最初の案件
俺は受付の女の子に名前を知られていたのだ。
「あのう、どうして俺の名前を知っているのですか?」
俺はそもそもの疑問から尋ねる事にした。
彼女は、半分笑いながら
「だって、この会社で一番の花形部署は営業1課でしょう。会社の女子はほとんどの子が営業1課の人の顔と名前は知っていると思いますよ」
「特に上郷さんみたく独身の方は特に……」
それって、結婚相手として考えられていると言う事か?
いや、まてよ、早合点はいけないな、良く整理して考えないと……
俺の思考がそこまで言った時に不意に彼女から小さく折り畳んだメモを渡された。さらに耳元で小声で
「あとで読んでください……」
そう言って自分の受付の席に戻ってしまった。
これって、もしかして……
俺は近くのトイレに入って、渡されたメモを広げると、そこにはきちんとした文字で
『御相談したいことがありますので、退社後駅前の喫茶「セザンヌ」でお待ちしています……桜井陽子』
俺は目を疑った。あの社内でもナンバーワンの美女の呼び声が高いあの子にこんな手紙を貰うなんて……
ふと見ると、上でひいばあちゃんがニヤニヤ笑っている。
「ひいばあちゃん、いったい何を笑ってるんだい?」
ひいばあちゃんは、おかしさをを堪える様に
「これ笑わずにおられるかのう」
「どうしてさ、現に俺は……」
「それが甘いんじゃ。彼女の呼び出しの内容は愛だの恋だのと言う話じゃ無いぞ」
「わしが見た処、まあ向こう霊に聞いたのじゃが、あの子の今の彼氏に関する事じゃな」
「今の彼氏って、さっき言っていた事か」
「そうじゃな。そのことじゃろうて」
「何だ…喜んで損した」
「馬鹿じゃのう。女が男の事で悩んでいるなら先ずは別れの事じゃろう」
「別れ?」
「そうじゃ、上手くやればお前さんが彼氏になる事だって可能じゃ無いかい」
まてよ、その相談が『彼氏と別れたい』と言う内容と言う事も有るわけだ……なるほど……
「分かったよひいばあちゃん、上手くやってみるよ」
「ああ、せいぜい頑張れ、お前さんはどうやら向こうの守護霊に気に入られた様じゃからな」
「守護霊に気に入られるのが大事なのか?」
「当たり前じゃろう!なんにも分かって無い様じゃな。夫婦でも恋人同士でもお互いの守護霊が相手を気に入っていれば、
それは上手く行くのじゃ」
「だが、気に入らないヤツだったり、嫌な相手じゃったら、上手くは行かないどころか喧嘩や罵り合いに発展するのじゃ」
「現に、お前の元の女、麗子じゃったか、あいつはワシは大嫌いじゃった。またあいつの守護霊も気位ばかり高くて嫌なヤツじゃった」
だから、別れさせたのじゃ。判ったろう」
なるほど、そう言う訳もあったのか……と言う事は……
「やりようによっては、俺と桜井さんだっけか、彼女と上手く行く可能性もある……と言う事だな」
「やっと、判ったかい。まあ、せいぜい上手くやりなさい」
俺はひいばあちゃんに言われて、やっと希望が見えて来た。
このチャンスを逃さない様にしなければ……
退社後俺は「セザンヌ」に急いた。駅前のビルの地下にある店に行く階段を俺はウキウキしながら降りて行った。
入り口のドアを開けると、奥の観葉植物の陰にはたして彼女は座っていた。
「すいません、俺のが早いと思ったのですが……」
「私は一階ですから、終われば着替えてすぐ出られますから」
「ああ、そうでしたね。俺は最上階でした」
コーヒーを頼み、注文の品が来るのを待って、俺は彼女に呼び出しの訳を聞いてみた。
「今日は、いったい何の用だったのですか?」
「すいません、実は上郷さんに折り入ってお話があるのです」
やはり、ひいばあちゃんの言っていた通りだ。
「伺いましょう、どんなお話か……」
俺はコーヒーを一口飲んで気持ちを落ち着かせた。
やがて、彼女は決心したように口を開きはじめた。
「実は私は今お付き合いしている方がいます。でも、その方は粗野で乱暴なので、私は別れたいのです」
「今まで、別れて欲しいとお願いしましたが、中々良い返事が貰えませんでした」
「何回も言って、やっと今回、可能性のある返事を条件付きで貰えたのです」
俺はここまでは想定内と思いながらも、どのような頼みなのかと思い、彼女の表情を伺ったが、彼女も相当な玉なのだろう、
全く変化を見せなかった。
「その条件とは何ですか?」
「はい、その条件とは、新しい恋人を連れて来る事です」
「要するに、新しい男に合わせろ、と言う事ですか」
「そうなんです……それで、上郷さんにかりそめの恋人になって貰って、あの人に会って欲しいのです」
「もちろん、お礼は致します……どうでしょうか?」
俺はかりそめの恋人とは思わなかった……
「何故俺なのですか? 失礼ですがあなた程の美人なら、幾らでもなり手はいるでしょう」
俺は思っている最大の疑問をぶつけてみた。
彼女は暫く俯いていたが、やがて恥ずかしそうに
「笑わないで聞いてくれますか……」
「勿論です。そんな失礼なことはしませんよ」
それを聞いて安心したのか、やっと笑顔が見えた。
「実は、私はご存知の様に受付におります。そこの前を通るのは社長以下全社員とお客様と業者と呼ばれる方々です」
「特に会社の花形営業1課の方は出入りが多く、良く前を通ります。」
「でもその中で、朝の挨拶や帰りの挨拶等前を通る度に挨拶を交わして下さったのは上郷さんだけでした。」
「営業に出かける時は『行ってきます』帰ってきた時は『ただいま』そんな,
さり気ない挨拶を交わすうちに、私は貴方に好感を持ちました。」
「だから、今度の事を考えた時にすぐに貴方の事を思い浮かべたのです」
よっぽど思い詰めていたのだろう、彼女は一気に話した。
本当か嘘かは判らないが、男として例え嘘でもここまで頼られたら、無碍に断る訳には行かないだろう。
「いいですよ。協力しましょう」
「ホントですか!? 有難うございます。
彼女に輝く様な笑顔が戻って来た。
それから、彼女の計画を聞いた。
今度の土曜日の11時に俺も使っている私鉄のターミナル駅の改札で待ち合わせをした。
そこから、近くの喫茶店に俺を案内する手はずだ。
その男とは少し前に約束をしたと言う。
その日はそれだけで別れた。
土曜日、俺は約束よりやや早く待ち合わせの改札に居た。
11時5分前に彼女がやって来た。今日は通勤時に着ているのかも知れない、スーツ姿だった。
「おはようございます。お早いですね」
「ああ、おはようございます。今日はつかの間とは言え恋人なんですから、もっと砕けた会話で無いと可笑しいですね」
「本当だ、そうでうすねえ、うふふ」
「一応ですが、事が終わるまで、敬語は辞めますからね。いいですね」
「はい、判りました。私もそうします」
「相手はもう来たの?」
「え、ああ、来てるわ」
「じゃ行こうか」
「そうね、行きましょう」
何と無くぎこちない会話をしながら俺達はその喫茶店に入った。
すると、店の奥まった所にそいつは座っていた。
なるほど、お世辞にも上品とは言い難い格好をしている。
黒い龍の刺繍の開襟シャツを着ていて、その下には赤いTシャツ。
黒いズボンの白い靴を履いてる。どこから見ても立派なチンピラだ。
俺はここで奴の守護霊を見てみた。
すると、なんとも弱々しい男が付いている。
俺が会話を求めても怖がって寄って来ないのだ。
ひいばあちゃんが「あれは臆病な霊じゃのう、あんなのが付いてると言う事はあの男もハッタリじゃな」
そう言ってくれ、俺も確かにその通りだと確信をする。
彼女に連れられて俺はその男の前に彼女と並んで座った。
まず、彼女が口を利く
「この人が私がこの前から言っていた人です。あなたより遥かに素敵な人です」
言われたハッタリ男は俺と彼女をひと睨みして
「ほう、そうかい、陽子こうなったら、この人と差しで話させて貰おうか」
彼女は予想外だったしく、戸惑いを見せたが、俺が逆に
「いいでしょう、望む所ですよ。」
そうハッタリいや本音を漏らした。
「それじゃ、外に出ていますから、何かあったら呼んでくださいね」
そう言い残して彼女は席を外した。
二人だけになると、まず俺から口を開いた。
「なあ、彼女が嫌がってるんだ、気持よく別れてやれよ。お前だって男だろう。しかもそんな格好しているなんて事は男らしさにも拘るんだろう」
そこまで一気に口が回ったと言うか滑った。
それを聞いて、相手の男は黙っていて口を開かない。
俺はここはハッタリが足らないと思い
「聞いてるんだろう!おい!何とか言ってみろよ!」
大声をだして威嚇した。
すると、やはりと言うか以外と言うか
「ご、御免なさい……俺、こんな格好してるけど、極普通の者なんです」
「ただ、ヤクザ映画が好きでこういう格好しているだけなんです」
「貴方の様な方が陽子の彼氏なら僕は文句ありません。どうぞ……」
「あ、それから、僕は彼氏じゃありませんから」
なんだあ、彼氏じゃないと、「どうゆう事だ!説明しろ!」
また、俺は大声を出してしまった。店の客がこちらを見る。
「大声出さないで下さい。彼氏と言うのはお互いが認めていないと彼氏彼女の関係にはなりませんよね」
「ああ、そうだな」
「僕達の関係は僕が彼女に付きまとって一方的に彼氏を自認していたのです」
「つまり……ストーカーか?」
「簡単に言うと……そう言う言い方もあるかなと……」
「そう言う言い方しな無いだろう……じゃあもうお前は帰れ、俺から彼女には言っておくから」
「それから、これから連絡なんかしたら、今度こそ只じゃ済まないからな」
「は、はい判りました」
そう言い残して、その男は去って行き、それを目の当たりにした彼女はすぐに店の中に戻って来て
「あのう、急いで出て行って仕舞いましたが、どうなったのでしょうか?」
不安げに俺に尋ねる、最もだと思う。
「話はついた。もう付きまとう事はないよ」
「彼氏じゃ無くてストーカーの様な関係だったんだってね……白状して行ったよ」
「はい、本当はストーカーみたいに一方的に言い寄ってきたのです。ですからストーカーと言ったら協力して貰えないかと思いまして……」
「もう、安心でしすよ。約束させましたから」
「有難うございます。なんとお礼を言って良いか……」
「礼には及びません、良かったですね、これで安心して暮らせますよ。あいつには今度近づいたら、ただじゃ置かないと脅かしましたから」
「それじゃ、また会社で。ああ、それから俺、左遷されて今は「資料室」ですから、じゃまた」
そう言って俺は帰ろうとした。
「あのう、待って下さい……未だお礼が……」
「お礼なんて要りませんよ。俺は貴方が困っていたから協力したのです。それだけです。本当に……」
「あのう、これからお昼でもと思ったのですが……ここは私の地元なので、この辺の美味しいレストランにご案内しようと思っていたのですが……駄目ですか?」
「そこまで言われれば、俺に嫌と言う返事はありませんよ」
「嬉しいです。じゃあご案内します」
そう言って彼女は俺の腕を掴み組んだ。困惑する俺に
「だって、まだ仮の恋人の関係は終わって無いと思うのですが……駄目ですか?」
「そう来ましたか、判りました。でも俺としては『仮』が取れたら最高なんですがね」
「私は、先ほどもお伝えした通り、上郷さんなら……」
「それに、正直言いますと私、ちゃんと男の方とお付き合いした事が無いのです。さっきの方とはお付き合いには入りませんよね?」
「まあ、あれは入りませんでしょうねえ」
「じゃあ、やはりありません。上郷さんがもし……」
「俺でいいのですか、『資料室』の男ですよ俺は、どうしたって将来性ゼロですからね」
「でも私にとっては営業1課は上郷さんだけでしたから……」
「そんな風に言われたら、断れ無いじゃありませんか」
俺はひいばあちゃんを見ると、ばあちゃんも笑ってる。彼女の守護霊も笑ってる。
そうか……これがご先祖様も望んだ組み合わせなのか……
「じゃあ、とりあえず今日のランチから始めましょうか?」
「はい、宜しくお願い致します」
俺と彼女、桜井陽子はこうして付き合う事になったのだ。
俺はこの後、彼女の家へ行き更に驚く事になるのだった……