プロローグ
真実は時に残酷であり、知らぬまま安寧に浸ることこそが救いである。その言葉が真理であると俺が気付いたのはいつのことだったろうか。
俺は誰もが持つ魔力を持たずに生を受けた。それはすなわち、誰もが持つ魔道具すら使えないことを意味する。俺は忌み子として捨てられた。生まれ持った家族すら失ったのだ。幸か不幸か、哀れな乳児を拾った一人のシスターが居なければ、今までの二十年を過ごすことはできていなかっただろう。
二十年。その長く空虚な時間に、今、終止符が打たれようとしていた。
孤児院を出た俺は、人里を離れ、深く昏い森の中で静寂に身を包み十年を生きた。この魔力なき身に獣を狩る術などあるはずもなく、しかし、森の恵みは忌み子に対しても等しく慈悲深かった。木の実、キノコ、そしてたまに獣の死骸を漁り、何とかこの生命を維持してきた。
そんな束の間の平穏は、些細な欲によって崩れ去った。弱った鹿を見つけ、これならばと思いあがってしまった。足を引きずり血を流していた鹿を、そうさせたものが近くにいるはずだと思い至らなかった。森の深奥にある迷宮を追い出された、飢えた狼型のモンスターは、獲物を横取りしようとした俺に鋭い眼光を刺した。
俺の目は、その狼が動くスピードに追い付けなかった。一瞬のうちに姿を消した狼は、次の瞬間には眼前に迫り、大きく口を開いていた。その鋭い牙は俺の肉を裂き、骨を砕いた。鈍い音と振動が、最後に感じたものだった。意識は光を消すように暗転した。
俺は死んだ。
そして……。
「無知とは、慈悲であり幸福。我らが王が与えたもうた祝福であり、逃れ得ぬ呪いである。」
「……爺さん。俺は難しい話は分からないんだ。」
「おお、目を覚ましたか。」
そこは、夢の世界と呼ぶにはあまりに寒々しく、暗澹とした空間だった。どこまでも続くような深い暗闇の中に、俺たちを囲むようにして不気味に立ち並ぶ巨大な門。中心に、一人の老人が座っていた。辺りには甘ったるい花の香りと、なんとも表現しがたい粘着性の匂いが漂っている。
「よくぞ来た。この老いぼれも、座り続けて少々腰を痛めていたところじゃ。」
腰の曲がった老人はしゃがれた声で饒舌に喋った。
「俺は死んだはずだが……。」
必要以上に眠りすぎたときのような頭痛と気怠さがあった。そして、脳裏によみがえる狼の牙。二十年かけて積み上げた生よりも、獣の牙が喉を裂く一秒の方が、よほど俺という人間を語るにふさわしかった。
「おぬしはあちらの世界で眠りについた。なによりも深い眠りに。そして、こちらへ来たのだ。」
「冥界というやつか。」
老人は深く刻まれた皺をさらに歪ませて顔をしかめた。
「そのような恐ろしい場所ではない。ここは夢の世界。その入り口じゃよ。」
「夢の世界……。」
それにしては、あまりに暗い、と思った。この暗闇は、俺の知る夜よりもずっと深く、粘り気を持っていた。
「この門は?」
立ち並ぶ門は高く大きく、周囲の空間が歪んでいるようにも見えた。
「それらはこの夢の世界の、あらゆる場所へ繋がる門である。これらすべての門を通ったのち、窮極の門へと至る。しかし、ただで通ることはできぬ。触れて見よ。まるで虚空のように……むむ?」
老人の言葉とは裏腹に、伸ばした手は門の奥へと入り込んだ。
「なんか通れそうだぞ。よっ……。」
「ま、待て待て。落ち着け、若人よ。おかしいな……ごほん。まあ、今のことは忘れるのだ。本題に入る。」
なぜか焦った老人に肩を掴まれ、門の奥に入っていた半身を無理やり引きずり出された。咳ばらいをした老人が顔をこちらに向けた。
「夢見の人よ。わしは一つ、取引をしたい。」
「取引?すまないが、今は何も持っていないんだ。肩でも叩こうか?」
森の中ではその日を生きるために必要なものを集め、それを使い切って一日を終える。余分なものは残っていなかった。
「何を言う。この老いぼれの目は誤魔化せんぞ。」
その双眸が剥き出しの狂気を孕んで見開かれる。
「おぬしの中に眠るその魔道具。それをくれ。代わりに、わしの魔道具をやろう。」
その目は俺の魂の奥底を見通しているようだった。
「魔道具か。確かにそれがあった。俺には不要のものだ、対価はいらないぞ。俺は、もう死んだんだ。」
「ほほ。何を言うか。」
老人はおかしいものでも見たかのように笑った。
「おぬしは死んでおらぬ。いや、死ぬことはできぬ。」
「なに?」
老人の言葉に、眉をひそめた。あらゆる生物は必ず死ぬ。そして、死後を冥界にて過ごす。これはこの世界の掟であり、誰であろうと逃れることができないはずだ。
「あちらでの死は、こちらでの目覚め。こちらでの死は、あちらでの目覚め。おぬしはそのように創り変えられておる。なに、安心せよ。いずれ死に臨むことはできる。」
正直なところ。これまでの二十年、生への執着が薄まり、死を望んだことは幾度となくあった。血に染まった視界の中で、ほんの少し、安堵を感じたことは事実だ。
「……それは。」
「おぬしが生死の輪を外れたことには理由がある。それはおぬしの使命であり、我らにとって天授の奇跡である。そうだ。我らは、おぬしを待ち望んでいたのだ。」
その言葉に、心が揺れた。謎の、怪しさ満点の老人の、寝言のようなうわ言でも。誰かに求められることなどなかったこの身には、それが随分と染みた。
「我らを救ってくれ、夢見の人よ。長いこと、我らは困難に直面している。」
「……わかった。俺にできることなら。」
おお、と老人は大げさに両手を広げた。
「だが、あいにくと俺は魔力が無い。魔道具を貰っても、俺には使いようがない。」
「そういうことか……だが、心配は無用じゃ。この魔道具……『夢見の銀鍵』は魔力を必要とせん。おぬしでも十分に使うことができる。」
魔力を一切供給せずして顕現する魔道具など、聞いたことが無い。俺は極まった世間知らずであるから、単にそのせいかもしれないが、しかし俺に合致したその性質を聞いて好奇心が沸き立った。
「……能力は?」
「慌てるでない若人よ。まずは契約。取引を行ってからじゃ……。」
老人の顔が醜悪に歪んだ。それは先ほど俺を仕留めた狼の如く、獲物の喉笛を値踏みする捕食者の表情だった。得体のしれない寒気が背筋を走る。
「……いいだろう。しかし、どうしたら魔道具を交換するなんて芸当ができるんだ?」
「何もかもを知ろうとするのは人の悪い性じゃのう。言ったじゃろう。無知とは慈悲。それ以上を知りたいというのなら……。」
凄む老人の身体から、物理的な重圧を伴う気配が膨れ上がった。
「ああ、わかったよ。ただ、能力については教えてくれ。」
「うむ。それは必要じゃからの。どれ、こちらに寄れ。交換には少々、儀式的手順が必要じゃ。時間がかかるから、その間に聞かせようぞ。」
老人の座っている虚空に腰をかけ、灰のようなものを取り出した彼をじっと見る。老人がそれを撒き、不可解な音節の呪文を唱え始めると、俺と老人の間に、空間が腐食したような、歪んだ光のパスが形成された。
「その鍵の能力は、単なる二つの世界の往来、すなわち、あちらとこちらを行き来できるだけに留まらぬ。その真髄は、新たなる鍵を形成することにある。あちらでは迷宮を踏破することで、こちらでは異種族らの助けとなることによって。鍵は増えゆく。鍵が増えれば道は開かれる。道とは、あちらでは力、こちらではこれらの門である。」
老人の言葉は呪詛のように脳裏に刻まれた。光のパスを伝い、俺の奥底から何かが引き抜かれ、代わりに異質な何かが流れ込んでくる感覚を覚えた。
「おお……これが、『双角の……。」
光の向こうで老人が歓喜に打ち震え、俺の手のひらには凍り付くような冷たい感触が残った。七分ほどの手のひら大。銀色でありながら、どこか生物的な脈動を感じさせる、奇怪な模様がびっしりと刻まれた鍵だ。
無い空を仰ぎ、手を掲げ悦に浸る老人はひとしきり感嘆したのちに、突如として俺に視線を戻す。
「さて、そろそろか。」
老人はその胸元に手を伸ばした。
「何を……ぐっ!?」
取り出したのはナイフだった。迷いなく、何の感情もなく、老人はそれを俺の心臓に突き立てた。
「眠りのときじゃ。」
自分の身体を見ると、ナイフの突き立った部分からは、血の代わりに粒子が燐光となり零れていた。そこから身体が半透明な光の帯となり解けていく。
なんだこれは、どうなるんだ。そう問いたいが、声が出ない。身体は急激に薄れ、意識すら朦朧となった。
「さあ行け、夢見の人よ!呼び声に耳を澄まし、鍵を集めよ。全ては、我らが王のために……!」
最後に聞こえたのは、そんな老人の狂気に満ちた叫び声だった。




