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「……だから、俺の名前はユウトだって言ってるのに」
「別にいいじゃないですか」
うなだれる俺に、アリーテはあっけんからんとした調子で言った。
「ほら、ユウトよりはユートの方がこの世界に合った名前ですし」
「それでも、俺の本名はユウトなんだよ」
「けど、私にもニックネームつけたじゃないですか」
「う、そりゃそうだけどさ」
少し痛い所を突かれ、俺は言葉尻を濁らせる。一方、彼女はいつものように邪気のない笑顔を浮かべピョンと立ち上がり、向かいのベッドの端に腰掛けている俺の隣に座ると、
「まあまあ、新しい人生のスタートなわけですし。心機一転って事で」
明るい口調と共に、背中をポンポンと叩いてくる。だが、彼女の全く他意がないであろう一言が、俺の心を鋭く抉った。
――新しい人生のスタート。
そう、藍原ユウトはもう死んでしまった。今まで築き上げてきた、与えられてきた全てはもう失われているのだ。帰る事の出来る場所も、頼る事の出来る家族も、名前によって得られる最低限の保証も、この世界にはもはや存在していない。
急に、変なイメージが脳裏をよぎった。前も後ろも分からない、真っ黒な空間に佇んでいる、俺独りの姿。
「ど、どうしたんですかっ?」
「え?」
慌てた声に顔を向けると、そこには心配そうに表情を曇らせているアリーテの姿があった。俺と目が合うと、彼女は躊躇いがちに、
「今、すっごく悲しそうな目をしてたので、なんか私、悪い事を言っちゃったのかなって」
「……いや、アリーテのせいじゃない」
俺はなるべく自然にと努力しつつ、笑顔を取り繕った。正直な気持ち、彼女の言葉が引き金になったのは紛れもない事実だ。けれど、だからといって自分の抱いているやり場のない気持ちを彼女にぶつけるのは、それもどこか良くない事のように感じられたのだ。大体、俺だってアリテシカに呼びやすいからという理由で愛称をつけたのだし。
「少し、変な事を思い出しただけだからさ。気にしないでくれ」
「……そうですか」
アリーテは未だ納得していない様子だった。恐らく、俺の強がりを何となく察しているのだろう。けれど、彼女はすぐにいつもの眩しい笑顔を浮かべ、自身の胸をポンポンと叩きながら得意げに口を開く。
「まあ、これから幾多の試練が待ち受けているかもしれませんけど、この『聖なる光を身に纏う美少女天使アリテシカ』がくっついている限りは心配御無用ですからっ」
「何だか、凄く不安だな」
「えーっ、どうしてですかっ」
苦笑を洩らした俺に対し、アリーテは唇を尖らせて抗議を口にする。その時だ。ノックの音がしたかと思うと、
「失礼しますね」
部屋のドアが開き、リーネが室内に入ってきた。彼女の手に乗ったお盆の上には、湯気の立っている数々の料理が並べられている。
「食事をお持ちしました」
「あ、どうも」
スタイル抜群の美女に極上の笑顔を向けられ、照れくささを覚えつつも小さく頭を下げる。その時になってようやく、自分が空腹感を抱いている事に気がついた。そういえば、この世界に来てからまだ何も口にしていない。異世界の食べ物に関して若干の不安を覚えたものの、机の上に置かれた料理は、どれもこれも美味しそうに見えた。パンやステーキなど、元いた世界でも馴染み深い食べ物も散見される。どうやら世界を越えても、食というのは案外似通っているものらしい。
「勇者様、お名前は何と仰られるのですか?」
お盆を胸の前で畳んだリーネが、聞き惚れてしまうような美しい声色で訊ねてきた。心臓が高鳴るのを感じつつも、俺は平然とした調子を装って答える。
「あ、えっと……ユートといいます」
『ユウト』とどちらを口にするか迷ったが、考えた末にこちらを選ぶ事にした。アリーテの言った通り、新しい人生のスタートを迎えるにおいて、心機一転する事にしたのだ。
「ユート様、ですか」
俺の新しい名前を独り言のように呟いた後、リーネは再びニッコリと笑って、
「素敵なお名前ですね」
「あ、あの。敬語呼びなんていいですよ。お……自分の方が年下ですし」
ふと、横から視線を感じてチラリと横見する。アリーテがまるで『甘酸っぱい青春ですねっ』とでも言いたげなニタニタ笑みを浮かべて俺を眺めていた。ああ、そうだよ。甘酸っぱい青春だよ。悪いか。
「あら……それじゃあ、お言葉に甘えて」
と、リーネはあっさり気軽な口調で話し出した。
「ユートさんは幾つなの?」
「十六です」
「まあ」
彼女はお盆から離した左手を口元にやり、
「まだ、随分とお若いのね」
「いえ、そんな」
「十六で勇者として各地を回ってるんでしょう? とても凄い事よ」
「ありがとうございます」
甘い口調で褒められ、俺の心はまるで天に昇らんばかりだった。隣からの視線すら、もう気にならないくらいだ。
「あのリーネさんは、年幾つなんですか?」
俺の質問を受け、彼女の瞳がいたずらっぽく笑ったような気がした。
「あら、どうして?」
「いえ、その、何となく」
思わずとろけてしまうような声で、問いを返される。俺がしどろもどろになりながらも返答すると、
「あのね、ユート君」
リーネは小さく屈み、俺に身を乗り出しきた。お盆や服の上からでも分かる豊かな胸が、その動作のおかげでいっそう強調されていく。更に、甘美な温かい吐息が、ふう、と俺の耳元に吹きかけられた。瞬間、頭に血が上っていき、俺は強烈な混乱状態に陥る。そして、
「女性に年を訊ねるのは、失礼な事なのよ。ウフフ」
と艶のある声で囁いた後、彼女は身を引いた。
「それじゃあ、失礼致しますね。何かあったら、お呼びになって下さい」
最初に会った時と同じ清らかな口調で告げた後、リーネは部屋を出ていったのだった。