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寝てしまった女にズタボロの布を掛ける。そのヒビ割れだらけの手は、さらに小さな手をしっかり握っている。ありったけの布を掛けられた子供は、寝床で静かな寝息を立てていた。俺はそっとその場を離れると、火に薪をもう一本足した。少し暗くなり揺らぐ炎が、粗末な掘立て小屋の中を照らす。何もかもが灰と煤で汚れた、蹴飛ばせば崩れそうな空間の中で、二人は寄り添い眠っている。扉代わりのボロ布をくぐり外に出ると、月も見えない暗闇の下に同じような掘立て小屋が無秩序に広がっているのが見えた。遠く丘の上、王城の絢爛たる灯火だけが輝いている夜の中、凍り付く寒さの中で俺は白くなることもない溜め息を吐く。
何故、悪魔の俺がこんなことを?
あれは百年……二百年前だろうか。王族の娘の願いを叶えてやる代わりにその魂をいただく契約をしていた時だ。教会の連中が出張ってきて、寄ってたかって俺を封印しやがった。一人ひとりは大した能力も無いくせに、集団の力技で捩じ伏せるのは卑怯にも程がある。
「貴様はこの聖印の中に封じられる。無垢なる者の無垢なる手以外で、貴様が甦ることはない」
その中でも特に能力の低い、歳食って身分だけが高い司教がドヤ顔でそう言った時にはさすがの俺もイラッときた。一人じゃ何もできないくせに偉そうに。だいたいそれだと姫様が無垢じゃないと暗に言ってるよな?皮肉か?
まあいい。要するにその無垢なる手とやらに触れるまでは少し休めばいいってだけの話だ。悠久の時を生きる悪魔にとっては、どうという話でもない。俺は、みすぼらしい聖印の中で目を閉じ、意識を切った。
次に目覚めたのは、幼い子供の手の中だった。曇天から花びらのような雪がぼたぼた落ちてきている。この寒さの中、この子供は川……いやドブか?の中を浚い、俺を封じ込めた聖印を見つけたようだ。久し振りに目にする世界がドブの底とは。そのままヘドロの中にいるのも嫌で、子供ごと岸に飛ぶ。雪の当たらない橋の下でその子を下ろすと、そいつはまん丸な目で俺を見上げてきた。
薄汚い。第一印象はそれでしかない。一応女の子か。汚れた髪、汚れた肌。元は何色だったのかも分からない布で体を覆っている。足には何も履いていない。それがドブに入るためなのか、単に履き物を持っていないのかは分からない。たぶん後者だろう。何もかもが薄汚い中で、今の曇天を映したような灰色の目だけが不釣り合いに澄んでいた。
まあとにかく、俺を解放してくれた以上は何か願いを叶えてやろう。見上げたまま固まっているその子に、悪魔らしい微笑で語りかける。
「人間の娘よ。よくぞ我を解放した。褒美に何でも願いを叶えてやろう」
その子は固まったまま動かない。何か言え。
「まず、名を名乗れ。契約には名が必要だ」
「……リス」
それだけ口にすると、リスの目がとろんと溶けていった。ぐらりと後ろに倒れるのを、慌てて腕で支える。抱き抱えるような形になって、リスの体が異様に熱いのに気付いた。体が熱いのに、手足も顔も汚れの上からでも分かるほど青白い。これはアレだ。人間が死ぬ前によく見せるやつだ。
「おい、リス。願いを言え。何でも叶えてやるぞ」
名を受けて契約が成立したのに、何も願いを叶えないなど悪魔の名折れ。腕に抱えたリスの頬をぺちぺち叩くと、ぼんやり焦点の合わない瞳で見つめ返してきた。
「ありがとう」
蚊の鳴くような声でそう呟くと、リスの体がぐっと重みを増した。意識を失ったらしい。
「おいリス。おい、起きろ」
叩いても揺すっても目を開かないリスに、俺の中でじんわり焦りが広がっていった。病気を治したいでも何でもいいから願いを言ってもらわないことには、俺は何もできない。この小さな体では、あっという間に魂が抜ける。このままでは願いを聞き出すこともできなかった無能な悪魔になってしまう。
ドブの流れる下流に、掘立て小屋が固まって建っているのが見えた。とりあえずあの辺の誰かにリスを預けて、看病してもらうか。その見返りにそいつの願いを叶えてやってもいい。リスを抱え、ひょいと小屋の前まで飛ぶ。どれもこれも半分崩れたような木と土の塊の中で、人の気配がした所に適当に入った。
中には小さな寝床に突っ伏した女がいた。俺が入ってきたことを、それほど気に留めている様子もない。竈とも言えないような土で丸く囲っただけの中に、熾火がゆるゆる燃えている。家具と言えるようなものは、割れた箱が一つだけ。薄暗い中、一応生きてはいるであろう女に声を掛ける。
「おい、女」
女がゆっくり顔を上げた。まだ若いであろうその顔には生気がない。こっちも死にかけか。
「すまんが、こいつの面倒を見てくれんか?熱を出しているようでな。報酬は」
出すぞ、と言う前にいきなり立ち上がった女が俺の腕の中からリスを引ったくり、今まで突っ伏していた寝床に寝かせた。ボロ布をどんどん掛けて、リスの小さな体を埋めていく。悪魔の所有物を奪うとは、何を考えている?
「おい」
女は俺なんか居ないかのようにリスに集中している。リスの額にかかる髪を撫でる女の横にしゃがみ込み、横目で睨み付ける。
「おい、何か願いはあるか」
「あ、薪を足してください」
「おう」
ちろちろ消えそうな竈の火に、細い枯れ枝を足す。細く煙を上げるばかりでなかなか燃えないが、そのうち火が移るだろう。
「ありがとうございます」
「うむ」
……って、そうではなく。願いを叶えるっていうのはこういうことではなく、もっとこう。金持ちになりたいとか憎いあいつを殺したいとか、あるだろう?雑用を頼んでどうする。そもそも流れで動いてしまって、こいつの名すら聞いていなかった。
ちょっと説教してやろうかと思ったが、女の真剣な表情に声を掛けるのをやめた。自分の熱を送り込もうとしているかのように、リスの冷え切った額に手を当てている。何がこの女をこうさせているのやら。
……いや、察するところはある。女の体には不釣り合いな小さな寝床。何も持たないその日暮らしの貧民にしては、やけに多い薪。寝床の横に廃材を寄せ集めた人形が座っているのを見れば、まあだいたいの事情は分かる。この女の子供が病に倒れ、看病もむなしく死んだのだろう。その悲しみも明けぬうちに、俺がまた死にかけの子を抱えてやってきた、と。悪魔か。悪魔だったわ。くそ。
諦めて冷たい土の床に座る。寄りかかればそのまま倒れそうな壁を背に、暗く頼りない火に照らされる二人を、俺はただぼんやり見ていた。