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空洞に空いた別の穴から外に出て後、ドーネルが何やらぶつくさと唱えると、ぼうっと火の玉が宙に浮いて周囲を照らす。眼前に広がる光景を目にして、俺は自然と感嘆の息をついていた。
「うわあ……」
薄暗い夜の中でも分かるくらい、そこは美しい世界だった。様々な果実を身につけた。色とりどりの木々が立ち並ぶ中、可愛らしい栗鼠などの小動物が元気にはしゃぎ回り、美しき羽の小鳥達は木の枝でぐっすりと安眠している。獰猛な魔物の姿も全く見受けられず、生き物達は皆、外敵の脅威を感じる事もなく、穏やかに過ごしている。
まるで楽園のようだと、俺は感じた。その旨を伝えると、老人は満足げに笑って、
「この地はお主の感じた結界によって守られているからの。ここに住む生き物達にとってはそうかもしれんのう。ただ」
と、彼は急に険しい顔つきになり、真剣な口調で言った。
「そのために、儂はこの場所から離れられないのじゃよ」
「……どういう事ですか?」
「それはな」
ドーネルの説明によると、この地に住む生き物達を脅威から護る結界は、彼自身が遠ざかれば遠ざかるほどその力が弱まってしまうらしい。その強度を維持出来るギリギリのラインがネメラ山までで、シュバトゥルスの拠点まで赴けば、その留守中に相手の方が強力な魔物をけしかけ、この聖域を破壊しつくそうとする事にもなりかねないのだという。
「それで、俺達に奴を退治させようとしていたんですか……」
「うむ。済まないが、そういう事なのじゃ」
彼は申し訳なさそうな面持ちで真っ白の顎髭に手を当てながら、
「シュバトゥルスはきっと、儂の張っている結界に興味を持っている筈じゃ。そして奴が目をつけている以上、儂はどうしても、ここを離れるわけにはいかん。だから、お主達にどうしても、あの悪党を退治してほしいのだ」
そして、あやつの事も。呟くように言った後、ドーネルはその翡翠色の眼差しを細めて大自然をじっと見つめる。
「メファヴェルリーアさんの事ですね」
老人は小さく頷いて、
「まだ若いお主に無理難題を押しつけておるのは分かっておる。だが、出来るならあやつを説得してほしいのじゃ。この地に入り込めるという事は、あやつもまだ、そこまで邪悪な意志を抱いてはおらんのじゃから」
その言葉に、俺はハッと気づかされる。老魔術師の説明によれば、この聖域には結界が張られていて、悪しき心を持つ者は入れない筈だ。それなのに彼女は平然として俺の前に姿を現した。その事実が告げるは、ただ一つ。彼女は根っからの悪人ではない、という事だ。
「……頼めるかの?」
「……はい」
彼の問いに、俺はゆっくりと頷いた。
精霊との邂逅を果たした翌日。出発の準備を済ませた俺達は屋敷の前まで見送りに出てきたドーネルと対面していた。ささやかな会話を済ませた後、彼は俺の手に小さな小瓶を渡してきた。その中を覗くと、何やら黄緑色に光る液体が視界に入る。
「これ、何ですか?」
「ヒュドリアスという希少な生物の角を細かく砕いて、特殊な液に混ぜた薬だ」
老人の話すところによると、この薬品を一気に飲めば、忽ち能力が強化されるのだという。頭の回転も早くなり、反応速度も増し、身体も強靱になるそうだ。ただし時間が経てば、その効力は薄れていき、やがては消えてしまうのだという。
「シュバトゥルスとの決戦で役立つ筈じゃ。持っていきなさい。ここぞという時に使うんじゃぞ」
「ドーネルさん……ありがとうございます」
「礼は言らんよ。儂に出来る事は、このくらいしか無いからのう」
老人は小さな背を丸め、嘆息の息を吐いた。
「そんなに心配なさらないで大丈夫ですよっ」
隣のアリーテが自身の胸をドンと強く叩いて、元気よく言った。
「私達にかかれば、あんな澄まし顔のカッコ付け男はちょちょいのちょいです!」
「……お前、何でそんなに自信満々なんだ?」
俺が呆れながら言うと、彼女はフフンとふんぞり返って、
「決まってるじゃないですか。この世に悪の繁栄が長続きした試しはないからですよっ」
「何でそんなややこしく言うんだ。普通に『悪の栄えた試しはない』で良いだろ」
「それだと少し語弊があります」
という事は、どうやら短期間なら悪でも栄える事は今まであったらしい。
――じゃあ、駄目かもしれないって事じゃねえか!
「まあ、気持ちだけでも上向きにしておいた方が良いのかもしれないな」
白銀の鎧を身に纏う騎士が、やけに真剣な表情で口を開いた。
「セイーヌさんまで……」
「でないと、心が折れてしまうかもしれない」
「うっ、なるほど」
どうやら、彼女の方はどこかの楽天家と違って、自分達と相手との戦力差を理解しているらしい。
そして、その楽天家は意気揚々と両手を上げて、
「何にせよ、善は急げです。早速、出発しましょう!」
と、声高らかに告げる。俺は最後に、命の恩人へ深く頭を下げた。
「ドーネルさん、今まで色々とありがとうございました」
「うむ……お主達、頼んだぞ。この大陸の未来を」
「はい!」
こうして、俺達は敵の本拠地へと向け、再び旅を始めたのだった。




