女の高い悲鳴が聞こえた。

 大変だ。私はすぐさま立ち上がって走り出した。うっかり水に浸ってしまった靴が、内臓をかき混ぜたような音を弾いていた。


 私が目指した先にあったものは、鬱蒼とした林の中であった。

 荒れる呼吸を整えて、昼間は眩しい若草色を魅せている草木を踏み荒らしていく。同様に、昼間は音を支配しているセミたちは、ひっそりと木に寄り添ってその身を休めていた。

 どこにいるのだろう。早く見つけなければ……。

 焦燥に胸が張り裂けそうだった。


 ――はて、ふと思った。私はいったい何を探しているのだろう。探して、どうしようというのだろう。


 助けるに決まっている。私の中の良心が、勇敢な言葉で叫んだ。

 助ける? それは女性を? ――いいや違う。そんなモノはどうだっていい。私は、私の仲間を助けたいのだ。友を助けたいのだ。

 それでいいのか。私の社会(りょうしん)が再度問い詰めてくる。


 ぐに、と肉の感触が足裏に纏った。

 足をどけると、そこには人形のように脱力しきっている女が、仰向けに倒れていた。見たところ、まだ若いだろうに、四肢の一部が老人の腰のように折れ曲がっている。逃げる最中に脱げたのか、女のあるはずの履物が片方だけ失われていた。

 また、胸元は入念に狙われたのか、無数の刺し傷が見てとれた。この世の憎しみが、全てそこにぶつけられたかのような悪意が、衣服に赤い染みを作っている。


「なんて――ひどい」


 己でも驚くほどに、悲痛な声が漏れた。

 土の上に膝を下ろし、女の穴だらけの胸を腕力だけで開いていく。そこに、綺麗に開く技術は必要ない。引きちぎった肉片をそこらに投げ捨てる。壊れきってしまった宝石を引き上げると、無残な姿で鼓動を終えてしまった心臓が、手のひらに横たわっていた。

 初めて触れる今までで最も大きなそれ。私は嗚咽を宙に飛散させながら、失われてしまった仲間を包んだ拳を、額に押し付けた。


 到底、生きているものができる行いだとは思えなかった。

 こんなに美しく命を魅せてくれるものを、いとも容易く無残に散らしてしまう人間の醜さを、私は呪った。神がいるというのならば、どうしてこんなにも下劣で醜悪でおぞましく、理解できない生き物の体の中に眩い宝石を閉じ込めてしまったのか。何かの間違いだとしか思えなかった。


 私は冷たくなってしまった赤い果実に噛み付いた。がつがつと、もぐもぐと。中に残っていた赤い血潮を啜る。噎せ返るような血のにおいが口の中に充満して、まるでそのヒトが鼓動しているかのように、胃の中でそれが大きく揺れ動いた。

 己の体に潜んでいる人間の穢い部分をかき消してくれるのを強く望んで、私は貪欲に、赤子のように泣きながら、それを食らった。可哀そうに、可哀そうに。もっと早く私が救えたら、きっとこんなことにはならなかったろうに。


 ――ごくん。最後の肉片の飲み込んで、私は決意した。


 細く、黄色い光の筋が闇の中をさっと走ったのが見えた。少しの間、その光は赤い斑点が目立つ木々を行ったり来たりしていると、私の背に照準が向けられたのに気づいた。

 振り向くと、暗闇に沈むような青い制服を着た年配の男が、懐中電灯をこちらに向けているのがわかった。咄嗟に口元を拭う。どうやら、女の死体は警官からは死角になっていて見えないようであった。


「――ちょっとお、そこの人なにやってるのー」


 のんびりとした口調が、木々を揺らして迫ってきていた。

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