15
――気がかりな、奴?
聞き捨てならない発言を耳にし、俺は目の前の老魔術師に詳しい話を聞こうとしたのだが、
「さて、ずっと話ばかりで疲れたろう。今日はゆっくり体を休めなさい」
四人分の食器を抱え、ドーネルは足早に部屋を去っていってしまったのだった。その後も何度か話す機会はあったものの、俺は結局その事について彼に訊ねられずじまいだった。
そして深夜。俺は与えられた部屋に敷かれた布団に仰向けに寝て、木製の天井をぼんやりと見つめていた。ドーネルから聞かされた事実が頭を駆け巡っていたために眠れなかったのだ。室内は暗く、閉じた障子の向こう側から微かな月の光が差し込んでくるのが唯一の明かりとなっている。庭からは虫達の風情ある合唱が聞こえてくるが、俺の心を和ますにはあまりに力不足だった。
――大陸を滅ぼせるほどの力、か。
流石に、分が悪すぎると感じずにはいられなかった。一応は勇者の肩書きを持つとはいえ、俺はまだろくに剣の使い方も知らないド素人だ。第一、ついこの間に旅を始めたばかりなのである。ゲームで例えるなら、まだ最初の町を出発して、少しばかり強敵が蔓延るダンジョンを突破した、それくらいだろう。まだまだ序盤真っ盛りといったところに、いきなり強大な力を持つボス登場である。動揺するなというのは無理な話だ。
――俺達が、勝てる相手なのか?
口だけを動かして、声に出さず呟いた途端、胸にのし掛かっていた重圧感が増したように思えた。ネメラ山での一件で、敵の親玉ーーシュバトゥルスの強さは嫌になるほどよく分かった。分からせられた。彼が最後に放った魔法は、まるでその威力を俺達に見せつけるかのように凄まじかった。
勝てない。
こんな後ろ向きの言葉を、俺の心に植え付けるくらいには。
「……あんまりネガティブになってても、しょうがねえだろ」
耐えられなくなり、俺はとうとう独り言を洩らす。だが、どれだけ自分に言い聞かせようとしても、一度身に染み着いた不安と恐怖はそう簡単に拭えないものらしい。
――このまま眠れなくてもしょうがないよな。
ふぅ、と小さく溜息をつき、俺は布団から出て立ち上がった。気分転換に、外の空気でも吸おうと思ったのだ。障子を開き、縁側に出る。
そして、固まった。先客がいたのだ。
「……あ」
思わず声を上げる俺を、既に縁へ腰掛けていた相手もまた、驚きの眼差しで見つめていた。
「……ユート殿?」
女性にしては若干低く、しかし確かな上品さを秘めた呟きが、その艶のある唇から発せられる。そう。縁側で佇んでいたのは彼女だったのだ。
「セ、セイーヌさん? どうしたんですか、こんな夜中に」
俺の問いに、セイーヌは曖昧な笑みを浮かべて、
「ちょっと、眠れなくてな」
と、静かな声で言った。
「ところで、ユート殿の方はどうした?」
「あ、俺もセイーヌさんと一緒で、少し外の空気を吸おうかなと」
「隣に座るか?」
「え、えと、それじゃあ失礼します」
些か普段より甲高い声を無意識のうちに上げてしまいつつ、俺は彼女がポンポンと手を叩いた場所に腰掛けた。途端、セイーヌの美しい銀髪が穏やかな風に吹かれてなびく。同時に甘美な香りが俺の鼻孔をくすぐり、俺は心臓は強く高鳴った。容姿端麗な美人の隣に座っていると思うと、何となく落ち着かない。ざわめく気持ちを抑えつつ、俺はチラリとセイーヌの方を見やる。彼女は口元に微笑みを湛え、無言で庭を見つめ続けていた。その整った美しい顔立ちに、俺は思わず見取れてしまう。だが、彼女の蒼い瞳が少しばかり潤んでいる事に、俺はようやく気がついた。
――えっ?
「ん、どうした?」
俺の視線に気がついたらしい彼女は、平然とした調子で問いかけてくる。俺は慌てて、
「い、いえ。何でもないです」
と、彼女から庭へと顔を向け、最初に目に止まった桃色の花に意識を集中させた。まさか見取れていたなど、口が裂けても本人に言える筈もない。それに、女性の目に浮かんでいた涙の理由を率直に訊ねる勇気もなかった。しばらくお互いに何も話さないまま、イタズラに時間だけが過ぎ去っていく。
やがて、セイーヌの方がおもむろに口を開いた。
「ユート殿は、どうして眠れなかったんだ?」
「俺は」
返答に一瞬、詰まる。本当の事を告げるべきか、告げないべきか。俺は悩んだ末、
「昨日は昼まで寝てたので、それで」
と、嘘をついた。セイーヌにはどうしても言えなかったのだ。倒さなければならない強大な相手が怖くて、布団の中で震え上がっていたなどと。それこそ、口が裂けても。
「そうか、なるほどな」
彼女は俺の言葉を疑わずに信じてくれたようだった。俺は内心ホッとしつつ、同じ問いを投げかける。聞かない方が良いかもしれないとも思ったが、そうすると些か不自然のような気がしたのだ。それに、もし彼女が誰かに話して楽になりたいと考えているなら。せめて聞くだけでもしてやりたいと思った。
「セイーヌさんの方は、どんな理由なんですか?」
「私か? 私は……」
彼女は言い淀み、しばし躊躇している様子だった。だがやがて、セイーヌは夜空に浮かぶ月を悲しそうに見つめながら、消え入りそうな声色で言った。
「……また、私だけ生き残ってしまったと思ってな」




