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この事態は、半年前の進言書に記載してございます

作者: 久留トガ
掲載日:2026/08/14


 王城の謁見の間には、いつになく重い空気が満ちていた。居並ぶ重臣たちの表情はこわばり、誰も口を開こうとしない。壁際に控えるエレーナも、静かにその様子を見守っていた。


 半年前、この場でグランディス商会との取引案が議題に上がったとき、拡大に浮かれる声ばかりが目立っていた。異を唱えたのは、エレーナただ一人だった。あの日の空気を、今もはっきりと覚えている。誰も、彼女の懸念に耳を貸そうとはしなかった。


 それでも、控えを手放さずにきたのだった。今日という日が来ることを、どこかで覚悟していたからだ。


「グランディス商会との取引は、全て破談となりました。前払金として渡した金額は、戻ってまいりません」


 財務官の報告に、重臣たちがどよめいた。損失額は、王家の年間予算の一割に迫るものだった。


「先月の追加出資分を含めますと、損失総額は金貨にして約八千枚。加えて、担保として差し出した北部倉庫群の権利書も、返還の目処が立っておりません」


 財務官は、手元の資料を淡々と読み上げた。声には抑えきれない疲労がにじんでいた。


「商会長は既に姿をくらませており、行方も分かっておりません」


 第一王子ジークハルトの顔から、みるみる血の気が引いていく。この交易拡大策を独断で推し進めたのは、他でもない彼自身だった。


 重臣たちの視線が、じわじわとジークハルトへ集まり始めていた。誰もまだ、はっきりと口には出さない。だが、その沈黙こそが、何よりも雄弁だった。ジークハルトは、その圧に耐えかねたように、視線を泳がせた。


「な、なぜ、もっと早く異常に気づけなかったのだ」


 誰にともなく、ジークハルトが声を荒げた。その視線が、やがてエレーナへと向いた。


「エレーナ。お前は私の婚約者だろう。なぜ、止めなかった」


 声には、追い詰められた者特有の余裕のなさが滲んでいた。誰かに責任を移さなければ、この場に立っていられない。そんな焦りが、はっきりと見て取れた。


---


 その言葉に、場の空気が凍りついた。誰もが、突然の矛先に戸惑っていた。壁際の重臣たちの間にも、困惑した視線が交わされる。婚約者とはいえ、政策の実務に直接関わる立場ではないエレーナに、責任を求めるのは筋違いだった。それでも、誰も声を上げなかった。


 エレーナは、驚いた素振りも見せず、静かに前へ進み出た。


「恐れながら、殿下」


 声は、いつもと変わらず落ち着いていた。


「この事態は、半年前の進言書に記載してございます」


「……進言書?」


 ジークハルトが、怪訝そうに眉をひそめた。


「半年前、グランディス商会との交易拡大策が議題に上がった際、私は正式な進言書を提出いたしました。取引条件に不自然な点が多く、拡大には危険が伴う旨を記し、殿下にお渡ししております」


「そんなもの、受け取った覚えはない」


「王室文書課を通じ、正式に受理印を頂戴しております。控えは、こちらに」


 エレーナは、懐から一枚の書類を取り出した。日付と、王室文書課の受理印が、はっきりと押されている。


---


 周囲の重臣たちが、身を乗り出すようにして書類を覗き込んだ。


「読み上げてもよろしいでしょうか」


 エレーナは、静かに続けた。


「『グランディス商会の提示する取引条件には、通常の相場より著しく有利な数字が並んでおり、実態の確認なくして拡大を進めることは危険と存じます。取引実績の第三者による検証を、先に行うべきかと』」


「……」


 ジークハルトが、言葉を失った。


「進言に対しては、殿下ご自身の裁可欄に『検討不要』とのご署名をいただいております。念のため、こちらもご確認くださいませ」


 エレーナは、書類の該当箇所を示した。見覚えのある筆跡が、そこにはっきりと残っていた。


「そ、それは……」


 ジークハルトの声が、初めてはっきりと上ずった。


「わ、私の署名ではない。誰かが真似たものだろう」


 苦し紛れに、ジークハルトがそう言い放った。会場の空気が、さらに冷え込んだ。


「筆跡の鑑定は、いつでも書記官にお願いできます。また、この進言書は文書課を通じて正式に回覧されておりますので、写しが文書課の控え庫にも保管されているはずです。そちらとの照合も可能かと存じます」


 エレーナは、表情を変えずにそう答えた。ジークハルトは、それ以上何も言えなかった。


「で、では、なぜあの時、もっと強く反対しなかったのだ。書類を出しただけで、済んだと思っているのか」


 なおも食い下がるジークハルトに、エレーナは静かに首を振った。


「進言書の提出をもって、婚約者としての諫言の役目は果たしたと理解しております。それ以上、殿下のご判断に対し、婚約者が実務の場で異議を重ねることは、王室儀礼上、越権にあたるかと存じますが」


「……っ」


 その一言に、ジークハルトは黙り込んだ。反論すれば、今度は自分が儀礼を持ち出して彼女を黙らせようとしたことになる。ジークハルト自身、その矛盾には気づいていた。


---


「そんな書類、本当に受理されていたのか」


 宰相ヴォルフが、驚いたようにエレーナへ尋ねた。


「文書課の記録をご確認いただければ、受理番号と共に記載がございます。半年前の三月十二日、受理番号は文書課の台帳の通し番号で確認いただけるかと」


 ヴォルフが、傍らの文官に目配せをした。文官が慌てて退室し、しばらくして分厚い台帳を抱えて戻ってきた。


「……ございます。三月十二日、エレーナ・ヴァイスハイト様よりの進言書、受理番号第二百十四号。回覧先は、第一王子殿下」


 台帳の記載を読み上げる文官の声に、場がざわめいた。


「殿下は、この進言をご覧になった上で、危険性を承知の上で取引を進められたということになります」


 ヴォルフの声は、静かだったが、はっきりとした非難の色を帯びていた。


「た、たった一枚の書類だけで、そこまで断定できるものか。台帳の記載など、後からいくらでも書き足せるだろう」


 ジークハルトが、なおも声を張った。だが、その声には既に力がなかった。


「台帳の記載は、受理の翌日に文書課長と副課長の二名が確認・押印する規則になっております。両名のご署名も、同じ通し番号の欄にございます。もしご不審であれば、お二方を直接お呼びいただき、確認いただければと存じます」


 文官が、静かに台帳を差し出した。ヴォルフがそれを受け取り、記載を確かめてから、小さく頷いた。


「二重の押印、たしかにございます。この場で疑う余地はないかと」


 ジークハルトは、それ以上何も言えなくなった。


---


「わ、私はただ……早く成果を出したかっただけだ。商会の言葉を、信じてしまっただけで……」


 ジークハルトが、絞り出すようにそう言った。だが、その言い訳を拾う者は、もう誰もいなかった。


 重臣の一人が、堪えかねたように口を開いた。


「殿下。危険性を指摘されながら、検討もせずに進めた結果がこれでは、エレーナ嬢に責任を求める筋合いはございません」


 周囲の何人かが、小さく頷いた。囁きの対象が、エレーナからジークハルトへと、はっきりと移っていくのが分かった。


「殿下は、進言を握りつぶした上に、その責任まで婚約者に押し付けようとなさったのですか」


 財務官が、抑えた声で、しかしはっきりとそう言った。誰もその先を待たなかった。


 少し離れた場所に控えていた老公爵夫人が、扇を静かに閉じた。


「王家の信用に関わる話です。エレーナ嬢を糾弾するより先に、殿下ご自身がどう説明なさるおつもりか、伺いたいものですわ」


 その一言に、居並ぶ重臣たちの視線が、一斉にジークハルトへと集まった。


 ジークハルトは、それ以上何も言い返せなかった。


---


「殿下」


 エレーナは、最後に一度だけ、まっすぐにジークハルトを見た。


「私は、責任を問うつもりはございません。ただ、今後は進言を形だけのものにせず、ご検討いただければと存じます」


 ジークハルトは、深く俯いたまま、何も答えなかった。


 エレーナは、静かに一礼した。


「では、失礼いたします」


 踵を返し、謁見の間の出口へ向かう。誰も、その背を止めなかった。


---


 廊下に出ると、静けさが戻ってきた。窓から差し込む光が、石畳の床に長い影を落としている。


 エレーナは一度だけ息を吐いた。手の中の書類を握る指に、まだ力がこもっているのが分かった。それでも、足取りは乱れなかった。


「見事な備えでした」


 声のした方を見ると、ヴォルフが後を追うように歩み寄ってきた。


「半年も前の進言書を、あそこまで正確な形で残しておられるとは。正直、驚きました」


「却下された進言は、いずれ形を変えて必要になることがございます。実家の家風で、そう教わってまいりました」


「辺境伯家は、代々そうした実務に長けていると聞いています」


「祖母が、若い頃に一度、口頭での進言だけを行い、聞き入れられずに終わったことがあったそうです。その後、実際に問題が起きた際、『そんな話は聞いていない』と言われ、祖母は何も証明できませんでした」


「それで、記録に残す形へと」


「はい。以来、我が家では、進言は必ず書面で、正式な受理印付きで残すことになっております。口約束は、いつでも無かったことにされてしまいますので」


 エレーナは、少しだけ口元を緩めた。


「教訓を、記録にして残す。それだけのことです」


「先ほど、殿下が『署名は真似られたものだ』と仰った時は、正直、どうなることかと思いました」


「文書課の控え庫に写しがあることは、あらかじめ確認しておりましたので。あそこで焦ったのは、私よりも殿下の方だったかと」


 ヴォルフが、意外だというように目を見開いた。それから、小さく笑った。


「用意周到なことです」


「臆病なだけかもしれません」


「台帳の二重押印まで即座に挙げられたのには、正直、驚きました。文書課の規則を、あそこまで正確に把握されている方は、私も久しぶりに見ました」


「以前、文書課の記録整理をお手伝いしたことがございます。その際に、規則を一通り読ませていただきました」


「それも、半年前に」


「はい。進言書を出す前から、こうした場面が来る可能性は、頭のどこかにございましたので」


 ヴォルフは、その言葉に、静かに頷いた。


「もしよろしければ、財政顧問として、正式に王家にお力を貸していただけませんか。あなたのような視点は、これから先、何よりも貴重です」


 ヴォルフは、そう続けてから、少し声を落とした。


「今回のような話が、二度と繰り返されないためにも」


 エレーナは、少し驚いたように瞬きをした。それから、小さく頷いた。


「……喜んでお受けいたします」


 廊下の窓から、午後の光が遠く差し込んでいた。エレーナは、進言書の控えを胸に抱き、前を向いたまま歩き出した。


◇◇◇


 一週間後、ヴァイスハイト辺境伯邸に、王室の紋章が入った正式な辞令が届いた。


 財政顧問への登用と、今後の交易政策における進言について、正式な検討義務を課す旨の通達が添えられていた。末尾には、ヴォルフの署名と共に、一文が加えられていた。


『先を見通す進言に、正式な重みを。今後とも、変わらぬご助言をお願いいたします』


 エレーナは、その通達を静かに畳んだ。窓の外では、初夏の風が庭の木々を揺らしている。


 もう誰も、彼女を「口数が少なく、地味な令嬢」とは呼ばないだろう。だが、それでいい、とエレーナは思った。評判など、記録に残る事実ほど確かなものではないのだから。


 部屋の扉が開き、父である辺境伯が顔を覗かせた。


「王城から、正式な辞令が届いたそうだな。まさか、お前があの進言書をずっと手元に残していたとは、父も知らなかった」


「お伝えしていませんでしたので」


「なぜ黙っていた」


 エレーナは、少し考えてから答えた。


「使う機会など、ないに越したことはないと思っておりましたので。ただ、いつか必要になるかもしれないとも、どこかで思っておりました」


 辺境伯は、しばらく娘を見つめてから、静かに笑った。


「お前の祖母も、そういう人だった。備えを、誰にも見せずに続ける人間だ」


「存じております。祖母の書庫に残っていた交易記録を、私も読み込んでまいりましたので」


 辺境伯は、それ以上何も言わず、ただ小さく頷いた。それから、少し間を置いて付け加えた。


「財政顧問の件、断る理由もないだろう。好きにしなさい」


「はい」


 翌朝、エレーナは新しい進言書の束を鞄に詰め、王城へと続く道を、迷いのない足取りで歩き出した。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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