飛行機が落ちるので遺言を吹き込む
飛行機のどこかの部品が空中で壊れたらしく、ものすごい勢いで降下を始めた。
どうしようと不安に思っていると、隣の人がスマホになにかを吹き込み始めた。どうも隣の人は自分の子供に向かって「遺言」を残しているらしかった。
「これを聞いているということは、きっとお父さんはもうこの世にはいないんだと思う」
しみじみと隣の人は言うのだった。
「ニュースでも流れているだろうし、なにが起こったのかはおまえも知っていると思う。お父さんの乗っている飛行機に事故があって、これから不時着をするかもしれない事態になっているんだ。
でもお父さんは平気だ。ぜんぜん怖くない。残された時間で、おまえに言っておきたいことがあるから、今スマホに吹き込んでいるよ」と言い出した。
「宿題、やってるか、掛け算を覚えるのを聞いてあげるの、結局できなかったな、ごめんね。友達の、みっこちゃんと喧嘩をしちゃったって言って、どうしたらいいか聞かれたけど、ちゃんと答えられてなかったな。
できれば、仲直りするといいよ。おまえが本当に許せなかったら、それは必要ないけれども、でも、お父さんみたいに、仲直りができないままいなくなってしまうかもしれないから、だからもしできるんだったら、仲直りをするといいよ」
それから隣の人は眼鏡を外して目頭をハンカチで押さえた。わたしは、ああ、と思った。
「他にも、たくさん言いたいことはいろいろあるんだ。でも、全部言ってたら、スマホの容量がなくなってしまうし、その前にきっと、飛行機は地面についてしまうだろう。だから肝心なところだけ言うよ。だから、これだけ言うよ。
愛してるよ、お父さんは、おまえといっしょにいられて幸せだった。本当に、本当に幸せだった」
それを聞いてわたしは、まるで自分が隣の人の子供になって、その言葉を聞いているかのようにどきっとしてしまった。
「お父さんは、残されたおまえのことが心配だ。お父さんがいなくなってしまったら、きっとおまえは悲しんでしまうと思う。この世界は最悪のところで、生きていくのに値しないなんて思ってしまうかもしれない。もしかすると、考えたくもないけれども、死んでしまおうなんて思ってしまうこともあるかもしれない。
でも、そんなことはないんだ。約束するよ。この世界は最悪なんかじゃない」
それから隣の人は感極まったように息を潜めて、それから誰か、まるで目の前に子供がいるかのように微笑みながら、
「きっと――きっと生きていてよかったって思えるような日が来るよ。お父さんが約束する。だから絶対に人生を諦めたりしないでくれ」
わたしはまるで自分が勇気づけられたような気がした。こんな飛行機に乗っているのに、今にも落ちてしまいそうだというのに、わたしはまるで自分自身が、この世界は最悪のところなんかじゃないって、隣の人に手を取られて、勇気づけられているような気がしたのだった。
「さようなら。お別れを言うのはつらいけれども、でも仕方ない。いつかまた会えるよ。
いつか、遠い未来で、きっと会おうね」
隣の人はハンカチを取り出して顔を拭った。わたしは思わずもらい泣きしてしまった。誰かにこんなふうに言うことのできる人生を送ってきた人は、それだけでもう美しいのだと思った。
たとえこの人が昨日の晩に子供と大喧嘩をしていたのだとしても、職場では全然仕事ができなくて蔑まれていたのだとしても、友達も一人もいなくて週末はいつも部屋の中でだらだらしているだけだったのだとしても。
この瞬間、今この瞬間にそんなふうに誰かに言うことができるというだけで、この人はとてもとても美しい人生だったということができるのだと。
時間の長短ではない。功績や名誉やお金の多寡ではない。ただその一言だけを言うために生まれてきたのではないかと思わせるような、そんな人がいることを、わたしは心の底から好ましく思い、羨ましく思った。
飛行機が着陸態勢に入った。わたしは頭を抱えながら神様に祈った。
どうか、隣の人は助けてあげてください。わたしの命はどうでもいい、だからどうか、隣の人だけは、絶対に救ってあげてください、そう、神様に祈ったのだった。
轟音と振動が辺りを包んだ。お腹の下がちぎれてしまいそうなくらいひやひやして、飛行機は滑走路を滑っていった……。
飛行機は胴体着陸に成功した。
乗客は今にも飛行機が爆発するのじゃないかとパニックになったのだけれども、飛行機から伸びた滑り台をひゅっと滑り終えて、もうここまで離れれば大丈夫というくらい飛行機から離れたあとになってふと気がつくと、隣の人がすぐ近くにいることに気がついた。
わたしは助かった気持ちと、それまでの恐ろしい気持ちが溢れて泣き出してしまいながら、隣の人といっしょに生きて地上を踏めたことが本当に嬉しくて、
「すみません。あの、さっきのスマホに吹き込んでいた音声、聞くつもりはなかったのですが、感動してしまって……助かって、助かって……本当に、よかったですね!」と声を掛けると、隣の人は気まずそうな顔をしながら、
「すみません、本当はわたし、家族とかいなくてですね……」とぽつりと言った。
「えっ、じゃあさっきのは」
「なんか、こういう事態になったときに、そういう「遺言みたいなものを吹き込む」ことに対する憧れがあって、それでそういう機会が訪れたので、実際にやってみた、というだけでして……」
おそるおそる、「……やってみて、どうでした?」と尋ねると、隣の人はやや気恥ずかしそうに微笑みながら、
「けっこう、いい気分でした」と言った。
なんだこの人。




