奇跡
“誠意”―あの時、執事長は、誠実に神様に尽くすようにとこの言葉を用いたわけでしたが、実のところ、このお住まいで誰よりも誠意の人は、他ならぬ神様ご自身でした。少なくとも私の在任中、どんな些細な事柄であっても、神様から「ありがとう」とのお言葉をいただかない日はありませんでしたし、しかもそのお言葉は必ず相手に正対して発せられました。
例えば、初夏のある日のご散策の折のことです。夏が迫り、陽射しが急激に強まっていくこの季節になると、神様は決まってご散策に麦わら帽子をお使いになりました。黒い掛け紐のついた帽子で、かぶるときはその掛け紐をしっかりと顔に添わせてお締めになります。そして、そのことがいつもちょっとした問題を引き起こすのでした。
折しもこの季節は青葉が繁茂する頃合いで、ご散策の途次に、庭木の剪定に当たる庭師たちに遭遇することがありました。そうした時は、神様は例によって、しっかりと相手に向き直って感謝の意を込めて会釈なさいます。けれども、律儀にも麦わら帽子を脱いで会釈なさろうとするので、あの掛け紐が必ず耳に引っかかって邪魔になるのです。多少もたもたする空白の時間が生じて、庭師の方も一瞬戸惑ったように間合いをはかってから、ようやく脱ぎ切った麦わら帽子を胸元に抱えてぺこりと会釈なさる神様に深々とお辞儀を返します。そのご様子を、傍らから奥様が頬笑ましげにご覧になりながらも、いつも決まってこう仰るのでした。
「なにも毎回、毎回、そんなに丁寧になさらなくてもよろしいのよ。神様のお気持ちは、皆さんもちゃんとご存知なんですから」
それでも、どんな職員にとっても、自分の働きがきちんと感謝されていると感じることくらい嬉しいことはありません。毎度のことではありながら、いつも庭師たちの表情には、ぼんぼりに灯りが灯るように、ぽっと明るいものが萌すのでした。
お側でお仕えしていると、こうした神様の律儀さや誠実さに感じ入ることがしばしばでしたが、もう一つ、忘れがたいエピソードがあります。
今度は夏の盛りの、やはりご散策中のことです。その頃の夏は、地球沸騰時代と例えられる昨今とは違って、まだ気温が体温を上回るようなことは少なくて、わずかな外出で全身が火照るような、ここ最近の暑熱と比べれば、ずいぶんとマイルドでしたが、それでもこの街の連日の蒸し暑さには辟易とさせられたものでした。もちろん、ご夫妻がご散策にお出ましになるのは夕方ですから、その日も少しは涼しい夕風も吹きつつありましたが、やはり一歩外に出た途端に全身が汗水漬くになるような状態が昼からずっと引き続いておりました。
「今日もずいぶんと暑いわね」と奥様が黒い日傘を開いて仰います。
「夕方になっても、まだ30℃近くございますよ」と私が応じます。「今日で五日連続の猛暑日でございます」
「あら、このところの暑さは本当に困ったものね」
「ええ、全く」
私は奥様の仰せにちょっとばかり気を良くして、続いて、ついこう軽口を叩いたのでした。
「いっそ夏など、なくなってしまえばいいのですが」
その時、神様が急にくるりとこちらを振り返り、たしなめるように苦笑なさいました。
「たしかに、あまりに暑過ぎるのは困りものですが」と額の汗を拭いながら、神様は続けてこう仰られたのでした。
「しかし、夏というものがなければ、この街の四季は今ほど豊かではなかったかもしれませんよ」
さて、こうしてあれこれと当時を振り返ってみると、今でもふとした瞬間に浮かんでくる、私の記憶に鮮やかないくつかのお姿があることに気付かされます。
その一つが、五月のゴールデンウィークを過ぎた、ある晴れた朝のことです。その日、朝のご日課に神様が普段よりも少し早くいらっしゃることがありました。私が執事長とともにご夫妻に続いて応接室に入ると、神様は真ん中のテーブルをそのまま通りすぎて、真っ直ぐに張り出し窓へと向かわれました。そして窓際でレースのカーテンの裾を少しばかりおめくりになると、おもむろに私の方をご覧になって仰いました。
「あれはアケボノスギという樹でしてね」
カーテンの向こうはどこまでも鬱蒼とした森が広がっているのかと思っていたら、手前に古さびた煉瓦造りの倉庫のような赤茶けた建物が目に留まりました。そして、その所々を蔦に覆われた赤煉瓦の地肌の壁の傍らに、一本の巨木の幹が見えました。
「とっくの昔に滅びたと言われていて、化石しか見つからなかった植物が、大陸の方ではまだ生き残っていましてね。この樹の種が発見されたときに、街の人々が皆で大陸から苗木をもらってきて、こちらに贈ってくれたのですよ」と神様は懐かしそうに仰いました。「苗木がここへ来たのは、あの戦争が終わってまだ間もない頃でしてね。あの頃はまだ、今からは想像もつかないほどに、この街は貧しかった」
神様は目を細めて、ご自身の腰丈くらいをお示しになりました。
「そう、あの頃は本当に、こんなに小さかったのですよ」
しみじみとそのように仰って見上げられた先、お庭のアケボノスギは天頂に向かって真っ直ぐにそびえていて、もはやお住まいの掃き出し窓からは、その全景を望むことはできないのでした。
ちょうどそのアケボノスギのお話があった日と同じ日の午後、奥様からお召しがありました。リビングにお伺いすると、その日からは夜、執事が神様のお話し相手を務めるように、との仰せでした。
こうして私は週に一度、宿直の日に、神様が夕食を終えられてお休みになるまでの一時間ほどを、お話し相手としてお側で過ごすこととなりました。
しかし、なぜ突然にあのような仰せがあったのか。理由は今もはっきりとは分かりませんが、おそらく巷で流行りはじめた未知の疫病の影響をご考慮いただいてのことではなかったかと思います。後ほど詳しくお話しすることとなりますが、あの疫病が拡大し、人々の行動が大きく制限されるなかで、それまで年に数回は計画されていたご夫妻のお出ましの機会もすっかり失われてしまったのでした。しかし、前にも少しお話ししましたが、ご夫妻のお出ましに向けた事前の調整や準備は、執事にとって最も主要な任務です。ですから、感染症の広がりとともに、この重要な仕事が私の日々の業務からすっぽり消滅してしまった。その埋め合わせに―今にして思えば、奥様には、そういうお考えもおありだったのかもしれません。
それにしても、その新しい仕事は、それなりの緊張を強いられるものであったことも事実です。特に初回はどのようにお話し相手を務めたものか想像もつかなくて、結局、いろいろと悩んだ末に、私は話のネタを探しにお住まいの地下書庫へと降りてみたのでした。
地下書庫はお住まいの最深部、地下二階にあって、古代から現代まで、神様の一族にまつわる長い歴史の巨大なアーカイブを構成しています。そこは滅多に人の立ち入る場所ではなくて、入口の防火扉のような重たい鉄扉を引き開けると、むわっとカビ臭い空気が漂い出てきます。書庫の電灯は入口を入ってすぐの右手前にスイッチがあって、それを点ければ入口から順々に天井の蛍光灯が奥へ奥へと灯っていきます。そして、ちらちらと灯る薄闇の向こうに、一直線の、無機質な長い通路が現れます。
通路の左手は、可動式の書架です。合せ鏡の鏡の向こうの世界のように書架がどこまでも連なっていて、入口から奥へと順に現代・近代、近世、中世、そして古代と万巻の資料が収められています。
私はそのうちの手前から五番目の“現代”の書架から、この街が平和の裡にひたすら右肩上がりの経済成長を続けていた半世紀ほど前の資料をひっくり返して、当時の神様のお出ましの様子を記録した写真アルバムを三冊、抜き出してきたのでした。
アルバム作戦は、なかなかの正解でした。神様はアルバムを一ページ、一ページ、懐かしそうにおめくりになられました。そして、目を引く写真があると立ち止まって、その頃のエピソードをいろいろと話してくださったのでした。
こうして神様から直接お伺いすることとなったお話しは様々ですが、最も印象に残っているのは、戦争のことです。もともと戦争については、お伺いするつもりはなかったのでした。それというのも、今からおよそ七十五年前に、この街が向きあわねばならなかったあの戦争について、神様が並々ならぬ思いをお持ちであることは前々から十分に承知していたからです。例えば、このお住まいに勤めはじめる以前から、私は毎年、真夏の戦没者慰霊祭で神様が深く情感の籠ったお言葉を述べるお姿をテレビで幾度となく拝見してきましたし、こちらに上がらせていただいてからは、『戦争とこの街』というタイトルの一冊の古い新書本を、神様が常にお手許に大事そうにお持ちになっていることも存じておりました。その本は幾度も幾度も読み込まれ、表紙のあちこちが擦り切れて、さらに経年で全体が黄ばんでみえましたが、大切に扱われてきたことを示すように、ページが抜けたり、背が壊れたりすることもなく、今も現役で神様の読書のお供を務めているのでした。
戦争というこの街の暗い過去が、神様にとって、そのように特別なものだと拝察していたからこそ、私はかえって話題にすべきではないのだろうと遠慮してきたのでした。ところが、ある時、偶然にも戦後のアルバムに戦時中の神社の写真が紛れ込んでいたことがありました。
それは、今ではもう目にすることのできない絢爛な社殿の白黒写真でした。イロハニ神社の本殿は今でこそ白木造りの簡素な佇まいですが、神様が仰るには、戦前は朱に青に、それに金箔が至るところにあしらわれて、それは目に鮮やかな偉容を誇っていたのだそうです。
「このお社は、四代前―“大神”とたたえられた四代前の神様のことを、神様はいつもこう呼びならわされていました―がこの街にお移りになられた際に、街の人々が寄進してくれたのですよ」
そうお話しになられたとき、神様は嬉しそうに顔をほころばせておられましたが、すぐに打って変わって悲しい調子に、声を落として仰いました。
「それもあの戦争ですべて焼けてしまいましてね、戦争も最後の年の空襲のことですよ。あの時の焼夷弾はすごかった。狙いは恐ろしいくらいに正確でしてね。ご存知のように、ここでは広大な森の中にいくつもの建物が点在していますが、その建物のすべてが焼け落ちたのですよ。なかでも、本殿の焼亡は、殊更に激しかった。あそこでは四十人も、人が亡くなりましてね。当時は“社稷は犯すべからず”という考え方がまだまだ根強くありましたが、社稷、つまりはこの神社を護るために、あの空襲の最中にも、大勢の人々が防火水槽を持ち込んで、万が一のことに備えていたのですよ。しかし、街を丸ごと一つ焼け尽くす劫火ですからねえ、ばらばら、ばらばらと焼夷弾が降ってきて、あっという間に街区を燃やしたかと思うと、今度はこちらにも飛び火しましてね、本殿の中庭で待機していた人たちは、瞬く間に炎に囚われて、逃げる間もなく亡くなったのですよ」
神様はしばらく、お手許の古写真にじっと視線を落としていらっしゃいましたが、やがてひとしおの感慨を込めてこう仰いました。
「戦後、この街は、人々のたゆみのない努力によって、まるでここのお庭のスギの木のように、すくっと見事な復興を遂げたわけですが、ただねえ、もしもあの日亡くなられた人たちが今日まで生きていたとしたら、果してどういう人生があったのだろうと、時々そう思うのですよ」
ところで話は少し前後しますが、一年余りの在任中に私はたった一度だけ、神様のお出ましに随行したことがありました。すでに、お出ましの諸準備のために過去の記録を調べたことがあったことはお話ししましたが、ちょうどその時のことです。
それは郊外の山陵地区へのお成りでした。あの疫病の蔓延で街全体に外出規制が適用されるまでは、神様は五年ごとに、先代のご命日に、その山陵へとお参りされるのが慣わしでした。
先代の山陵までは、お住まいからは六十キロほどの距離があります。下道では、ゆうに一時間以上は掛かる計算ですから、その時も過去の例に倣って高速道路を利用したわけですが、それでもわずかな下道の区間、沿道は相当な人だかりとなります。
私はお住まいの車寄から黒塗りのセダンに陪乗して、お車の後部座席、神様の右隣に掛けていましたが、車中から見る景色は私にはなかなか新鮮なものがありました。
出発前からすでにタヌキ門の両脇には、カメラを回し、ペンを走らせる一群の記者が詰めかけていて、その先、ガードレールに沿っては、ほとんど切れ目なく街の人たちが続いています。お発ちに際して、「こちらに手を振る人があったら教えてちょうだい」と神様から仰せがありましたが、お車に向かって手を振る人など道の両側に山のように並んでいて、一体どこから手を付ければいいのか見当もつきません。それでも神様は、お車の左右の窓を目いっぱいに開けさせて、目に留まったところから一所懸命に手を振り返されます。すると、沿道からは一斉に黄色い歓声が上がるのでした。
山陵での行事は、つつがなく終りました。白い斎服姿の神職の先導で、静かに玉串を捧げられ、それから五年ぶりに、山陵のまわりをぐるりと一周、ご散策なさいました。行事としては、それだけでした。
その一件は、神様が山陵からお帰りになる間際のことでした。
山陵の正面は白木の鳥居が設けられていて、その外側は玉砂利の広場になっています。そこは公道と直に接続していて誰でも入れるのですが、その時も神様のお帰りのお車を取り巻くようにして、その近隣に暮らす人々が大勢集まっていました。みんな、五年ぶりの神様のお出ましとあって、そのお姿を一目見ようと、警備の警察官が張る規制線のギリギリにまで人垣を作って待ち受けていたのです。
それは神様がお車に乗ろうと広場まで戻られた時でした。その人だかりをかき分けて、わざわざ歩み出てきた一組の母娘がいました。母親らしき女性の方は、後ろ手に娘の手を引いて、畏まった面持ちで人垣の前に立ち尽くしていましたが、その眼差しには、どこか強く訴えかけるものがありました。
その母娘の様子をご覧になって、神様がふと歩み寄られました。そして、
「どうなさったのですか?」とお声がけなさいました。
母親は、歩み寄られた神様を前に、明らかに高揚して緊張した様子でしたが、とっさに後ろ手に引いてきた娘を自分の面前へと押し出しました。
「この子は、目が見えないんです」と母親が言いました。
少女は、たしかに目が見えないようでした。小脇に白杖を抱えていて、まだ中学生くらいに見受けられる、全体にあどけなさを残した顔立ちの真ん中で、うっすらと開かれた双眸の奥から、どこかしら視点の定まらない瞳孔が覗いています。
「ねえ、お母さん、そこにいるのは誰?」
不意にこわばった声で、少女が母親の方に向かって訊ねました。
「神様がいらしてるのよ」と母親が答えました。
一瞬、少女は押し黙ると、今度はどことなく突っかかるような、挑むような調子でこう言いました。
「その人、もしも本当に“神様”なら、わたしの病気が治せるの?」
その瞬間、神様が困ったような、戸惑ったような、曖昧な微笑を浮かべられたように思いましたが、しかし律儀にも、神様はすぐにこう仰ったのでした。
「残念ですが、私には、あなたの病気を治して差し上げる力はないのですよ」
少女が小さくうつむきました。
「長いこと、患っていらっしゃるのですか?」
不意に神様がお尋ねになりました。そのお尋ねは、その子の母親に向けられたもののようでもありましたが、母親よりも先に、少女が訥々と語り出しました。……幼い頃は、まだ何もかもが見えていたこと。ところが、小学校に上がった頃から、夕闇が落ちると途端に辺りが真っ暗に感じたり、ドッジボールで目の前から急にボールが消えるように感じたこと。小三になって、年々少しずつ視力が奪われていく先天性の難病だと診断されたこと。それからは様々な治療を試したけれど、一向に良くはならなくて、小学校の卒業間際に、お医者さんから、病気の進行が早いので、点字の勉強を始めるように言われたこと。その日からずっと、もしかしたら明日、最後の視力が消えるかもしれないと思って、怯えながら生きていたこと。そして、とうとう今年に入って、朝、目が覚めたら、光の明るさしか見えなくなったこと。両親の顔も、友達の姿も、この街の風景も、すべては記憶のなかだけに沈んでいて、もはや物を見ることはできなくなったこと……そうしたことを、少女は次第に涙まじりになっていく言葉で語ったのでした。
神様は少女の方にじっと顔を傾けて、時に頷きながら、その話を聞いておられました。そして、少女が「どうして、 こんな目に遭わなきゃいけないの」と口にしたとき、神様はとっさにご自身の老いた右手を差し出されたのでした。それまでは時折、口元をゆっくりとお開きになっては、また閉じなおされて、何か慰めの言葉をおかけになるタイミングを探されているふうでいらっしゃったのですが、少女のその切実な訴えに感極まったご様子でした。
神様の差し出された右手は、母親に促される形で少女の右手によって受け取られて、その少女の手を神様はさらに左手を添えてやさしく、そしてしっかりと包み込まれたのでした。
少女はその感触をしばらく不思議そうに確かめるようでしたが、やがて、
「おじいさんの手、温かいね」
と静かな声で一言、口にしました。そして、ゆっくりと手を解くと、母親に連れられて、ふたたび人だかりのなかへと引き返していったのでした。
さて、あの時、神様がなさったように、不幸の最中にある人に寄り添おうとすることが、果してその相手方にとって、どれほどの励ましや、あるいは慰めとしての意味を持ち得るものなのか、正直なところ、今もって私に確かな考えがあるわけではありません。ただ、あの日、お帰りのお車に陪乗して車窓から見た人垣のなかに、盲目の眼差しで捉えた神様の車列に向かって、いつまでも手を振りつづけている少女の姿を認めたとき、私はやはり胸にほっこりとしたものを感じずにはいられなかったのでした。




