役人
ここから先の話は、言ってみれば後日談ですから、もはや語られる必要はないのかもしれません。実際、この先、神様ご夫妻はもちろん、執事長すらも登場することはありません。まるで龍宮城から帰還した浦島太郎のように、私はお住まいとはきっぱりと切り離された元の生活に戻ったのでした。
しかし、それでもなお、私の経験の本質は、この街に戻ってきてからの普通の生活に宿ったように思うのです。それはお住まいでの勤務を経なければ決して得られなかったものに違いないのですが、しかし、ここでこうして長々と前口上を並べるよりは、とにかく、かい摘んでこの後日談を皆さんにお話ししてみようと思います。
私の久方ぶりの普通の生活は、お住まいを後にして二日後の、年度始めから始まります。
新しい職場の朝はゆったり目の九時半スタートでしたが、その日、私は初日から遅刻するリスクを冒すことのないように、少し早めに出掛けていったのでした。
この街の役所の庁舎は、イロハニ神社の最寄りのα駅からは地下鉄で二駅先の、神社の目と鼻の先にあります。道中、およそ一年ぶりに都心の朝の通勤ラッシュに揉みくちゃにされましたが、そこにみる巷の印象は、長引く疫病禍の影響か、どこかしら覇気がなく、まるでひたすら奇跡だけを待ちわびている重病人のように悄然としていました。道行く人はみんな、無表情に泳ぐ魚のような目の下に揃いも揃って白いマスクを着けていましたが、そこには疲れと苛立ちが見え隠れしていました。例年であれば、年度始めのこの時期は、リクルートスーツに期待を膨らませた新入社員がオフィス街の至るところに初々しい雰囲気を撒き散らしていて、街全体が独特の浮き足だった空気に包まれるものですが、そうした気配は微塵も感じられなかったのでした。
官庁街の真ん中に位置するその庁舎は、十五階建ての、いかにも現代風にガラスとコンクリートで造作された、都心にはありふれた四角いオフィスビルでした。全面ガラス張りのエントランスをくぐって少し進むと、建物の中心は最上階まで吹抜けになっています。二階より上の階はその吹抜けを囲んで廊下が走り、その廊下をさらに取り囲むように、つまりはビルの外壁に沿って役所の執務室が並んでいるのですが、エントランスのある一階では、ちょうどそれらの執務室の真下が無機質な高天井になっています。そして、その高天井の所々には、ぽつりぽつりと電灯が埋め込んであって、吹抜けからこぼれ落ちてくる光と、外壁沿いの窓から差し込んでくる光の二つを合わせても足りない光量を補う造りになっています。ところが、私が初出勤したその日は、その天井の灯りがすべて消してあって、ホール全体が何とも薄暗く沈んで感じられたのでした。
その薄暗いホールで手持ち無沙汰のまま、しばらくぶらぶらしていると、吹抜けを挟んで反対側の暗がりから、じっとこちらを窺っている人影と目が合いました。それが田山さんという私の新しい職場の同僚でした。田山さんは私を迎えに降りてきていたのですが、初対面の挨拶もそこそこに、庁舎のエントランスのいまいちな雰囲気のことをやはり気に掛けているのか、気恥ずかしそうにこんなことを漏らしました。
「このところ、街もすっかり財政難でしてね……。一円でも経費を節約するために、会計課が無駄な電灯はすべて消してしまうのですよ」
一般職員用のエレベータが六基すべて止めてあるのも、同じ理由によるらしいのでした。私たちの職場は八階にありましたが、私が田山さんに案内されたのは、エレベータホールではなく―そこは電灯が落とされていて真っ暗でした―、その先にある非常用階段でした。そこの階段を二百五十段余り、私はその日から毎日、上がらなければならないのでした。
八階の執務室は、さすがに部屋の灯りはほとんど点けてあるようでしたが、室内に二十卓ほどある事務机に対して、職員の姿は十人ほどしか見えません。そして、その代わりに空き机と思わしきスペースに所狭しと書類が積み上げてあります。
「最近、若手の退職が相次ぎましてね」と田山さんが親切にも説明してくれました。「最近の若い人は、自分と考え方が少しでも違うと思うと、すぐ辞めてしまいますから……」
その言葉に私自身、思い当たる節がなかったわけではありませんでしたが、一瞬ギクリとした気持ちを、とっさの苦笑いに溶け込ませてやり過ごしたのでした。
職場に着いて荷物を置くと、すぐに局長室へと通されました。執務を中断して挨拶に応じてくれた局長の本田さんは、五十代も半ばの穏和な方でした。この街には役人と耳にするだけで、ほとんど条件反射のように、エリート臭を漂わせた、いけ好かない奴、と毛嫌いする向きも多いのですが、本田局長はそういう偉ぶった雰囲気を微塵も感じさせませんでした。
「ここのところずっと離職者が続いていて、慢性的な人手不足でしてね、こうして来ていただけて大変助かりますよ」と局長がにっこりと笑って言いました。
離職者が続いて、という言葉が気には掛かりましたが、愛想良く迎えられたことには、少し私をほっとさせるものがありました。
荷解きをして、しばらく自分のデスクにかけていると、本田局長が部屋から出てきました。
「これから市長に決裁に上がるのですが」と局長が言いました。「せっかくですから、鳥居橋さんも挨拶かたがた、一緒に来ませんか?」
市長室は最上階の十五階にありました。もちろん、その階にも一般職員用のエレベータは通じていなくて、私も局長に付いて八階からせっせと非常階段を上がる必要がありました。後刻、聞いたところでは、政治家として多忙を極める市長のために残してある一台以外は、どうやら本当に、建物内のエレベータは一つも作動させていないらしいのでした。
市長室の手前は、吹抜けの天窓から差し込む天然光だけで薄暗い廊下が続いていましたが、その吹抜けの対面、執務室側の壁には、一面に寸分の隙なく選挙用ポスターが貼られていて、私の度肝を抜きました。ポスターは二種類あって、一つには『唯一の選択、市民党』と市長与党のスローガンが大書されています。少し上向き加減に未来を見つめる、エネルギッシュで自信にあふれた市長の肖像写真が全面にあしらわれています。もう一つは、来る万国展の会場イメージ図を背景に、にこやかに世界に向かって両腕を広げる市長の全身写真で、ポスターの下段には『万国展を経済の起爆剤に』と市長の選挙公約が太文字のゴシックで書き添えられています。この二種類のポスターが十メートル以上にわたって交互に壁を埋め尽くしていて、来訪者を出迎えるのです。
私たちが入室したとき、市長はちょうど、年季が入って脂光りする大きな両袖机にもたれて決裁書類に目を通しているところでした。入口の気配に一瞬視線を上げましたが、廊下のポスターの爽やかな写真とは似ても似つかない、追い詰められて疲弊した印象がありました。額には、肖像写真の笑顔には決して映らない深い皺が刻まれ、目元は落ち着きなく、全体に酷く苛立たしげな様子でした。
私たちは、市長の脇にいた秘書官から、そのまま入口で待つように制されて、しばらくじっとしていましたが、やっと市長がその重い腰を上げると、部屋の入口と奥の執務机との中間に置かれた検討テーブルへと招じられました。
市長は、挨拶する私に一瞥をくれて軽く頷くと、今度は、早く用件を切り出すようにと本田局長に向かって顎をしゃくりました。
局長は、市長のそうした愛想のない振る舞いには慣れているようでした。全く動じることもなく、手持ちのブリーフケースから資料を何枚か取り出して、「ご下命の件ですが」とさも丁重に市長の手許に差し出しました。
市長は資料にさっと目を通すと、ぶるっと身体を震わせて、いささか戯画的に思えるほど強く右の拳を握りしめて検討テーブルを叩きました。
「おまえらはいつだって、金がない、人がいない、権限がない、……ない、ない、ない、のないない尽くしじゃねえか! だが何度言わせんだ! おまえらには知恵はないのか! いつも知恵を持ってこいって言ってるだろ、知恵を!」
しかし、本田局長は少しも怯むことなく、確信をもってこう切り返しました。
「市長のご指摘はごもっともかもしれませんが、……しかし、わたくしとしましては、畏れながらも、これだけは何度だって申し上げなければなりません。この街は、もう市民が信じているほどには豊かではないのです。……財源を手当しろと仰られても、市債はもうほとんど買い手が付かず、ここ数年は、市内の銀行に頼みこんで無理矢理買い取らせている始末です。他方で、これ以上、既存施策の支出を抑えれば、いずれは市民サービスに穴が開きます。したがいまして、もうこれ以上の予算を万国展につぎ込むことは……」
市長は、もういい、とでも言いたげに大きく手を振って本田局長を遮りました。局長は一瞬、駄々っ子を相手に困惑した時のように顔を顰めましたが、やがて新しい会話の糸口を探そうとするように私を振り返って、
「鳥居橋さんは、たしかイロハニ神社で働いてたんだよね?」
市長が初めて私という存在に気付いたかのように顔を上げました。
「たしかイロハニ神社には、山のような宝物があったよな?」と市長が言いました。「そいつを借りてくることはできないのか? ……ときどき神社の宝物館で展覧会をやって、街の人間でごった返すじゃないか。まずは万国展の前座として、あれと同じことを海外の主要都市でもやるんだ。そして、世界中の人間に、この街を売り込む」
私は曖昧な微笑を浮かべて、助けを求めて本田局長の方を見やりました。局長もとっさの話に困惑しているようでした。二人して、市長の発言にどう答えたものか、反応に迷っていると、
「俺はべつに、冗談を言ってるわけじゃないんだぞ」
そう言って市長がほとんど覗き込まんばかりの勢いで、局長と私を交互に見つめました。そして、
「いいか、俺たちは今、正念場にいるんだ」と続けました。「……いいか、たしかに局長の言うように、この街はもはや、市民が信じてるほどには豊かではないんだ。しかし、ここで俺たちが踏み堪えることができなければ、この街は本当に駄目になる」
それから市長は、滔々と語りはじめたのでした。まるで市長という地位にあって膿のように蓄積させてきた考えを吐き出すように。しかし、ここからの話はかなりの長話でしたので、私の方で少しばかり要約してお伝えしたいと思います。
市長の現状認識では、この街は今、二つの構造的な困難に蝕まれているのでした。その一つは、この半世紀あまり、ほぼ歯止めなく進展したグローバル化です。交通の発達と近年の通信技術の劇的な進化は、人々に自由の翼をもたらしました。能力と、ほんの少しの運さえ掴めば、今や誰でも世界中から豊かな生活を探すことができるようになりました。実際、チャンスを手にした労働者は世界に広がる選択肢から企業を選び、逆に企業の方は世界中から彼らにとって望ましい人材を引き抜き、彼らにとって望ましい社会を選択するようになりました。その恩恵をこの街で一番初めに享受したのは、資力のある大企業でしょう。この三十年間、彼らはひたすら、この街から出て行きました。ただ歳を取るだけで給料の上がるこの街の労働力を嫌忌して、彼らは次々と工場を海外に移転させつづけてきました。けれども、その果実に与ったのは決して大企業だけではありません。彼らの利潤の増大によって、この街の株主は潤いました。消費者は海外から安くて良質なものが買えると喜びました。労働者だって、実は最も過酷な生産の現場が海外に出ていったことで、一番劣悪な労働環境からは自由になりました。そして、この街自体も工場の煤煙から解き放たれて、かつて昼日中に光化学スモッグ警報が出されていたのが嘘のように、街の空気はクリーンになりました。しかし反面、生産の現場はたしかに失われたのでした。“モノ”を産み出す苦労を知る人材は消えて、今やこの街からは、自力でモノを生みだす技術も、自らモノを生みだそうとする意欲も失われつつあるように見えます。そして今では、この街は国際的な競争力を喪失して、かつてものづくりの現場が養っていた中間層は瓦解し、世界を股にかけて事業を展開する一部の大企業の株主ばかりに富が集積しつつあります。
こうした現状に加えて、この街にはもう一つの構造的な困難があります。それは、社会的には言わずもがなの課題のように認知されるようになった少子高齢化です。この半世紀あまり、医療の進歩はこの街の人々をますます長生きにさせてきました。そして、成熟した市場経済は、その長寿化する人生を、これまで以上に自由に、自分らしく生きてゆく術を市民に与えてきました。これはたしかに人類の偉大な進歩に違いありません。しかし、市長の認識では、その進歩の代償として、高齢者の増加は医療や介護といった社会の負担を増大させてきたのでした。そして、誰もが自分の幸福追求を優先できるように世の中が発展してきた影で、子どもを持つ選択は二の次になり、社会を担うべき現役世代はいよいよ先細りしているのでした。
「こうした状況に、俺たちはどうすればいいのか?」市長が言いました。「お前ら役人はすぐに、こうすればイノベーションが起こせます、こうすれば社会の生産性が向上して街の競争力が取り戻せますと、そういうマジックワードを散りばめて経済対策を上申したがるが、しかし考えてもみろ、イノベーションというものが、これまでの人類の歴史においてどうやって生みだされてきたか? 蒸気機関、鉄道、電球・電気、自動車、飛行機、電信電話、ナイロンにプラスチックに、コンピュータ、インターネット、スマートフォン、そして自動運転。こうしたイノベーションがどうやって生まれてきた? いずれも、才能ある技術者が、何の役に立つかも、いつ花開くかも分からない実験に、採算も度外視で没入して、そういう地道な努力を通じて、やっと生まれてきたんじゃないのか? ……生産性の向上だって同じことだ。お前ら役人がペーパーに書く分には“生産性の向上”とたったの六文字かもしれないが、実際どうやって生産性が向上するのか? 生産やサービスの工程をつぶさに見直して、新しい、最新の設備を入れて、最先端の技術者を雇い、人材を再教育する……そうやって企業や社会が地道に取り組んで、はじめて生産性は向上するんじゃないのか? しかし、そのために、一体いくらの投資が必要になる? 今のこの街に、そういう投資を息長く、忍耐強く下支えするだけの余力があるのか?」
そこで市長は、改めて私たちの顔を見つめたのでした。問いかけるように。しかし、私たちの答えなど求めていないように続けてこう言いました。
「……しかし、こんなことを議論して、手をこまねているうちに、状況は待ったなしで悪くなる。少子化はますます進み、人々は年々歳を取り、高齢者の割合はますます増える。だが、少子高齢化に対して、結局、俺たち役所に何ができる? ……“産めよ、増やせよ”と旗を振るのは簡単だ。しかし、この時代にそんなスローガンが実効性を持つか? 誰だって自分の人生がある。子どもを持つとなったら、どう頑張ったって、そいつを大なり小なり犠牲にしなければならない。そんな重たい選択を、この自由意志の時代に市民に強要できるのか? 実際、この数十年、あらゆる施策は空振りで、現役世代の負担は一方的に重たくなり続けてきたじゃないか?」
一瞬、市長が局長の方に視線を向けました。局長は伏目がちに沈黙を守っていました。
「それで、俺たちはどうすればいいのか?」
市長がおもむろに続けました。「……結局、この街には観光くらいしか残された道はないんじゃないか? 観光っていうのは、詰まるところ、先人が保全してきた自然や文化を売り物にすることだ。先人の遺産を元手に商売することだ。そこには、天才的な技術者も、物になるとも知れない試行錯誤の実証も必要ない。ただ“文化”がありさえすればいいんだ。そして、幸いにして、この街には世界の他にどこにもないユニークで、長い伝統を誇る文化がある。もしほんの少しでも、上手い具合に世界に向けてプレゼンできれば、この街には必ず人が集まってくる。集まってきて、ふたたびこの街を潤してくれる。そうすれば街の税収は増える。この先、現役世代にのしかかる負担を多少とも軽減することができる。そして、何より俺たちには一息つくゆとりが生まれる。この街にもう一度、ものづくりを興し、新たな人材を育成して、ふたたび世界を虜にするモノやサービスを生みだして、俺たちの生計を将来にわたって維持しつづけるだけの基盤を取り戻す―そのための二の矢、三の矢となる政策を番えるだけの余裕だって出てくるはずなんだ。……ところが今、俺たちが立ち止まってしまえば、この街は間違いなくじり貧になる」
市長は説き聞かせるようにそう語ると、最後に私の目を見てこう強調しました。
「いいか、俺たちにはこの道しかないんだ」
だいたいこういう次第の長い訓示の末に、私は着任の初日から、イロハニ神社との折衝という新たな仕事に関わることになったのでしたが、実を言えば、あの日、市長の話のすべてに私は必ずしも納得していたわけではありません。特に、イロハニ神社でご夫妻にお仕えした身としては、街の象徴ともいえる存在を単なる食い扶持のように見なす発想には拭いきれない違和感がありました。しかし他方で、市長の晒されているプレッシャーが理解できなかったのかといえば、そうではありません。街のためには何事かがなされなければならない―私自身、この新しい職場で働きはじめて幾日と経たないうちに、そういった切迫感を十分に思い知らされることとなったのですから。
新しい職場では、私は田山さんの隣に席を割り当てられました。田山さんは、この役所に移ってくる直前に三十路を迎えた私よりも三つか、四つほど年上の若手の課長補佐で、聞けば何でも教えてくれましたが、実際にはそれほど頻繁にコミュニケーションをとった覚えはありません。というのも、互いにあまりにも余裕のない生活を送っていたからです。
役所の仕事は、ある意味では、神社の務めに似ているような気がします。ここには、ありとあらゆる市民の願い事が持ち込まれます。生活が苦しい、仕事がほしい、もっと健康でいたい。この現実世界をめぐる実際的で生々しい願い事が、政治家から、メディアから、あるいは直接に市民からこの場所へと持ち込まれ、田山さんや私は、始業から定時まで引っ切りなしに届くメールや電話への対応に追われて毎日を過ごします。ただし一つ、神社と大きく異なることは、ここではそれらの願い事を聞き置くだけでは済まされないということです。きちんと結末を用意できなければ、そのうちに議員先生から呼び付けられて怒鳴られます。
「てめぇら、検討、検討って、いつまで検討してるんだ! この役立たずが!」
実際には、市民の要望をわずかでも実行に移すために、施策の立案、特に予算確保に努めているわけですが、役所では、この予算要求というプロセスに非常に手間暇がかかります。すでにお気付きのことと思いますが、この街は庁舎の光熱費まで切り詰めなければならないほどの財政難です。当然、裁量的に使える予算も限られていて、数多ある施策案でわずかな予算を奪い合うことになります。私や田山さんは、この奪い合いに勝ち抜くために、施策の必要性や、早急に実行に移すべき緊急性をめぐって、誰に何と突っ込まれようとも立っていられるように、時には屁理屈すら駆使して、会計部局との折衝、そして最終的には、予算の承認権限を持つ議会での審議に臨みます。ところが、どんな施策も必要があって要求するわけですから、理屈競争だけでは優劣がつかないことも多々あります。そこで、みんな政治力という梃子を利用すべく、議会に赴き、有力議員からの支持を取り付けて、あたかも市民の多勢からの要望であるかのように自分の担当施策を演出しようと試みるわけですが、この長ったらしいプロセスを経てほんの幾つかの施策を採択することができても、結局、ほとんどの懸案は手付かずのまま、外向きには“検討中”と言って時間を稼ぎつづけることになります。そのため、世間からは絶えず、こんな簡単なことも実行に移せないのか、と厳しい叱責に晒されて、次々と積み上がっていく市民の要望を前に終わりのない焦燥に駆られながら、ストレスフルな日々が続くのです。そして、こうした生活を通じて私自身が実感として理解したところでは、役所というところは、世間から見るよりも、実はもっとずっと無力なのでした。
市長から振られたあの厄介な仕事については、しかし、そうした生活のなかでも何とか前進させるべく、定時後に落ち着いた時間を見つけては細々と進めていったのでした。もちろん、それは第一には、本田局長から、一体いつ市長に復命できそうかとたびたび催促があったからでしたが、しかし神社の宝物について調べる作業がなかなかに興味深く、私にとっては一種の息抜きになったことも事実です。神社で勤めていた間にはついぞ訪問する機会のなかった本殿の脇の大きな宝物庫には、実は創建以来の永きにわたって、街の有力者や慈善家からイロハニ神社に寄進されてきた貴重な美術品が多数収蔵されていたのでした。なかにはこの街の歴史の教科書に必ず掲載されるような最重要美術品もあって、例えば、外夷の襲来を極彩色の躍動感あふれる筆致で描き出した中世の合戦絵巻や、怪しいほどの集中力で鳥や昆虫や植物を生命感たっぷりに写しとった近世の花鳥画は、その一端でした。
ただ、こうした収蔵品の情報とともに、私は気に掛かる事実も発見したのでした。それは、これらの宝物が街の外に貸し出されたことは歴史上一度もないという事実でした。そればかりか、この街の美術館であっても借り受けることができたのは、ほんの数えるほどしか例がなくて、神社の宝物というものはどうやら、ほとんど人目に曝されることもなく、神社のなかで厳重に管理されてきたらしいのでした。
このことが実は大きな障壁として存在することに気付いたのは、本田局長の命で、初めて神社の社務所に相談に出かけた五月のことでした。
その日、私は一ノ鳥居をくぐって、ひと月ぶりに境内に足を踏み入れたのでした。もちろん、お住まいで勤めていた頃に大池を渡って神社の本殿の方に足を踏み入れたのは中秋の大祭の一度きりでしたから、そういう意味では、神社をきちんと訪問したのは昨年の秋以来、半年ぶりというべきかもしれません。
境内は、平日ということもあって閑散としていました。その上、参道ですれ違う参拝客は皆一様にマスクに顔を埋めていて、街に漂う疲れた雰囲気がこの場所にも否応なく侵食してきているようでした。
目当ての社務所は、本殿の隣でした。七十五年前の戦争で唯一延焼を免れた石造りの三階建ての建物で、戦前の建物らしくファサードは今もそれなりの偉容を誇っています。
事前に、局長の遣いで、と申し入れていたからか、応対には社務所の所長自らが現れました。歳の頃、六十代後半から七十代半ばと思わしき白髪の所長は、少々でっぷりとして重量感のある親父然とした人物で、当人の他に二人の職員を率いていました。役所の最高幹部からの頼み事ということで、相手もそれなりに気を遣っている様子が、感染症対策に置かれたアクリル板越しに対面したその愛想笑いに見て取れました。
私は市長の受け売りの言葉で、苦境に立つこの街の将来のために、イロハニ神社の宝物を借り受けたいと説明しました。所長は初めのうちこそ真摯に耳を傾けている様子でしたが、私が喋ればしゃべるほど、口辺に奇妙な皮肉めいた微笑を浮かべていきました。
「それは結局、あの市長流の、新手の選挙戦略ではないのですか? あの人はいつだって、人々の危機意識を煽って選挙に勝ってきたんだから」
とうとう私が仕舞いまで話し終えたとき、所長は冷ややかな口調で言いました。「……つまりは、わたしには、あなたの仰ることがどうもピンとこないのですよ。この街の、一体どこが、苦境にあるというのですか? ……たしかに、近年のこの街は、失われた三十年などと揶揄されて、沈み込むことはあっても、決して浮かぶことのない景気のせいで、ある種の陽気さを欠いてきたことは事実だと思いますよ。しかし、少なくとも経済という点では、仕事を失っても、どんなに生活が立ち行かなくなっても、完璧ではないにせよ、あなたがた政府が手を差し伸べてくれるわけだ。そして、そういうセーフティネットの下で、多くの市民がますます便利になる時代の追い風に乗って、思い思いに自分の好きな生き方を追求してきているではありませんか? ……あなたはお若いから想像もできないかもしれないが、今から七十年以上前、あの戦争が終わってすぐの、それこそ、わたしが生まれて間もない頃は、まだこの街には路上で餓死する人が大勢いたのですよ。その頃に比べれば、われわれはずっと、ずっと恵まれた時代を生きている……端的にわれわれは、この街の有史以来、最も飢え死にする人間の少ない時代を生きているのではないですか?」
とっさに何と答えていいのか分かりませんでした。無意味なこととは知りつつも、私はこちらの要望を少し言葉を変えて繰り返すほかありませんでした。
「わたしの問いかけには答えてくれないのですね」
所長の冷笑が私を見つめていました。
「……まあ、そのことは、とりあえずは置いといてもいいでしょう。しかし、本題に関しては、これだけは申し上げておかなければならない。イロハニ神社の宝物といものは、商売道具ではないのですよ。ここの宝物というものは、様々な人々が社会の安寧や人々の幸福、そういった願いを至心をもって、この場所に、そして神様に奉じてきたものです。その願いを何よりも大切に思って、これまでわれわれは大事に、大事にお預かりしてきた……たとえ戦禍のなかにあっても、われわれの先達は文字どおり身を挺して、ほとんど一つの美術品も欠くことなく、この神社の宝物を守り継いできたのです。そうしたわれわれの思いを知ってか知らでか、あなたがたは唐突に押しかけてきて、得体もしれない外国の人に見せびらかすために、街のためだから貸し出せと仰る。しかし、はっきり申し上げて、あなたがたの発想は、あまりに安直で、貧困なのだと思いますよ……」
イロハニ神社にかなりはっきりとした拒絶反応を示されて、このまま真っ直ぐには職場に報告できないな、と思い悩んでいたその日の晩、私は帰りがけに、不意にタヌキ門に立ち寄りました。半月の夜でした。
私が着いたとき、月はすでに西の空で、月明かりの描く陰翳のなかに、あの古の城門が黒々と重たく沈んで見えました。顔馴染みの守衛はとっくに帰宅した後で、門は堅く閉ざされていました。
“われわれは恵まれた時代を生きている”
闇夜に重々しく突き立っている城門を見上げて、私は所長の言葉を思い返していました。現代という時代は、本当に恵まれているのか? ……生活が苦しい、仕事がほしい、もっと健康でいたい。役所での日々の勤務を通じて、ひっきりなしに寄せられる電話やメールのことをぼんやりと思い出していました。そして、いつの間にか、神様のことを考えていました。あのお住まいで、毎朝、毎朝、人々の願い事に向き合われて、果して今日という時代のことをどんなふうにお感じになっているのだろう?
しばらくそんな物思いに耽ってから、私は城門の向こう、あのお住まいの方へと深く一礼して、帰路に就いたのでした。
翌日、私はイロハニ神社との交渉のあらましを局長まで報告しました。そして検討の結果、あまり日を置かないうちに、今度は局長が自らイロハニ神社に赴くこととなりました。しかし、結論から申し上げれば、この時も交渉は上手くはいきませんでした。神社側は、局長相手にも変わらず頑なでした。ただし、後々の交渉においてヒントになりそうな言質は得られたようでした。「海外の、どんな美術館に貸し出そうというのか、具体的な材料がなければ、こちらも判断はできませんよ」と所長は言ったのでした。
すぐに局長から、具体的なプランを考えてみるように指示がありました。その日から、海外の大どころの美術館を渉猟する生活が始まりました。もちろん、実際に訪ねてみるわけにはいかないので、ネットでホームページを漁って情報を集めるのでしたが。
毎日定時を過ぎて、営業時間中に受けたメールと電話の処理が一段落すると、私はこの作業に注力しました。世界の主要二十都市、合計百近い美術館を私は浚ったのでした。オープンソースでできるかぎりの情報を集めて、その美術館が過去に海外の文化財を扱う展覧会を開いたことがあるか、あるならその時の内容は、あるいは評判は、またどんなポリシーに基づいて美術品を扱ってきたのか、海外から借りたものを傷つけたことはないか否か、……こうした情報を整理してリストにまとめていったのです。もちろん、海外の美術館ですから、言語も異なり、英語だけでは十分に情報収集できないこともありました。そうした際には、商社に勤めていた頃の伝手を頼って、現地に駐在する知り合いに問い合わせるようなこともしたのでした。これだけでも結構な作業量でしたが、私の作ったリストを基に、ほぼ三日に一度のペースで開かれた局長以下の検討会にも対応する必要がありました。定時過ぎから、時には終電近くまで、局長室の検討テーブルに私をはじめ四、五人の同僚が着いて、どの美術館ならイロハニ神社が受け入れられそうか、過去にイロハニ神社が開催した宝物展の内容と引き比べて具体的な提案を検討していったのです。
当初はこうした検討作業だけでも非常に忙しかったわけですが、しかし私には、この具体的なプランの提示だけではイロハニ神社を十分に納得させられないことも分かっていました。……この街の、一体どこが苦境にあるというのか? あの時、所長が口にしたこの疑問に正対しなければ、結局、理解は得られないように思ったのです。
こうした問題意識で私が独自に取り組んだ、もう一つの作業―それは、この街の“失われた三十年”を振り返ることでもありました。実際、私は、着任の初日に伺った市長の現状認識を基本線として敷衍して、次のようにまとめたのでした。
今から三十年以上前―私が生まれるよりも少し前のことです―、この街には世界のものづくり王国と謳われた時代がありました。今でこそ、街の輸出品には自動車以外に見るべきものはないのですが、三十年前は自動車以外にも、テレビ、パソコン、冷蔵庫などの家電一般、そしてあらゆる工業製品に欠かせない半導体、こうしたもののすべてにおいて圧倒的な技術力を背景に世界のトップシェアを独占していたのでした。
この時代には、この街の誰もが、そう遠くない将来に自分たちの街が世界の中心になるに違いないと自信を深めていました。そして、やがては世界中のヒトやモノが流入して地価が高騰することを見越して、街中の不動産を買い漁りはじめたのでした。この時代、投資は投資を呼びました。この街にマネーを投ずれば、銀が金に変わり、金がプラチナに変わる―そうした幻想が街を覆っていました。
しかし、実態はどうだったでしょうか? この街が熱狂に浮かれている間に、工場はますます上がる人件費や地代を嫌って海外へと逃げ出しました。海の彼方のライバル都市では、次の時代の覇権を見据えて、新たな技術の開発が静かに進められていました。そして、この熱狂が始まって五年が経とうとするある日、とうとう誰かが気付いたのです、この五年間、この街は一体何を生み出してきたのだろうか、と。
それが、熱狂が泡のように弾けた瞬間でした。地価が途端に十分の一になりました。将来の地価の値上がりを当てにして、不動産を担保に繰り返された借金は、一気に首が回らなくなりました。人々は破産し、企業は倒産しました。誰もが自分の生活を守るために財布の紐を絞り、消費は低迷しました。
当初、政府は、この危機は一過性のものに過ぎないと信じ込んでいました。世界ナンバーワンの街がこんなことで没落するはずがない、三年も経てば元通りになるだろう。政府は大量の市債を発行して、その借金を元手に経済対策の名の下で街中に金をばら撒きました。みんなの手元に余裕が戻れば、自然と人々の消費も増え、それに伴い企業も新たな工場を建てて設備投資を増やし、景気もすぐに回復するだろうと楽観的に見積もっていたのです。ところが、すべての対策は空振りに終わり、景気が上向くことはありませんでした。
実は、この十年余り続いた低迷の時代には、もっと根本のところで社会が変わりつつあったのです。人々は以前の熱狂の時代のようには、自分たちを過信することはありませんでした。だから、たとえ政府が金を配っても、将来の危機の可能性に備えて慎重に支出しましたし、それに何より、この街が得意としてきた工業製品が世界の市場ではすっかり売れなくなっていたのです。街が熱狂にあった時代に技術力を増してきた海外の工場が、良質な製品をより安価に供給しはじめていました。おかげで、街の企業の売上は頭打ちで、人々の給与も上がらなくなりました。そして、人々は一向に増えない給与のために一段と生活防衛に走ったので、街の企業も安価にモノを供給すべく、ますます工場を海外に移転させて、それが街のなかでは一層のリストラを招いて、人々の生活をさらに困窮させたのでした。この負のスパイラルのなかで、この街のものづくり王国は根底から瓦解していきましたが、この時代にはもう一つ、人々の意識も根本から変わりつつありました。長引く低迷のために、誰もが自分の生計の維持に手一杯で、家庭を持つだけの余裕を失っていました。このことが良くも悪くも社会の価値観を変えたのです。子どもを持つ人生がすべてではない―子どもを持たない生き方が当たり前に存在するのだということを人々に悟らしめて、多様な価値観と呼べば聞こえは良いのですが、あえて負の側面のみ取り上げれば、少子化はいよいよ不可逆となったのでした。
こうした状況変化にようやく気付いて抜本的な改革が試みられたのは、今から二十年ほど前、“構造改革”を旗印に当選した市長の時代でした。この市長の施政下では、文字どおり“聖域なく”街の歳出が見直されました。旧態依然とした産業への補助金が打ち切られ、過疎地域への支援は大幅に減らされて、年金や医療費の公助は可能なかぎり圧縮されました。おかげで納税者、特に勤労世帯の税や社会保障の負担は平準化され、未来への期待に景気は小康状態を取り戻し、ある意味では、超高齢化社会に至った現在でもこの街が破綻せずに済んでいるのは、この時の改革のおかげとさえ言えるのかもしれません。しかし他方で、この劇的な改革により、それまで当てにしてきた公的な支援を失い、突然、生活の基盤を奪われて市場の荒波に突き出された市民の怨みには凄まじいものがありました。
政府は市民に負担を押しつける前に、まずは自らの無駄を徹底的に削るべきではないのか?―識者のみならず、一般市民の誰もかれもが物知り顔で、無駄の撲滅や賢い支出などと口にしはじめたのも、ちょうどこの頃からのことで、いまだに無駄の削減や撲滅という言葉は政治標語として一定の人気があります。しかし、“無駄”とは、現実には多分に価値判断を含むものです。ある人には生活に欠かせない公的な給付が、その恩恵を受けることのない人には無駄に見えます。事実、この街の予算のほとんどは、市民の誰かしらへの給付です。ちょっとマニアックな話かもしれませんが、現状、街の予算の半分は社会保障の経費です。ここには、年金の原資、医療費の公助、過疎地域への支援金が含まれます。そして残り半分のうちの半分、つまり全体の四分の一は市債の償還と利払い、要するに街の借金の返済に当てられていて、残る四分の一が公共工事や義務教育、公務員の給与など市民全体へのサービスに掛かる経費に充当されます。この中から果して何を無駄として削るのか? 前述の構造改革の市長が勇退した後、この街はこの問題をめぐって、六年の間に六人もの市長が議会の不信任決議を受けて交代するという未曾有の政治的混乱に陥りました。しかし、その結果、削減できた“無駄”といえば、公務員の給与、役所や公共施設の光熱費のほか、科学の基礎研究への補助金や海外の街との交流に要する経費など、普通の市民生活にとっては一見無縁なように思われるものが盛んに槍玉に挙げられて削られたのでした。それから十年と経過していない現在、この街では公務員の志望者が減り、技術力の減退には歯止めがかからなくなって、近隣の街からは足元をみられて対外交渉力は低下の一途を辿っています。他方で、こうした“無駄”の削減によって得られた予算は、高齢化の進展に伴い―この街では、これまで打ち出されたどんな施策もほとんど功を奏することのないまま、市民の平均年齢がすでに五十歳に達しているのでした―急激に負担を増している社会保障支出の、その一年間の増加分すらも補い得ていなかったのです。
もちろん、こうした状況に、市長も、役人も、議会のあらゆる政治家でさえも、気が付いていないわけではありません。しかし、誰もが市民の怨みを恐れていました。かつて市民の怨みを買って毎年のように市長の首が飛ぶ未曾有の政治的混乱を招いたトラウマが色濃く残っていました。市民に新たな負担を強いて怒らせてはならない―まさにこの一点で、あらゆる政治家の利害は一致していたように思います。事実、毎年ものすごい勢いで増えつづける社会保障支出を賄うために、外向きには無駄の削減を徹底すると言いながら、実際には、瀕死の病人にカンフル剤を打ちつづけるように莫大な市債を発行しつづけてきました。おかげで、市債の残高、つまりこの街の負債の総額は、現在、その税収の二十年分にまで積み上がっています。これは例えて言えば、五十代になってもなお年収二十年分のローンを抱えた人が、親の介護も含めた日々の生活費を賄うために毎年、毎年借金を重ねてつづけているようなものです。しかも、この人物には、ローンの返済に充てられる退職金のような、まとまった金はなく、生計を維持するには、生活を切り詰めるか、これまで以上に効率的に働いて稼ぎつづけるか、この二つよりほかに道はないのです。
こんな状態にもかかわらず、毎年議会では、市長も議員も根本的な解決策を見出せないのでした。見出そうとすれば、結局は、市民の多勢に大きな負担―給付を切るか、税率を上げるか、はたまた市民を奴隷のように働かせて、税収を上げるか―を強いる是非について出口の見えない議論にはまり込むことになる。みんなそのことが分かっていて、まるで口裏でも合わせたかのように、この借金問題に軽く言及することはあっても、巧妙に深い議論は避けて、あたかも議場にいる全員が、この期に及んでもまだ市債に買い手が付くという奇跡の一点に暗黙理にしがみついているような具合なのでした。
もちろん、こうしてある種のカンフル剤を打ちつづけてきたからこそ、今が単に恵まれた時代であるかのように人々の目を欺き、社会は表向きの平穏無事を装えてきたとも言えるのでしょうが、しかし、それにしてもなぜ、この街はこんな状況にあっても破綻しないのでしょうか?
これは完全なる私見ですが、思うに借金というものは、貸し手が貸した金について、いずれは必ず返ってくると信じているかぎりは、借りつづけられるものなのかもしれません。ある意味では、市長のいう観光振興というのも、その貸し手の信用を繋ぎ止めるための一つの方便なのでしょう。つまり、この街にはまだまだ稼ぐ手立てがあって、と貸し手にアピールするための一つの手段として観光振興があるのです。しかし、仮にその方便が崩壊したとしたら、どんなカタストロフが待ち受けているのでしょうか? 例えば、大きな地震に襲われたとしたら……、いや、あるいは、もっと単純に、この先経済が停滞して、もはやこの街は自力で稼ぐことはできないのではないかと誰からとなく疑いはじめたら……
イロハニ神社との交渉に当たった四ヶ月余りは、毎日こんなことを悶々と考えながら、街の現状に関する資料をまとめたのでした。もちろん、先にお話ししたように神社に提示する具体的なプランの検討と並行しての作業でしたから、この時期は本当に、猫の手も借りたいという慣用句が冗談に思えないほど忙しくて、帰宅はどんなに早くても終電、遅いときは局長室のソファで仮眠して、朝、職場の簡易施設でシャワーを浴びてから仕事を続ける―そんな生活を送ったのでした。実際には体調こそ崩すことはなかったわけですが、当時、腕や下肢の節々に赤い斑点が出て非常に痒かったことを覚えています。作業していた間は、夜八時になると強制的にエアコンの切られる蒸暑い執務室で真夏に勤務しているためにできた汗疹だと思っていたのですが、今にして思えば、過労とストレスゆえに吹き出した蕁麻疹だったのかもしれません。
『イロハニ神社の秘宝展inロンドン、ニューヨーク&シンガポール』について、神社との間で大筋の合意に至ったのは、秋も半ばの十月のことでした。私がこの件に関わるようになって、すでに半年以上が過ぎていました。
その日、私は、市長と神社の大宮司との間で取りかわされた、宝物の貸出しに関する聖書のように分厚い署名入りの契約書を卓上に据えて、ある種の満足感に浸りながら残務処理に当たっていました。すでに定時を回って久しく、職場は私と田山さんを残して、みんな帰宅した後でした。
イロハニ神社の案件が片付いて不要になった書類を書架に戻すとき、たまたま田山さんの後ろを通りかかることがありました。例年夏から秋にかけては議会が閉会するので、職場全体が落ち着くのですが、そういうなかで神社の案件に積極的に関わってきたわけでもない田山さんがこれほど夜遅くまで残業しているのは少し不自然でした。思わず気になって、通りざまに覗きみると、卓上のノートパソコンは開かれているものの、作業をしているふうではありません。しかも、私が背後を通りかかったのにも全く気付かない様子で、熱心に手許のスマホに目を凝らしています。
“GoodJob ”
普通サイズよりひと回り大きい田山さんのスマホの画面に、最近になって海の向こうの街から上陸した転職サイトのロゴが大写しになっているのが見えました。
不意に田山さんが振り向きました。そして、慌てた様子でスマホをひっくり返して、はにかむようでしたが、相手が所詮は私だと知れて安心したのか、今度は打って変わって皮肉な調子で、スマホを表に返すと、こちらに突きつけるようにして言いました。
「鳥居橋さんは、転職しないの?」
しばらく、私たち二人の間に沈黙がありました。部屋には他に音を立てる者もなく、二人の沈黙が長く重苦しく感じられました。
「率直に、僕は絶望してるんですよ」と、ふたたび口を切ったのは田山さんでした。「カジノに次いで、今度はこれですか、ってね……」
ここで一つ解説を加えておけば、田山さんが言及したカジノというのは、市長肝入りの観光振興策の一つとして企画されていたカジノリゾートの建設を指しています。私が直接関わっていたわけではないので、できるかぎり評価を交えずに事実だけをご説明したいと思いますが、万国展の終了後、海沿いの埋立地にある会場の跡地は、カジノを併設した総合リゾート施設として再開発される予定でした。そして、そこではこの街を訪れる外国人観光客を相手に政府がカジノの胴元になって、賭博の利潤を街の財政に還元する計画なのでした。
「鳥居橋さんは、おかしいと思わないんですか?」
ふたたび二人の間に沈黙がありました。けれども、今度はそれほど長くはなくて、すぐに田山さんが私の反応を探るように言葉を継ぎました。
「この何ヶ月か、あなたが一所懸命にやってきたことは知っているから、失礼かもしれないけれど、でも、……イロハニ神社は、僕らの街のシンボルなんですよ。その宝物すらも引っ張りだして外人に媚を売らなきゃならないほど、この街は追い詰められてるんですか? 情けなくないですか? ……しかも、あなたは、あの神社で働いてたわけでしょ? おかしいと思わないんですか?……」
私は変わらず黙っていました。田山さんが続けて言いました。
「そもそも、そんなものにまで手を付けて、それで少しでもこの街がマシになるって本気で思ってるんですか? ……僕も、鳥居橋さんが街の現状をまとめた資料を見ましたよ。今の危機感を伝えるために上手く整理したつもりなのかもしれないけれど、でも、その資料をまとめた他ならぬあなた自身が、本当は誰よりも気付いてるんじゃないんですか? “万国展を経済の起爆剤に”……そんな小手先の施策、本当は何の意味もないんだって。政治家は口を開けば、経済成長をカミカゼか何かのように吹聴するけれど、そんなもの、本当は何の解決にもならないんだって。……だって、あなた自身、資料に書いてたじゃないですか、この街は世界で最も厳しい高齢化に直面している。六十五歳以上の高齢者は来年にも総人口の三割を超える勢いなのに、未成年はその半分の十五パーセントをすでに切っていて、誰がどう見たって、この社会は右肩下がりだ。しかも、その社会を、残された五割ちょっとの僕ら現役世代で背負っていかなくちゃならない。人一人が満足に生きていくのだって決して楽じゃないこの時代に、この街では、僕らが社会に出たその瞬間から、みんな僕らの稼ぎを当てにしはじめる。じいさんばあさんが病院に行く金も、彼らが日々暮らしていく年金という名の生活費も、子どもを教育にやる、その金とあわせて、みんな僕らが稼いで補ってやらなくちゃならない。そんな状況下で、ちょっとやそっとの経済成長が、果して僕らにとって、いや、僕ら現役世代にとって、そしてこの街の未来にとって、何の足しになるっていうんです? ことごとく社会保障に充当されて終わりじゃないですか? 結局、この街が今日、明日を食いつなぐために費消されて、それで終わりじゃないですか?」
そんなふうに噛みつかれて、私はすぐ反論してやりたい気持ちにはなりましたが、他方で、田山さんの言うことを全面的に否定する気にもなれなかったことも事実です。実際、私の脳裏にまず浮かんできたのは、自分の先月の給与明細のことでした。これまでお話ししてきたとおり、イロハニ神社の一件に取り組んでいた間は、以前のどんな勤務よりも段違いに労働時間が増えたのでした。ですから、給与が大幅に増えて当然……そう思っていた私には、先月の給与は意外すぎるほど手取りが増えていませんでした。さすがに不審に思って、明細をよくよく見てみると、税金と社会保険料の欄がほとんど桁が変わらんばかりに膨らんでいます。試みに、ちょうど一年前、イロハニ神社で働いていた頃と比較してみると、額面で増えた分のほとんど半分近くが、税金と社会保険料の天引きで消えています。もちろん、それだけのお給料をいただいたからではあるのですが、ここ数ヶ月、全身に蕁麻疹のような発疹が出るほど働いてきたことを思うと、一体、何のために働いてきたのかと、どうしたって一抹の徒労感が心を掠めます。元よりこの街には、私よりも稼ぎが多くて、日頃から似たような思いを悶々と抱えている給与所得者だって結構な数いるはずなので、率直に何とかならないのかとも思うのです。しかし、現下の財政状況では、私たちの稼ぎがなければ、この街はあっという間に立ち行かなくなる―それもまた事実です。ですから、結局のところ、他にどうしようがあるというのでしょうか?
「まわりの街を見てくださいよ」と田山さんが言いました。「世界には、この街と同じように高齢化に悩まされている社会はたくさんあるのに、この街ほど市債を山塊のように積み上げて、にっちもさっちも行かなくなっている社会は一つもない。それは、なぜなのか?」
田山さんが皮肉に笑って続けました。「この街にいると、誰でもすぐ『政府が、』と口にしたがる。日曜の朝に報道番組をつければ、テレビのコメンテーターがしたり顔で『政府が、政府が、政府が何とかすべきだ』と喚いている。まるで『政府が、』と口にしておけば、コメンテーターとしての最低限の役割は果したと言わんばかりに。……もちろん、そういうことは仕方のないことなのかもしれません。そもそも僕らの文明っていうのは、自分のやりたくない仕事を体よく他人に押しつけることで進歩してきたんだから。貨幣経済を太らせて、金で他人の力を買い取ることで、僕らは今や、食料でも、工業製品でも、その生産工程の最もえげつない場面を見ることも、知ることもなく、他人に苦労を引き受けさせることができるんだから、その驕りの中で物を言うことが板に付いていたって仕方のないことです。……けれど、ちょっと踏みとどまって考えてみてほしいんですよ。僕ら政府は、打出の小槌では決してない。賺して、叩いて、脅しつけて、目いっぱいに振りまわせば、何でも望みどおりにできる打出の小槌じゃないんです。……そもそも政府の原資は、他人様の金ですよ。政府に何とかしろって要求することは、詰まるところ、自分の欲望を他人に押しつけてるのと変わらない。この街には“政府”という何人からも独立した主体が存在するんじゃないんです。それは僕ら自身であり、僕らの家族であり、僕らの隣人であるものの集合体に過ぎないんですよ。だから、どんなに欲望を押しつけられても、本当は自分たちの身の丈以上のことはできないはずなんです。……ところが、この街では、そういう集合体であるはずの政府が、本来、ない袖は振れないはずのところを借金を重ねることで誤魔化してきた」
一瞬、間を置いてから、田山さんが言葉を継ぎました。
「……実際のところ、僕らは、あまりにも高度に他人に依存しすぎているんですよ。政府というものを介して、自分が一体誰に依存しているのか、いやそもそも自分が依存していることにすら気付かないくらい複雑に、僕らはこの自分自身を含めた“他者”の集合体に依存して生きている。おかげで僕らは、最低限の税金さえ払っていれば、自分はたった一人で生きていける、そういうふうに錯覚して生きていけるんですよ。……かつて、いみじくも、この街の連中は水も安全もタダだと思ってる、と言った評論家がありましたが、今や人々が実質“タダ”だと思っているのは、水や安全だけじゃない……例えば、医療だってそうですよ。この街では、誰でも、どんな経済状態にある人でも、自分の必要とする治療が安価に受けられる。なんたって、政府があらゆる市民の死のリスクを低減するために、少なくとも医療費の七割を補助してくれるんだから。しかも、そのサービスの質が決して安かろう悪かろうに堕することのないように、政府が需給のバランスをチェックして治療の値段や医者の数までコントロールしている。けれども、そんな仕組みを理解してる人がこの街にどれだけいますか? これほど過保護に生きてきて、みんな蛇口をひねれば出てくる水みたいに、安く治療が受けられることが当たり前だと思ってる……誰がどれだけの負担をして、どうやって維持しているのか、そんなことを考えてくれる人がどれだけいますか? みんな自分がどれだけ医療サービスを乱費していても、この街では決して気付くことがないんだ。……けれども、そんな状態がいつまで許されるのか? 積み重ねた借金だって、いずれは取り立てがくるのに……」
しかし、そんなことを役所でぼやいていて、何になる? 私はだんだん相手の長口上に苛々としてきて、そんなふうに思いました。現実には、この街では、みんな自分の目の前の生活のことで一杯いっぱいに暮らしています。その中で、もっと社会全体の趨勢に目を向けて状況を察してくれ、と主張してみたところで、おまえは役人なんだから、世の中が良くなるように知恵を絞れよ、と一顧だにされずに受け流されるのが関の山でしょう。
そんなことを考えながら、私は皮肉を込めて口を挟みました。
「要するに、田山さんは、みんなに病院に行くなって言いたいんですか?」
「僕は、そんなことが言いたいんじゃない!」と田山さんがむきになって反論しました。「いつだって誰かが何とかしてくれる……そう思って、真のコストを知ろうとも、理解しようともせずに、ひたすら他人のサービスにのしかかっている、その精神こそが問題だって言ってるんですよ! このままダラダラ、ダラダラと今の状態を続けていて、みんなの病院通いを支えるために、現役世代自身の生活が苦しくなったら、それこそ本末転倒じゃないですか」
私たちは睨み合うように押し黙りました。
ふたたび口火を切ったのは、私の方でした。
「だったら、田山さんは、要するに僕らにどうしろって言うんですか! 今のやり方を止めて、それで他にどうしようがあるって言うんですか!」
「ぶった斬るんですよ!」田山さんが怒鳴り返すように答えました。「破局に至る前にことごとく、ぶった斬るんですよ! どうせこの街が破綻したら、年金は削られ、医療公助は無くなり、公務員は馘になって、ありとあらゆる公共サービスが止まるんだ……その時初めて、誰も手を差し伸べてくれない窮境に気付くよりは、今から“自分の面倒は自分で見る”、この当たり前の哲理に馴らしておくがいいんだ……まだ余力のある今のうちに、みんなが当然に思ってるものを削れるだけ削って、社会が現役世代を、そして、この街の未来を食い潰してしまう前に!」
「しかし、そんなこと、できるわけがない」
私は呻くように言いました。
「社会保障っていうのは、みんなの生活に紐付いてるんですよ、医療も、年金も。それに僕ら自身の生活だって、いろんな形で不安定になる。失業したって、ろくに給付も出せないなんてことになったら、この街の社会はちょっとした不景気の波にも耐えられなくなる……」
「そう、できるわけがないんですよ!」
その時、田山さんが鬼の首を獲ったように叫びました。
「それこそが僕らの問題なんですよ! 考えてもみてくださいよ、社会保障を削って最も損失を蒙るのは誰ですか? それは僕ら市民だ! ところが、この街で最も権力を持っているのは誰ですか? それは市長ではない。議員でもない。ましてや役人なんかでは絶対にない……それは僕ら自身ですよ、政治が曲がりなりにも市民の意思を映しだすこの偉大な民主主義社会では、それは主権者たる僕ら自身ですよ! とりわけ、僕ら現役世代の立場からすれば、それは高齢者ですよ! 今や総人口の三割、全有権者の三分の一以上を占めるに至った、彼ら六十五歳以上の欲望ですよ! ……市民が自分の権利利益にしがみつくかぎり、この街も変わることがない! ところが、現実には、政府が案配できるはずの権利利益は、あらゆる市民の声に目配りして薄く広く分配せざるを得ないから、原資がいくらあっても足りず、その原資を背負わされている現役世代の負担も一向に減ることがない。他方で、最大受益者であるはずの高齢者も高齢者で、老いを迎えて彼ら自身の必要に追われていて、しかも厄介なことに、今の過保護な公的サービスは、完全に所与のものとして、僕らみんなの生活の隅々にまで組み込まれている……実際、医療も、年金も、失業給付でさえも、削ろうとすれば、みんな当然のようにこう言うでしょう、今さら何を言ってるんだ、と。……そう、今さら、三十年後、四十年後、それこそ現役世代が老後を迎える日のために、みんなに年金を手離せと言えますか? 否ですよ、否! それこそ、さっきあなたが言ったように、みんなに医者に行くなと言えますか? 否ですよ、否! ……その負担を背負う現役世代の状況が、たとえどんなに悲惨になっても、誰もが当然のこととして言うでしょうよ、今さら、ふざけんな、って。そして、その“ふざけんな”の構造が世代から世代へとわたって順ぐりと先送りされていく。……しかし現実の問題として、現役世代は、このまま社会を支え続けることができるのか?……支えるための資力と、支えようとする気力の両面で」
田山さんはじっと私の方を見て、それからぼそりとこう続けました。
「……僕らはきっと、これから先もずっと、同じような問いかけを何度も、何度も繰り返すことになるでしょう。しかし、そうしているうちに、少子化の進むこの街では、現役世代が一人、また一人と消えていく……もはや市民の平均年齢が五十歳を超えていて、人口の過半が人生の折り返しを過ぎたこの街で、果してどんな打つ手が残されているというのでしょうか? 老いた有権者ばかりで、まさに構造的に、どんどん、どんどんと近視眼的になっていくこの街で、一体どんな変化が期待できるというのでしょうか? 誰もが根本的な解決策を何も見出せないままに、老いた触手が容赦なく、現役世代の稼ぎ、現役世代の蓄え、そのほか現役世代の懐のありとあらゆるものに向かって伸びてくる。その触手を必死で振り払おうと足掻いているうちに、今度は、他ならぬ現役世代自身が高齢者になるんですよ、自分たちよりも若い世代を敵に回してね。……でも、そういう自分たちの未来のことを、この街の人たちはどれだけ真剣に考えているんでしょうか?……」
そう言って、田山さんはうつむいたのでした。
田山さんが立ち去った後、私は一人残された職場を戸締りして、帰りの電車に乗りました。終電間際の地下鉄は、すべてがくたびれて見えました。
“おまえの仕事に何の意味がある?”
あの晩、田山さんが言わんとしたことに、本当は私だって、気付いていなかったわけではないのです。この街には、もっと真剣に向き合わなければならない、もっとずっと本質的で根本的な問題がある。……しかし、実のところ、自分は役所で何をしているのか?
この数ヶ月、目先の仕事に追われているのをいいことに、この問いかけに正面から向き合ってこなかったのは、一種の自己欺瞞だったのかもしれません。しかし他方で、それが私にとっては心の衛生を保つように作用してきたことも事実です。この街の抱える構造的な宿痾の大きさや根深さを思えば、この街はどう見たって、沈みゆく泥船です。こんな状況下では、役所にはもはや、市民の不平不満を一身に浴びながら、市民の利得を削りつづける、そんなある種この街の店仕舞いみたいな仕事しか残されていないのじゃないか? そして、未来について展望を描こうとする役人の試みのことごとくが、実は小手先の術に過ぎないのじゃないか? 実際、私の担当したイロハニ神社の宝物の一件みたいに、この街の資産を切り売りするような無理をして何の益になる? この街が没落しつつある事実を取り繕ってるだけじゃないか? 自分たちの仕事の意味を真剣に理解しようとすればするほど、そうした疑問が沸々ふつふつと湧いてくる……そういう意味では、私だって、役所を辞めようとする田山さんの気持ちが分からないわけではなかったのです。
けれども、自分たちは危機の存在に気付いていながら、勝手に瓦解すりゃいい―そうやって投げ出してしまうのであれば、それは役人として、あんまりに誠実ではない。私の心のどこかには、そんな思いもあったのでした。
改札を抜けると、私は何だか無性に悔しくて、独りでにあふれ出す涙がこぼれないように夜空を見上げて歩いていきました。にじんだ視界の真ん中に月が映っていました。その晩は見事な満月でした。ちょうど一年前、あの金木犀の大祭の夜に見たように、月は万象を受け止めて白銀に輝いているようでした。
しばらくその輝きに導かれて歩いていくと、私は紛れもないあの香りに気付いたのでした。家路を辿って住宅街に入る角を曲がったとき、その芳香はますます力強く薫ってきたのでした。
それがどうやら私の暮らすアパートから薫ってくるらしいことは、アパートに近付くにつれ、まず間違いのないことのように思われました。香りは、どんどんと匂い立つように私の元へと流れてきました。そして、とうとうアパートのエントランスの自動ドアを抜けたとき、私はそれがエントランス脇の集合ポストから漂ってくることに気付きました。まさかと思って、自分の部屋のポストを開いてみると、強く甘い、あの独特な芳香が一気にあふれ出てきました。去年、大祭の翌朝に、大池の方へと一斉に吹き散らされていった、あの金木犀の香りでした。
私は郵便物を確かめました。デリバリーやリサイクル業者のチラシ、地元の政治家の選挙ビラ、その他いくつかのダイレクトメールに紛れて、宛名も、差出人もない真っ白な封書が一通、挟まっていました。香りはそこから発していました。
自分の部屋に戻ると、私はおもむろにその不思議な封書を開きました。中には、金木犀の香りを焚き染めた便箋が一枚、納められていました。そして、そこにはたった一言、こう書かれていました。
“置かれた場所で咲きなさい”




