生贄聖女と誘拐犯の三日間
『聖女様……どうかこの村を……お救い下さい』
誰かの願いが聞こえた。
重い瞼を持ち上げると、頭を垂れて平伏し、体を震わせている人々が目に入った。
その体には黒ずみや爛れがあらわれており、生きているのも絶え絶えだというように憔悴している。
私が誰かの願いを聞き届けるように頷くと、さらりと白い髪が頬を撫でた。
そして祈るように両手を合わせた私は、最後に縋るような表情を浮かべる人々を瞳に映し、そっと目を閉じた。
◇ ◇ ◇
何かが焦げるような匂いがした。
それと、「パチッ」という爆ぜるような音も。
「ん……」
小さく声を漏らし、一人の少女が目を開ける。
暗い視界で初めに瞳に映ったものは、揺らめく炎と白い髪。
(ここは……)
暗闇に慣れてきた目で辺りを見ると、少女は自分が、おそらく「森」にいることがわかった。
周りに、おそらく「木」であるものがたくさん立っているのだ。
(確か、儀式の途中で……)
記憶を辿りながら体を起こそうとした途端、こめかみ辺りに鋭い痛みが走った。
「いっ……」
反射的に両手を頭へ伸ばすと、ザラザラとした布の感触が返ってきた。
「ようやくお目覚めかい、聖女サマ?」
その瞬間、炎の向こうから声が聞こえた。
声の方に顔を向けると、葉巻をふかす髭の生えた男と目が合った。
「……おじさん、誰?」
少女の口から発せられた問いに、男が頬を引き攣らせる。
「おじ……まあいいか、合ってるし……」
諦めたようなため息とともにそう呟いた後、男は気持ちを切り替えるように短い黒い前髪を掻き上げた。
そして、左の口の端を吊り上げて、再び口を開く。
「俺が誰か聞いたな。俺は、お前を誘拐した盗賊だよ。聖女サマ」
盗賊だと名乗った男が、怖がらせるように薄ら笑いを浮かべた。
だが、当の聖女と呼ばれた少女は、全く怖がる素振りを見せずに言葉を返す。
「へえ〜。名前はなんていうの?」
「へえって……つうか、誘拐犯が名前を言うわけねえだろ」
「そうなんだ」
聖女の素直な言葉にペースを乱され、男が眉を寄せて微妙な顔を浮かべる。
男は調子を取り戻すために一度紫煙を吐いた後、同じ問いを聖女に投げた。
「そっちは?」
だがその問いに、聖女は心底不思議そうに首を傾げた。
「いや、名前だよ。聖女サマは、なんというお名前なのですか?」
わざとらしく畏まった口調で聞き直した男を、だが、聖女は変わらず不思議そうな表情で見つめている。
「……俺の質問はそんなにおかしいか?」
「うん。だっておじさん、さっきから呼んでるじゃん」
男が目を見開き、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……聖女ってのは、名前じゃなくて呼び名だ」
「どう違うの?」
聖女の疑問に、男はどう答えようかと眉を寄せた。 そして、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「……どちらもお前を指すものだが、呼び名はお前だけのものじゃない。でも、名前ってのは大切な人につけてもらう、お前だけのものだ」
「ふうん」
相槌を打った後、聖女が何かを閃いたように「あっ」と呟いた。
「じゃあさ、おじさんが私に名前をつけてよ!」
「……はあ?」
突然の言葉に呆気に取られ、困惑の声が男の口をついて出る。
「だめ?」
眉尻を下げた聖女に、子犬のような青い瞳で見つめられた男が、耐えかねるように顔を反対側へと向ける。
断られたと思った聖女は、口の両端を下げて寂しそうにしゅんと俯く。
だが——
「……ライラ」
視線は戻さないまま、しかし、とても大事そうに男が口にしたその名前に、少女は弾かれたように顔を上げる。
「ライラ・ルードルフ」
「……ライラ・ルードルフ……うん! いい響き!」
ライラと名付けられた少女が満面の笑みを浮かべた。
その瞬間、「ぐぅ」とライラの腹の虫が鳴る。
男がちらりと一瞥し、自らの隣に置いていた大きなリュックを漁る。
「ほらよ」
そして取り出した手のひらサイズの何かを、ライラに向けて放った。
「わっ、とと……」
ライラは両手で抱えるようにして掴み、それを見つめながら男に問いかける。
「これは?」
「干し肉だ」
「ほしにく?」
「肉を乾燥させて塩振った食料さ。あんま美味かねえけどな」
そう言って、葉巻を捨てた男が自身の分の干し肉にかぶりつく。
それを見たライラが真似するようにかぶりつき、両手で固い肉を引っ張ってちぎる。
そして一口味わうと、ライラが目を輝かせた。
一瞬で残り全てを頬張り、もきゅもきゅと一心不乱に咀嚼する。
数分後にようやく飲み込むと、とても幸せそうな表情を浮かべた。
「……今まで何食ってたんだ?」
その様子を見ていた男が、目を細めながら問いかける。
「看守さんが持ってきてくれた、パンとスープだよ?」
「……そうか」
パチッと焚き火が爆ぜ、火の粉が舞う。
「……もう一個、食うか?」
男からの魅力的な提案に、ライラの表情がさらにぱあっと明るくなる。
「いいの?!」
ライラの反応に男がほんの少しだけ微笑み、もう一つ干し肉を放る。
「ありがとう!」
言うが早いか、ライラがまた口いっぱいに頬張ってもきゅもきゅと口を動かす。
「おひはん、ひおふひいふぇもいい?」
「飲み込んでから喋れ。何言ってんのかわかんねえから」
ライラがごくんと喉を鳴らして干し肉を飲み込む。
「おじさん、一つ聞いてもいい?」
「ああ」
「どうして私を『ゆうかい』したの?」
ライラからの問いに答える前に、男は新たな葉巻に火をつけ、深く一度それをふかす。
「とある人に依頼されたんだ。俺はお前を、森を南に抜けた先へ連れて行く」
「とある人って?」
「それは言わねえさ。守秘義務ってのがあるんでな」
「ふうん」
「……それ食って早く寝ろ」
「うん。わかった」
ライラは手に持った残りの干し肉を食べた後、男に言われた通り横になる。
そして、ゆらゆらと揺れる炎と男の横顔を眺めながら、静かに眠りについた。
◇ ◇ ◇
(干し肉ごときであんなに……それに、「看守」か)
寝息を立てるライラから焚き火を挟んだ向こう側で、男が「ふぅ」と葉巻の煙を吐き出す。
(……ライラが手を動かす時、もう片方の手も同じように動いていた。まるで、両手が縛られているかのように)
男がかぶりを振って思考を追い払い、右手に持った葉巻を再度ふかす。
上へと昇る煙を追って、視線が空へと流れる。
「……明日は雨が降るな」
夜空を見上げた男がそう呟いた瞬間——
「んぐっ……」
うめき声を上げ、口元を押さえた。
そして「ゴホッ」と一度咳をすると、指の隙間からぼたぼたと生暖かい液体がこぼれ落ちた。
男は口元から手を離し、その手に咲いた真紅の花を見つめる。
「クソ……」
悪態を吐いた男は、もう片方の手で血の滲む腹を押さえていた。
◆ ◆ ◆
『魔女め! その罪を死で償え!』
誰かの叫びが聞こえた。
目を開けると、燃え盛る真っ赤な炎が視界を埋め尽くした。
自らを照らす炎の向こうには、私に罵声を浴びせる人々の姿があった。
その眼は憎悪に満ち、射殺さんばかりにこちらを睨みつけている。
私はそれらを受け止めると、諦めたように下を向き、ゆっくりと目を閉じた。
◇ ◇ ◇
日の光が顔を照らした。
「んぅ……」
その光を避けるように顔を背け、ライラはまぶたを開ける。
だが、ライラが目を覚ました理由は眩しかったからではない。
美味しそうな匂いが鼻腔を刺激したからだ。
嗅ぎ慣れないその香りに、起き上がったライラはまだ少しぼんやりとした頭で不思議そうにキョロキョロと周りを見渡す。
(……ああ、そっか)
そして見つけた一つの人影に向け、口を開いた。
「おはよう、おじさん。それは?」
焚き火のそばで、何やら作業をしている男に問いかける。
「朝飯さ。炙ったパンと、干し肉を使ったスープ」
「パンとスープ……」
そう呟いたライラが、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せる。
「……できたぞ。ほら」
だが男が差し出したパンとスープを受け取ったライラは、今度は驚いたように目を見張った。
「……これが、パンとスープ?」
「ああ」
スープから漂う鼻腔をくすぐる優しい香りと、カリカリとした表面の中にふんわりとした柔らかさを感じるパン。
今まで食べていた、味が薄くほとんど匂いの無いスープや石のように固いパンと全く違うそれらに、ライラは驚愕していた。
「おい、さっさと座って食え」
「う、うん」
ライラは男に急かされ近くの岩に座った後、恐る恐るスープを口に運んだ。
……そこまでは覚えている。
気がつけば、手に持っていたはずのパンは無くなり、スープも空になっていた。
「あれ……?」
「ククッ……」
男の押し殺したような笑い声が聞こえ、ライラは少し恥ずかしそうに頬を赤らめて俯く。
「そ、そういえばこの服、おじさんが着せてくれたんだよね? ありがとう」
話題を変えるため、視線の先で見つけた自らが身に纏う服を指しライラがお礼を述べる。
「まあ、あんな布切れ一枚じゃ風邪ひくからな」
答えながら、男がスープのおかわりをライラに渡す。
「食いながらでいいから聞け。昨日も言った通り、お前を連れてこの森を南へ抜ける」
「わかった」
あまりにも素直に頷いたライラに、男は眉を顰める。
「……疑わないのか? 俺はお前に何か酷いことをするかもしれねえぜ?」
「それでもいいよ。おじさんは私に綺麗な服を着せてくれたし、美味しいご飯もくれたから」
ライラが当然のように口にする。
「……そうか。じゃ、それ食ったら出発だ」
そう言った男は、少し不機嫌そうだった。
◇ ◇ ◇
「ねえおじさん、どうして南に行くの?」
鬱蒼とした森を歩きながら、ライラが男の背中に問いかける。
灰色の分厚い雲が空を覆っているせいで陽の光が弱く、視界が悪い。
森の中心を流れる川の上流の方では、おそらくもう雨が降っていることだろう。
「この森は国境を跨いでんだ。南へ抜ければ国境を越えるから、お前を生贄にしようとした奴らもそう易々と手出しできねえってわけさ」
「なるほど」
先を歩く男の足跡を踏むようにしてライラが続く。
「……頭、痛くねえか?」
そのライラに対し、男が肩越しに問いかけた。
「うん。あ、この包帯、おじさんが巻いてくれたんでしょ? ありがとう」
「その怪我は俺がお前を連れ出す時に出来たものだから、礼を言われる筋合いはねえよ……そこ、気ぃつけろ」
「うわっ?!」
男が注意を促した瞬間、ライラが足を滑らせる。
だが、ライラの体に衝撃が訪れることはなかった。
「……ありがとう、おじさん」
男に片腕で抱き寄せられた状態で、ライラが感謝を口にする。
鼻と鼻が触れそうなほどの距離だ。
その距離に、ライラはなぜか安心感を抱いていた。
「いや、もっと早く言うべきだった」
安堵の息を漏らした男が、焦った表情を戻してライラの体から手を離す。
「あ……」
「どうした? どこか痛めたか?」
「う、ううん。大丈夫」
「そうか?」
無意識に名残惜しそうな声を漏らしたライラが、取り繕うように言葉を続ける。
「と、ところでさ。私、おじさんに誘拐された時のことあんまり覚えてないんだ。だから、おじさんに教えてほしいな」
若干強引な話題の転換だったが、男は特に気に留めずに再度歩き出しながらその話題に乗る。
「どこまで覚えてる?」
「看守さんと、きしだんちょうさんっていう人が、私を駕籠に入れて祭壇に運んでるところまでだよ」
「そうか。まあそこからは、俺がその場に突っ込んでお前を誘拐して、ちょっと離れたこの森に入っただけ——」
突如言葉を止めた男が、ライラの後方を鋭く睨む。
「……おじさん?」
「静かに」
男が身振りでライラをしゃがませ、声を低くしてそう促す。
その緊迫した声音に、ライラが少し体をこわばらせる。
「……追っ手だ」
男の視線を追って慎重に振り向くと、騎士団長と似た格好をした人影が二つ見えた。
「数を見るに、俺達がこの森にいることはバレてないか……」
男が追っ手の二人を油断無く視界に捉えながら小さく呟く。
「ここを離れる。なるべく音を立てないようにな」
「わかった」
男の指示に一つ頷き、ライラが一歩踏み出した瞬間——「パキッ」という何かが折れる音が足元から鳴った。
「あ……」
「誰だ!」
追っ手が素早くこちらを振り向く。
「チッ……!」
「わ?!」
間髪入れず、男がライラの脚と背中に手を回し、横抱きにして走り出す。
「ご、ごめんなさい」
「いいから。しっかり掴まっとけ」
男に言われた通りに、首に回した腕にぎゅうっと力を入れる。
「絶対手ぇ離すなよ」
ライラがこくりと頷いたのを確認し、男が再び口を開き、呟く。
「【疾走】」
瞬間。
周りの景色が一気に流れ始める。
男はライラを抱えながら木の間をすり抜け、岩や木の根を高速で飛び越える。
常人なら目を回すであろうほど目まぐるしく移り変わる景色に、だがライラは楽しそうな笑い声を上げた。
「あははっ! はっやーいっ!」
「……呑気すぎだろ」
腕の中で満面の笑みを浮かべるライラに半ば呆れたようにツッコミを入れながら、男が肩越しに振り返る。
「……おいおい、嘘だろ?!」
そこで見た光景に、男が信じられないといった様子で声を上げた。
高速で移動している男の後ろを、離されることなくついてくる一つの人影を見つけたのだ。
「チッ……あいつもスキル持ちか……!」
「おわっ?!」
早さそのまま、男が九十度右へ曲がる。
そして木を駆け上がり、次の木へ、その次の木へと一足で飛び移り続けた。
だが、当然のように人影も追ってくる。
「このままじゃ埒が明かねえ……」
そう呟いて唇を噛んだ男の耳が、微かな水音を拾い上げた。
「……クソ」
男は少し苛ついたような声を漏らした後、意を決した顔でライラに指示を出した。
「ライラ! 限界まで息を吸え!」
そしてライラを抱えたまま木から大きくジャンプし、森の中心を流れる川に飛び込んだ。
◇ ◇ ◇
ずぶ濡れになった男が、川に向かって手を伸ばす。
かなりの距離を川に流された二人は肩で息をしていたが、おかげでもう追っ手の姿は無い。
水深が深く、流れが早くなっていた川への賭けは成功したようだった。
「ありがとう、おじさん」
ライラがその手を掴み川辺に上るや否や、張り付いた服や髪も気にすることなく男に向かい言い放つ。
「ねえおじさん、さっきのもう一回やって!」
目を輝かせてお願いするライラに、男は呆れたように肩をすくめる。
「一日一回までなんだよ」
「じゃあまた明日ね!」
「……気が向いたらな」
「約束だよ!」
ライラが屈託のない、弾けるような笑みを浮かべた。
「へくしゅっ……」
ライラのくしゃみと同時に、ポツポツと水滴が肩を叩く。
「……とうとう降ってきやがったな」
空を見上げながら男が独りごちる。
「この先に洞窟がある。そこで雨を凌ぐぞ」
「わかった」
二人が洞窟に入った直後、雨がバケツをひっくり返したような土砂降りに変わる。
洞窟の中で服を干し、ライラは男に渡された比較的乾いている毛布で体を包んだ。
「寒くねえか?」
「うん。大丈夫」
ライラはそう答えたが、紫色になった唇は隠せない。
煙が位置を知らせてしまう可能性があるため、いくら寒くても火は起こせないのだ。
男が自分の服を脱ぎ、寒さに震えるライラに着せる。
「おじさんその傷……」
ライラが男の脇腹にある怪我を見て、心配そうに声を漏らした。
「ああ? なんでもねえよ。古傷が少し開いただけだ」
「ちょっとこっちに来て?」
男は少し怪訝そうな顔を見せたが、言われるがままライラのそばへと寄る。
そしてライラが男の傷口に手を添えた瞬間、淡い光が体を包み、男の怪我が瞬時に治った。
「よし、これで——」
「何やってやがる!」
満足げに呟いたライラの両肩を掴み、男が叫ぶ。
「これ以上力を使ったら——」
その剣幕に驚いて目を見開くライラに、男が言葉に詰まる。
「……とにかく、もう力は使うなよ」
「わ、わかった」
手を離して目を逸らし、だが強い口調で言い聞かせるように男が告げる。
怒らせてしまったと思ったライラはしゅんと俯く。
「……でも、ありがとな」
そんなライラを見かねてか、男が視線を戻して真っ直ぐにライラを見つめ礼を言った。
「……うん」
二人きりの洞窟内に雨音が響く。
雨は上がるどころか強さを増し、遠くから雷すらも聞こえてくる。
「ところでさ、おじさん。追って来てた人はもう大丈夫なの?」
沈黙を破るようにライラが問う。
「ああ。雨足が強くなってるから、奴らも捜索は続けられねえだろ」
そうライラの問いに答えた後、男がえらく逡巡するような表情を見せる。
不思議に思ったライラだったが、急かすようなことはせず、ただ男が口を開くのを待っていた。
「……お前は……」
だがようやく紡がれた言葉はそこで途切れ、男は眉間に皺を寄せて口を閉じる。
そんな様子にライラが首を傾げると、男が再び躊躇いがちに口を開いた。
「……お前は、両親について何か聞いてるか」
突拍子のない質問に少し目を丸くしたライラだったが、質問自体には淀みなく答える。
「私の家族は、みんな神様のもとへ還ったって聞いてるよ。昨日の儀式で、私もそこに行くんだって言ってた」
ライラが看守に聞かされていた話を淡々と語る。
「おじさんの家族はどういう人なの?」
「……俺の家族も、全員死んだよ」
「……そうなんだ」
二人の間に再び沈黙が降りる。
「……なあ。お前のことを聞かせてくれ」
今度は男がその沈黙を破った。
だがあまりに突然の言葉に、ライラが困惑の表情を浮かべる。
「私のこと?」
「ああ。今までどう過ごしてきたんだ?」
王宮での生活を聞かれているのだと理解したライラは、顎に指を当てて思い出しながら答える。
「えーっと。起きて、祈って、看守さんがもじゃもじゃで背の高い人だったらお話をして、祈って、食べて、寝るって感じかな」
「何を祈るんだ?」
「作物の豊穣とか、病いを防ぐとか、災いを抑えるとかかな」
「……全部国のためか」
男が小さく呟く。
「何か言った?」
「……いや。背の高い看守ってのは?」
「私の看守さんは二人いてね。頭がもじゃもじゃで背の高い人の方は、色々お話してくれたの。少し前から、全然来てくれなくなっちゃったけど」
「……そうか。何を話したんだ?」
「外の世界のこと!」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、ライラが白い歯を見せて語り出す。
「空のことや国のこと、あと森のことなんかも聞いたよ!」
目を輝かせたライラは、指折り数えながら矢継ぎ早に喋り続ける。
「ここが森っていう場所なんでしょ? 看守さんに聞いた『木』みたいなものがいっぱいあったから、すぐにわかった!」
そう言って、ライラが心底楽しそうに笑みを浮かべる。
そして何かを思い出したライラが、期待するような目で男に問いかけた。
「あ、そうだ! おじさんはさ、『海』って見たことある?!」
「まあな」
その返事を聞き、ライラがものすごい勢いで身を乗り出した。
「ホントに?! ねえねえ、海ってホントに、こーんなに大きいの?!」
腕を精一杯大きく広げたライラを見て、男がニヤリと笑う。
「そんなんじゃ足りねーよ。海ってのはな、この森よりも、お前のいた王国よりもはるかにデケェからな」
キラキラとした目で男の話を聞いていたライラが、興奮しきった顔で口を開く。
「行ってみたい!」
そんな無邪気な要望に、男が「ふっ」と嬉しそうに微かに笑う。
「いつか連れてってやるよ」
「ホントに?! 絶対だよ?!」
男が約束してくれた未来に思いを馳せたライラは直後、口に両手を当てて小さく笑い声を上げた。
「ふふっ」
「……そんなに楽しみか?」
「うん! それに、海だけじゃないよ。おじさんと出会ってから、楽しみなことがいっぱい増えたなって思って」
鼻歌でも歌い出しそうなほど嬉しそうな表情でライラが答える。
「おじさんのお話、もっといっぱい聞きたいな」
「……ふっ。しょうがねえ。雨が上がるまで付き合ってやるよ」
結局その日、雨が上がったのは日が沈みきった後。
その間、洞窟内には二人の話し声が響き続けていた。
◆ ◆ ◆
「聖女はまだ見つからんのか!」
男と聖女が潜伏する森のそば。
王国側の領土に張られた陣の、特に豪奢な天幕の中で小柄な男の怒声にも似た叱責が飛んだ。
「も、申し訳ありません! なにぶん森が広く、捜索にはまだ時間がかかる見込みでございます!」
叱責を受けた女が言い分を口にする。
言い訳をするなと叫びそうになるのをすんでのところで堪え、少しずれた眼鏡を直した男は努めて冷静に情報を問う。
「……森にいるのは確実なのだな?」
「はい。帝国に無理を通して、森を囲むように人員を配置しておりますゆえ」
「ふむ……」
部下からの答えに男が思案顔を見せる。
「であれば、捜索隊を引き上げさせ、獣一匹通さぬように見張らせろ」
「……何をされるおつもりですか?」
怪訝そうな顔の部下にそう問われた男は、口角を吊り上げ企み顔を浮かべた。
「森に火を放つ」
「まさか! 森の一部は帝国の領土でもあるのですよ?!」
男の言葉を聞いた部下は、信じられないといった様子で叫ぶように言葉を放つ。
「それがどうした。聖女の力を手に入れることに比べれば、そのようなことは些事に等しい」
言いながら、一層笑みを深めた男が続ける。
「とにかく、私の言う通りにしろ。決行は、明日の朝だ」
◆ ◆ ◆
『聖女様。今まで、ありがとうございました』
誰かの感謝が聞こえた。
目を開けると、座り込んだ私の下に描かれた、物々しさを感じる魔法陣が見えた。
直後、その魔法陣が輝き出し私の視界を白く染め上げる。
私はその光に身を任せるように、静かに目を閉じた。
——ああ、私は……
「——きろ! おい起きろ! クソッ、何考えてやがるあいつら!」
切羽詰まった男の声に、ライラはまだ少し重い瞼を開く。
「……どうしたの? おじさん」
「起きたか! あいつら、森に火を点けやがった! 今すぐ森を抜ける!」
「っ?! わかった」
男はひとつ頷き慌てて立ち上がったライラを横にして抱え、スキルを使って目的地である南へ向かい一目散に走り出す。
だがその行く先を火の手が阻み、思うように進めない。
「チッ……昨日あんなに降ってたくせに火の回りが早え……」
炎に遮られる道を迂回しながら、それでも男は南へ向かう。
だが進む度に強まる違和感が、男をひとつの可能性にたどり着かせる。
(火の回り方に差がありすぎる……特に、東側が……)
男が思考を巡らす間も、火の手はすぐそこまで迫り来る。
(鬱陶しい……!)
その炎に一瞬男が気を逸らした瞬間、腕の中から声がかけられる。
「ねえおじさん。私たち、誘導されてるよね。東側に」
酷く冷静なその声に、男は驚いたように目を見開く。
「……そうだな」
「じゃあ、そのまま東へ進んで」
「なんだと?」
不可解な言葉に視線を落とした男の目が、ライラの真っ直ぐな瞳と交差する。
「お願い」
「……了解した」
その瞳に力強さを感じた男は、覚悟を決めてライラの提案を飲む。
「ありがとう」
ライラが目を細めてふわりと笑う。
「……ごめんね」
その後に目を伏せて小さく呟いたその言葉は、男の耳に届く前に炎の音にかき消された。
「しっかり捕まってろよ」
「うん」
一つ頷き、ライラが昨日のように腕にぎゅっと力を込める。
その重さを確認した男が、炎を避けて一目散に東側へと向かい始めた。
木々を越え、川を飛び越え、あからさまに炎の無い方向へ駆ける。
そして、森を抜ける直前——
「【疾——」
男がスキルを発動しようとした瞬間、地面を強く踏み込んだはずの脚の力が抜け落ち、がくりと膝が折れる。
「ぐっ……」
遅れて走った激痛に男が顔を顰める。
痛みの元に視線を向ければ、そこには自らの太腿を貫通し紅に染まった矢尻が目に映った。
「ようやく見つけたぞ誘拐犯。いや……元王国騎士団長、ケリー・サッカレー」
正面からかけられた言葉に、ケリーと呼ばれた男がゆっくりと顔を上げる。
矢を番え、弓を構えた王国騎士団が、二人を囲むように立ち並び見下ろしていた。
「まったく手こずらせやがって」
そのうちの一人。
他の騎士達よりも豪奢な制服を着て、眼鏡をかけた男が下卑た笑みを浮かべる。
「……アリオ」
ケリーに呼ばれ、男は不快げに目を細めた。
「なぜ俺の名前を知っている」
「……そりゃあそうか」
ケリーは小さく息を吐いた。
「色々あるんだよ……聖女の看守から、随分と出世したようだな」
「ふん……!」
アリオは苛立たしげに鼻を鳴らし、ライラを一瞥する。
「聖女を渡せ。そうすれば、命だけは助けてやるぞ」
ケリーがライラを守るように抱きかかえ、無言で睨む。
「荷物も捨て、スキルも使えないお前にもはや抵抗の術は無いだろう。おとなしくそれを渡せ」
「……そう思うなら、力づくで奪ってみるんだな」
太腿に走り続ける鈍い痛みに耐えながら、ケリーが挑発するように不敵な笑みを浮かべる。
「……チッ。仕方ない。では、民にはこう伝えよう」
アリオは、仰々しく腕を広げた。
「『聖女は誘拐した悪魔に無惨にも食い殺されてしまったが、我々王国騎士団が捕らえたその悪魔を代わりに贄として捧げ、神のご機嫌をお取りした』と」
そして、ニヒルな笑みを浮かべる。
「馬鹿な国民共は、これで騙せる」
「……クソが」
歯噛みしながら悪態を吐くケリーを見下し、アリオは続ける。
「しかし、まったく理解できんな。なぜお前は聖女を攫った?」
「……姪っ子を助けるのに、理由なんぞいるかよ」
その答えに、男は嘲るように鼻で笑った。
「はっ……国のための正義よりも、たった一人を優先するとは……何とも愚かな」
「母親の記憶を改竄して子供を奪うことが、正義だと……?!」
ケリーが苛烈に睨む。
「そんな正義で成り立っている国など——」
「もういい」
怒りが籠った言葉を、アリオは冷たい声で遮った。
「放て」
アリオの指示を受け、騎士団の面々が番えていた矢を二人に向かって放った。
より強く、ケリーがライラを護るように抱く。
無数の矢が、その体に刺さる——直前。
「な、なんだこれは?!」
空中に溢れた「力」に圧され、落下した。
「——っ! 聖女の力か?!」
いち早くその現象の理由にたどり着いたアリオが、焦ったように部下達へと指示を飛ばす。
「剣だ! 剣で殺せ!」
瞬時に抜刀して走り出した騎士団員は——だが。
聖女を中心にして現れた光の障壁に阻まれ、誰一人として近づくことは叶わなかった。
「ライラ……」
そんな光景をどこか遠くのことのように見つめていたケリーが、淡い輝きを身に纏っている少女の名前を呟く。
「ごめんね……痛かったよね……」
ケリーの腕から離れ、ライラが目の前に地面に膝をつく。
そして太腿をさすると、淡い光と共にケリーの傷が癒えて消えた。
「そんなことは、どうでも……」
ケリーが手を伸ばす。
だが、ライラは優しくその手を両手で包んだ。
「おじさんだけでも逃げて、ね?」
その間も、光の障壁の輝きは増していく。
「やめろ……お前が、消えてしまう……」
ケリーが震える声を絞り出す。
ライラは、ふっと微笑んだ。
「大丈夫」
どこまでも穏やかな声で、続ける。
「私はもう、数えきれないくらい生きているの。何度も、何度も、転生して」
目を閉じて、ケリーの手を頬に当てた。
「その度に私は、一番強い記憶を夢に見るの」
静かな声は、真っ直ぐにケリーへと届く。
「次の生では絶対に……絶対に、おじさんと過ごした三日間を思い出す。だから——」
ライラはゆっくりと目を開け、ケリーの耳に顔を近づけた。
そして、そっと言葉を囁く。
「……簡単に言ってくれる」
ケリーは、ふっと口元を緩めた。
「ありがとう、おじさん」
その笑みに、ライラもつられて微笑む。
両目の端には、涙が浮かんでいた。
「今すぐ聖女を止めろ!」
部下に向かい、アリオが声を荒げた。
「で、ですが……近づけません!」
「知ったことか! 死んでも止めろ!」
その半狂乱の叫びは——だが。
あまりに眩い輝きに遮られる。
「っ……?!」
目を開けていられないほどの光が場を満たす。
——一瞬の間。
光が完全に収まる。
その場には——ケリーも、ライラも残っていなかった。
「あの聖女……魔力を……使い切りやがった……」
呆然と呟くアリオの声だけが、静かにこだましていた。
◆ ◆ ◆
王国は聖女の力を失った。
魔力を使い切る前に、生贄として転生させる。
それを何百年も繰り返し、国を支えさせていた力が。
豊穣も、病も、災いも。
全てに頼っていた聖女の力がなくなった。
民は混乱し、土地は荒れる。
そんな王国が、立っていられるはずもなく。
——森を燃やされた帝国が、その蛮行を許すはずもなく。
「……随分と変わったな」
小高い丘に腰を掛け、帝国の領地となった元王国を眺める一人の男が独りごちた。
あれから十五年の月日が経った。
頬を撫でる柔らかい風は、少しだけ冷たかった。
「……それまで待ってて、か」
ライラが囁いた、最後の言葉。
その声は、もうはっきりとは思い出せないくらい遠くなってしまった。
それでも。
彼女の姿だけは、目を閉じれば瞼の裏に存在していた。
——十五年。
いつまでも、いつまでも。
彼女が見つけやすいように、見晴らしのいい丘でケリーは待っていた。
「……ライラ」
どこまでも大事そうに。
まるで宝物のように、その名前を呟いた。
その時——
「呼んだ?」
背後から、声が聞こえた。
ケリーが弾かれたように振り向く。
そこには、白い髪の少女が立っていた。
「……まさか、本当に来るとは」
ケリーが目を見開いて呟く。
その言葉に、ライラは頬を膨らませた。
「約束したのはおじさんでしょ」
「……そうだったか?」
「もう……」
おどけるように肩をすくめたケリーに、ライラが唇を尖らせる。
その顔に、ケリーはふっと口元を緩めた。
「さて……」
そして立ち上がり、土埃を払う。
「海行くか、ライラ」
その言葉と共に、ケリーはライラへと手を伸ばす。
ライラは、嬉しそうに手を取った。
「うん!」
——生贄聖女は、もういない。
家族と共に生きるだけの、ただの少女が——満面の笑みを浮かべていた。




