一話
その行いに理由があったわけではなかった。
一定の音を奏でる宝石が、両手の中で脈動している。とくとくとく、短絡的な演奏であるが、それはまぎれもなくたった一つの魅了の音だった。
髪が染められるのも厭わずに、赤く濡れた楽器を耳に接触させると、どくどくとこちらの皮膚を振動させて、それは活きていると伝えてきた。温かくも豊潤な果実の香りを匂わせたそれは、かぶりつけば中身にたっぷりつまっているであろう果汁を口いっぱいに満たしてくれるだろう。
ほう、と湿った息を吐く。その吐息は恍惚に蕩けていた。
青い雑草を踏みつけている足の近くには、ぴくりぴくりと小刻みに跳ねる子犬がいた。乾いた地面を思わせる子犬の毛皮は、赤く湿っている。黒く凝固するのも、そう遠くないに違いないと思った。
白目を開けた獣の胸元は、元より何もなかったかのような空洞があった。寒そうだとは思うが、子犬を動かすためのモーターは、わたしの手の内にあるのだ。可哀そうだが、もうこの子犬が温まることはない。
事の予兆があったか、と問われれば、それは私が生まれた瞬間からあった。
別段、残酷なことがしたかったわけではないのだ。
その子犬と私は、所謂ペットと飼い主という立場を基に立っていた。一般的価値観に則って言えば、よい関係を作れたのではないかと自分でも思う。私にとって世間に溶け込んで生きるのは非常に恐れ多いことで、人様の影に潜るように暮らしていかねば、このような汚泥に塗れた場所で息をすることすらできない。
その点、獣は楽だった。私が〝呼吸〟をする邪魔をしなかったからだ。
朝に餌をやり、散歩を行い、汚れた体を温水で洗い流してやる。時にはじゃれあい、親睦を深めていたりもした。ほら、そこいらでよく見られるような温かな光景だろう?
だがある日、子犬に餌をやっていた日のことだ。私は何てことのない動作で子犬に手を伸ばし、首根っこを掴んで塀の角を用い、子犬の腹の肉を抉り取った。
もちろん、驚いた。私は何をしているのかと思ったよ。だが、その行為を続ける理由もなかったが、止める理由もなかったのだ。
私は子犬から非難の声を聞きながらも、何度も何度も子犬の傷を広げた。何かに押されているかのように、赤い吐瀉物をぶちまけたような塀の角に向かって、幾度となく腕を振り続けた。
──己の衝動に動く初々しい姿は、今思い出しても恥ずかしくてしょうがない。もう少し力加減を覚えていれば、お前も傷つくことはなかったろうに。
少し経つと、愛犬を塀にぶつけるという無為な行動をしていた私の動きは、ようやく止まった。子犬の中身を潤していた血が、代わりに私の手の皮膚を潤している。冷たくなるはずの子犬の体の奥で、動いている何かが見えた。
私は、腹という袋から零れている腸を掻き分けて、今度は丁寧に、それを探り当てる。でこぼこと柔らかく入り組んだ腸を、撫でるように進みながら指を伸ばすと、そこには孤独に己を叩き続けているお前がいた。
私は、お前を縛り付けている血管をぶちぶちと千切りながら、袋の中から出した。手のひらにすっぽり収まるほどの赤い果実。親元から離れたというのに、小さく鼓動し続けるそれは、私を魅了するに十分だった。
アア、と今にも泣きそうな声が、自分の喉から生まれでた。
きっと、それは産声だったのだ。私という泥沼に浸かっていた赤ん坊が、ようやく子宮から這い出ることが許された瞬間であったのだ。
視界が揺れた。涙腺が緩み、視界を涙が歪ませている。そこにあるのは悦びだ、同時に、へその緒を切り離し、初めて外気の空気を取り入れることへの戸惑いだ。
――生きてる。
私は生命の塊に口づけた。生まれて初めて与えた愛情は、鉄の味がした。
どくん。どくん。
とくん。とくん。
子犬のものであった心臓を胸の上に添えると、二つの振動が互いを揺らすように鼓動した音が聞こえた。
◇
わたしは死にながら生きているようなものだった。
わたしの胸腔内で微弱に脈打つ心臓は、わたしが幾たびか腕を上下に振るい、足で地面を蹴ればすぐさま悲鳴を挙げる。決して無理をしてはいけないと、主治医は言っていた。生まれた頃から弱者として選抜されてしまったわたしが、どうすれば無理をすることを覚えられるというのか。
──医者は残酷だ。だって、彼らは強者と弱者にある溝を思い出させる。わたしがどうしようもない弱者であることを、露呈する強者なのだ。
とん、と鞄が中身の頼りなさを教えてくれる音で、机を叩いた。辺りが強者でひしめき、騒音を作り出している教室で、わたしは静かに椅子を引いて座った。
――ねーねー昨日のテレビ――それでさ、兄ちゃんが――ここのとこの問題がわからなくて――きゃははは!――ちゃん髪切った?――ねむいー――で――あ――、――――――――。
雑音の渦がそこらでわたしを取り囲む。押しつぶそうと圧迫してくる。わたしは息を軽く吐くように嘆息すると、鞄の中から小冊子を取り出して、ぱらぱらとページを捲った。
本はいい。わたしを違う世界へ連れて行ってくれる。こちらの世界は、弱いわたしには少し強過ぎて、息をするのも一苦労だ。
わたしは幼い頃から、集団の中にいるのが苦手だった。彼らの歩くスピード、喋る量、なんてことのない一言ですら笑いを巻き起こせるエネルギー。どうして彼らはそんな風に動けるのだろう。どうして苦しくないのだろう。不思議でたまらなかった。
簡単に言うと、どんどん先に進む彼らの足に、わたしは追いつけることができなかったのだ。
以前はまだ追いつこうと努力をしていた気がする。だが、所詮は最初から違うもの。歳をとるにつれ、走っているのも馬鹿らしくなったわたしは、彼らの中に入ることを諦めた。
学校独特の鐘の音が鳴った。
煩かった生徒たちが一斉に席戻りだす姿は、巣に餌を運ぶ順従な蟻の様子を思い起こさせた。さすれば、教卓の前に立っているわたしのクラスの担任は、蟻の女王といったところだろう。ちょうど性別も雌であることだし、我ながら良い比喩のように思う。
「――市にお住まいの方はご存じかもしれませんが、近ごろ当校を含めた地域で不審者が現れています。犯人は依然として捕まっておりません。よって、今日は部活を休止とし、生徒は残らず早めに帰るように。帰りの際の注意として――」
べらべらと教師が、本日の小奇麗な強弁を話し終え、座っていた生徒たちは一時間目の準備をし始める。視界に見えるのは青い巾着袋だ。
体育か、また退屈な時間が始まるのかと、わたしはキリキリと痛む腹部を擦った。