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「あー、やっと配り終わった」
収入談義に夢中になっていた俺達を現実へと引き戻したのは、悪魔の気だるげな声だった。ふと周りを見渡すと、あれほどいた筈の猿人達は、いつの間にか全員がいなくなっていた。どうやら彼女の言葉通りに日給を受け取り、そのまま外へと一人残らず出ていってしまったらしい。
つまり、この場にいるのは俺達と彼女だけ、という事だ。
「……これって、もしかして結構チャンスじゃないですか?」
アリーテが声を潜めて言う。俺達は顔を見合わせ頷いた後、音を立てないよう忍び足で、空洞の内部へと足を踏み入れた。そこら十に放置されている物品の陰に隠れ、慎重に歩を進めていく。角を曲がりかけたところで、俺は後方の二名を手で制止した。そっと顔だけを出して、様子を伺う。無造作に置かれていた椅子に腰掛け、だらしなく背伸びをしている悪魔の女性が視界に入った。ちょうど俺達の位置が斜め後ろで死角になっているので、見つかる心配なく様子を観察する事が出来る。腰までかかるピンクの髪、人ならざる者と暗に示している紫の素肌、現在は畳まれている背中の黒き翼、そして頭から突き出している二本の角。相変わらずの異様な外見が目を惹いた。ただ宿の時と服装は違っていた。もう人間に化ける必要も無くなったので、恐らくはその所為だろう。今現在、彼女が身につけているのは自らの翼と同じ色をした漆黒の衣装で、そのデザインは悪魔らしく大胆なものだった。太股はその大部分が露出していて、健康的な色ではないとはいえ、そのきめ細やかな素肌はとても眩しく映る。胸元も開いていて、豊かな二つの膨らみが生じさせている深い谷間は、正直、俺には些か刺激的過ぎた。
思わず見取れてしまっていると、彼女が手を動かす。忽ち緊張を取り戻した俺は身構えたが、すぐに拍子抜けしてしまった。相手はただ、大きな欠伸をしただけだったのだ。その拍子、彼女の艶めかしい唇の中から、短い牙が顔を覗かせる。その様すら色っぽいと思えてしまうのは、その一際優れた美しい容姿が成せる技だろう。
「傷だらけの体には堪えるわよ、全く……バナナを盗みにいくのも大変じゃないっていうのに」
と、悪魔は肩を回しながら愚痴を吐き始める。やはり、俺達の存在には未だ気がついていないようだ。もしかすると、前の騒動で受けたダメージのせいで、感覚が鈍っているのかもしれない。
さて、これからどうするか。心の中で呟くと、服を誰かに引っ張られる。顔を向けると、それはアリーテだった。彼女は無言でジェスチャーし、俺とセイーヌに何かを訴えかける。推測するに、どうやら私に任せろ、という事らしい。色々と悩んだ末、俺はセイーヌと目配せした後、小さく首を縦に振って同意を示す。若干の不安はあるものの、特に名案が思いつかない以上、彼女に任せても構わないだろうと考えたのだ。それに、前回はそれで上手くいっている。
続いて、見習い天使は身振り手振りで俺達に下がるよう指示する。異論を挟む事なく、俺と女騎士はその指示に従い、悪魔の姿が確認出来る位置を確保しつつ、一歩後ろへと退く。それを確認してから、アリーテは両目を瞑ってか細い声で何やら呟き始める。忽ち、その足下に光輝く魔法陣が出現した。その輝きは詠唱が進むにつれだんだんと強まり、空気も心なしか張りつめていくような感じがする。そして、流石にここまでくれば先方も異変に気がついたのだろう。悪魔は弾かれたように立ち上がり、俺達の方を向いた。だが、その紅き瞳が驚きに見開かれた時にはもう遅く。
「ホーリー!」
叫んだ天使の掌から放たれた目映き光弾が宙を駆け、彼女の腹部へと直撃した。
「ぐうっ!」
悪魔はその端正な顔を苦痛に歪め、後ろへとふっとんでいく。やがて、彼女は積まれていた物品の山へと叩きつけられる。この好機を逃す手はない。俺とセイーヌは目配せした後に飛び出し、左右から彼女の喉元へと剣を突きつける。悪魔は苛立った様子で息を荒くするも、抵抗する素振りは見せない。近づいてみて分かったが、腹を抱えてうずくまる彼女の身体には、未だ無数の酷い傷跡が残っていた。俺の巻いた包帯こそ既に取り去っているものの、やはりダメージは完全に回復していないらしい。
「フフフ、どんなもんですかっ」
得意げに胸を張って歩いてくるアリーテに、俺は明るい調子で声を掛けた。
「お前の魔法、悪魔には役に立つんだな」
「そりゃあ、聖なる力ですからねっ」
なるほど。ゲームとかの相性で良くあるパターンだ。かなりアバウトな説明である筈なのに、俺はすんなりと納得してしまう。
「ところで、コイツはどうする?」
「決まってるじゃないですか」
セイーヌの問いに、アリーテは悪そうな笑みを浮かべ、
「どんな手を使ってでも、情報を全て吐かせるんですよ」
神聖なる力を扱う者とは思えない鬼畜な物言いである。そんな彼女の発言を聞き、悪魔は歯軋りしながら、
「そんな簡単に私が口を割るとでも思ってるわけ?」
と、憎々しげに言った。
「そうやって大口が叩けるのも今のうちだけですよ、メガベロベロリさん」
「そんなフザケた名前じゃないわよ!」
よほど気に食わなかったのだろう。悪魔は激高して、
「私はメファヴェルリーア!」
と、再び名乗りを上げた。一方、アリーテは冷めた目つきで、
「ふーん。まぁ、貴方の名なんてどうでもいいです」
「キーッ! ムカつくガキ天使ね!」
「おい、そのくらいにしろよ」
このままでは埒があかないと感じ、俺は会話に割り込んだ。俺の言葉を受け、天使と悪魔は強くにらみ合った後、ほぼ同時にプイッと顔を背ける。少し時間を置き、俺は口を開いた。
「えっと……メファヴェルリーアさん、でしたっけ?」
「そうよ」
横を向いたまま、彼女はぶっきらぼうに肯定を口にする。
「じゃあ、メファヴェルリーアさん。俺達に話してくれませんか。貴女達の『計画』について」
「だから言ってるじゃない。簡単に口は割らないって」
彼女はフンと鼻を鳴らし、
「どうせ、全部話したら殺す気でしょ? そんな見え透いた罠には乗らないわよ」
と、突っ慳貪な口調で吐き捨てた。
「チッ、バレてましたか……」
「おい、アリーテ」
側で悪態をつく見習い天使に、俺は諫めの言葉を掛ける。彼女は頬を膨らませたものの、
「分かりましたよっ。ユートさんの指示に従いますから
と言ったきり口を閉じた。俺は心の中で盛大な溜息をつく。前々から感じていた事だが、どうやらアリーテは悪魔に関しては並々ならぬ敵対心を抱いている気がする。恐らく、天使の性分というものなのだろう。
そして、その独り言を聞き洩らさなかった悪魔も、
「やっぱりね」
と、憎悪剥き出しで呟く。どうやら、こちらの印象はかなり悪化してしまったらしい。
「いえ、もう悪さをしないと誓うなら、俺達は貴女の命までは奪いません」
「そんな上っ面だけの言葉、信じられるわけないでしょ」
「上っ面ではないです」
俺はキッパリ言い放ち、彼女を真っ直ぐに見据えた。その宝石のような紅の瞳が、僅かだが一瞬揺らぐ。それが彼女の心をほんの少しでも動かした証拠だと望みを抱き、俺は語気を強め訴えた。
「大体そんな事をするくらいなら、前に宿で会った時、あんな真似をするわけないじゃないですか」
「う……」
悪魔は言葉を失って、その視線をあらぬ方向へとさまよわせた。今こそが説得のチャンスだと直感した俺は、その傷だらけの手を握る。彼女は俺の動作にたじろいだものの、俺の手を振り払おうとはせず、ただ俺を見つめていた。血の気のない紫の頬に、仄かな朱色が差していく。小さく息を整えた後、俺ははっきりと、真摯な気持ちをこめて彼女に言った。
「俺を、信じて下さい」




