プロローグ
「助けて!」
高校から家に帰る途中。その微かに聞こえてきた悲鳴に気がついたのは偶然だったかもしれないし、或いは神が俺に下した必然だったのかもしれない。
クリスマス・イヴには似つかわしくない曇った空が印象的な、身に染みる冷たい風が吹き荒ぶ日だった。
――なんだ?
心の中で戸惑いつつ、俺は声のした方向へと足を向ける。いつも急ぐ事など滅多にないのに、いつの間にか息を切らして走っていた。距離が縮んでいくにつれ、叫び声はより鮮明に耳へと入ってくる。その所為で、俺は助けを求めている人物が幼い女の子だという事を直感した。足を懸命に動かしながら、周囲の大人に助けを求めようと考える。しかし、この近辺はまだ人の開発が行き届いていない、自然が豊富な山道だ。民家なんて全くないし、車の通行だってそんなに多くない。俺の通っている高校でも、この抜け道を使っているのは俺くらいのものだろう。それでもせめて人が通りがかれば望みはあったが、タイミングの悪い事に、俺は誰とも出会わなかった。大声を出そうとしたが、既に痛いくらい心臓が脈打っていて、そんな余裕すらなかった。少しでも早く相手のところに到着しなければ。そんな一心だった。鞄と補助バッグは既に道端へと放り投げていた。
――よし、後少しだ……あっ!
俺の走っている山道の前方から二人の人物がやってくるのが見えた。一人は赤い服を着た、ショートカットの小さな女の子。恐らくは助けを求めていた少女だろう。その証拠に、普段なら愛くるしいだろうその顔は恐怖に歪んでいて、そのパッチリした両目からは大粒の涙が溢れ、白い頬を伝っている。
もう一人の人物は、そんなか弱い女の子の怯えきった様子が心底嬉しくて堪らないとでもいうように、悪魔の笑みを浮かべながら彼女を追いかけていた。背の低いずんぐりとした体格の男で、顔には無精髭が生えている。その毛むくじゃらの右腕には怪しく光る包丁が握りしめられていた。
――殺す気だ。
正直な気持ち、人の命を容易に奪う事の出来る凶器を目の当たりにし、俺が先ほどまで抱いていた決意は大きく揺らがされた。はっきり言えば、怖くなったのだ。女の子を助けようとすれば、自らの命を危険へと曝す事になってします。そんな真似をするくらいなら、この状況は見て見ぬ振りをーーせめて最寄りの民家や警察へ助けを求めはして、自分の安全だけはしっかり守った上で少女に出来るだけの事をした方が百倍利口だ。
それが最善なやり方じゃないのかと、俺の中で俺が甘い提案を持ち掛けてくる。
けれど。
「助けて!」
前から走ってくる俺の存在に気がついた少女は、必死に懇願の叫びを向けてくる。
――ッ!
その潤んだ瞳が、俺の迷いを一気に払った。
「うおおおおお!」
無我夢中で拳を振り上げながら、俺は男へ突進する。相手は喧嘩慣れしていないのか身を怯ませ、俺はその隙を狙って変質者の両手首を掴み上げた。即座に振り向き、立ち止まって俺達の方を見つめている少女を怒鳴りつける。
「早く遠くへ逃げろ!」
女の子は一瞬ビクッと体を震わせたが、俺の真意を理解したのか、すぐに駆け出す。
――これで当面は、安心だ。
少なくとも、俺がこの男の動きを封じている限りは。
「離せ……離せってんだよ! この野郎!」
「うわっ!」
突如、男は金切り声を上げながら今までより激しい抵抗を始める。必死に相手を押さえつけようとしたが、高校生としては平凡な運動神経である俺と大人では、流石に分が悪かった。このままでは、不味い。そう直感した、その時だ。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい!?」
「アイツを捕まえろ!」
背後から女の子のそれとは違う声がして、頭だけで振り返る。すると、そこには泣きじゃくる女の子を抱きしめている青年と、俺達に向かって走り寄ってくる中年の男達の姿があった。どうやら、彼女の悲鳴を聞きつけたのは俺だけでは無かったらしい。心の中で、俺はホッと一息をつく。
――これでもう、大丈夫だ。
「お前……お前のせいでええええ!」
だが、その僅かな油断が、結果的に命取りとなってしまった。自らが捕まってしまう事を悟ったのか、変質者の男は俺の拘束を振り解くと、手に握りしめているナイフを勢いよく俺の腹へと突き刺したのだ。
「……ぐはっ!」
瞬間、内蔵をグチャグチャにかき回されるような苦痛と共に、俺の視界は大きく揺らいでいった。そのまま俺は力無く地面に叩きつけられる。焦点が合わなくなったものの、俺の体に赤い液体が飛び散っている事は容易に分かった。何か複数の影が一つの影を押さえつけている。多分、先ほどの大人達が女の子を襲っていた男を捕まえたのだろう。複数人なら、きっと大丈夫な筈だ。安心感が心に広がると共に、深い虚無感も押し寄せてくる。
――俺、死ぬのかな。
とうとう、痛みすら感じなくなってしまった。死期を悟ると同時に、今まで過ごしてきた人生の思い出が走馬燈のように浮かび上がってくる。父さん、母さん、既に亡くなっているお婆ちゃんにお爺ちゃん、沢山の友人達。子である自分が先に逝く事を考えると、両親に対する罪悪の念が湧いてきた。昨日の夜、些細な事で大喧嘩した事が、今になって悔やまれる。今朝は結局、一言も口を利かなかったっけ。
――何だか、眠くなってきたな。
誰かが俺の体を揺さぶってくる。誰かが何やら言葉を掛けてくる。しかし反応は出来ないし、聞き取れもしなかった。次第に睡魔は強まっていき、俺は自然と目を閉じ、そして深い眠りの中へと落ちていく。
こうして俺、藍原ユウトの十六年間に及ぶ生涯は幕を閉じた――
――筈だった。