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「ん……」
気がつくと、俺の身体は五感を取り戻していた。夢見心地が覚めぬ頭を右手で支えつつ、俺は頭上に目線をやる。だいぶ時間が過ぎてしまったのか、空はすっかり暗くなっていて、月も天高くから地上を照らしていた。だが、朝食から何も口にしていない筈なのに、不思議と空腹は感じない。あの世界での出来事から、まるで数十分くらいしか経っていないような錯覚すらある。
――だけど、あれは絶対に現実だった。
根拠のない確信を抱きつつ、俺はふと目の前に視線をやる。
そして、忽ち驚愕し、声にならない叫びを上げた。
「……ッ!」
俺が腰を下ろしている岩壁の対角線上に、同じく背中を預け佇む者がいた。尤も、俺の方は座っているが、向こうは立ってこちらを見下ろしている。ドーネルではない事は明白だった。何しろ、体型も服装も全く違うし、相手の背中には漆黒の羽まで生えている。人間ですら、ないだろう。そして、その曲線美が際だつ女性的なシルエット。そんな容姿を持った者を、俺は一名しか知らない。
やがて、俺が目を覚ました事に気がついただろう彼女は、うんざりしたような声色で言った。
「随分と長い昼寝だったわね。いつ起きるか、こっちも待つのにいい加減飽き飽きしてきたところだったわよ」
「……メファヴェルリーア、さん」
相対している悪魔の名を呟きながら、俺は立ち上がる。腰に差してある剣の柄に手をかけ、不穏な状況に陥った時は即座に抜けるように身構えた。すると、彼女は肩を竦めて、
「別に警戒しなくていいわよ」
と、突っ慳貪な口調で耳を疑ってしまうような事を告げる。俺は気を緩める事なく訊ねた。
「何故、ですか」
「今日は忠告しにきただけだから」
「忠告?」
「そうよ」
メファヴェルリーアは顔を強ばらせて、
「シュバトゥルス様の力は、貴方達が思っているよりずっと強大なの。計画を邪魔したら、勿論タダじゃ済まないわ。下手すると命を落としかねないのは、貴方も身に染みているでしょ?」
「それは……」
ネメラ山での邂逅で目の当たりにした、洞窟を崩壊させるほどの魔法を思いだし、俺は口を濁した。
「この前の一件だって、私が庇っていなかったら、貴方達全員とっくに死んでるのよ」
「……ちょっと待って下さい」
聞き逃せない言葉を耳にし、俺は自然と声を張り上げていた。
「『私が庇った』って、どういう事ですか?」
すると、彼女は眉をひそめて、
「……もしかして、気づいていなかったわけ?」
と、逆に訊ね返してくる。
「気づくって、何に……あ」
と、俺はある光景を思い出した。崩壊した天井が俺に降りかからんとした、まさにその時。意識を失う直前に垣間見た紫色の輝きを。
「まさか、あの光って」
「そうよ」
俺が呆然と呟くと、メファヴェルリーアはぶっきらぼうに言う。
「落下物がぶつかる直前、私が闇の力で貴方達を守ってあげたわけ」
「でも、どうして……」
俺は問いかけずにはいられなかった。
「あの時に俺達を助けて、それで今も、わざわざ忠告をしにきて……どうしてなんですか?」
彼女にとって、俺達は敵の筈。何度も説得したお陰で改心したようにも思えない。さっぱり、彼女のとった行動の理由が分からなかった。彼女は鼻をフンと鳴らして、素っ気なく答える。
「二回、命を救われたから。そのお返しをしただけよ」
「二回?」
「宿であの生意気な天使の小娘に殺されかけた時と、洞窟で私が口を割らなかった時」
とにかく、と彼女は真剣な眼差しで俺を見つめた。
「ただし、もう次は無いわよ。次に貴方達が私の前に現れたら、今度は容赦しないから」
「久しぶりじゃな、メファヴェルリーア」
ふいに声がして、俺はギョッとして振り向いた。いつの間にか、老魔術師が大杖をつき、この場所に来ていたのだ。
「ドーネルさん、久しぶりって……?」
困惑しつつも、俺は横目で悪魔を見やる。彼女は血のように紅い瞳を大きく見開いて、目の前の老人を凝視していた。だが、最初こそ動揺している様子だったものの、すぐに険悪な顔つきとなって、
「そっちの顔なんて、二度と見たくないと思ってたわよ」
と、俺に接する以上に刺々しい声色で言う。その口振りに紛れもない負の感情が現れていたので、俺はまたもや驚かされる。一方、ドーネルは平然とした、しかしどこか悲しそうな表情で、彼女を見つめ返していた。そして彼は、ゆっくりと口を開く。
「お主にはずっと、申し訳ないと思っておった。どうか、謝らせ」
「うるさい! 言い訳なんて聞きたくないわよ!」
彼女は激高し、老人の言葉を遮る。どうやら、過去に両者の間で何かがあった事は間違いないらしい。だが、確執の理由を知らない俺は、目の前の状況を黙って見ているだけしか出来なかった。
「貴方を信じたせいで……」
荒々しく息を吐きながら、彼女は俯いて独り言のように呟いた後、急に顔を上げ、
「私は貴方を、絶対に許さない!」
と、吐き捨てるような口調で叫んだ。途端、彼女の体は目映い光に包まれていく。
そして、次の瞬間。彼女の姿はこの場所から完全に消え去っていた。




