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戦姫、ブリュンヒルデに捧ぐ  作者: 野之 乃山
二章 自警団
33/80

5-3 童話

 中央広場の石畳はほとんどが剥がされていた。それならもう、一からすべてを敷き直した方が早いし、安上がりになる計算になった、とリンネは言った。


 女神像が印象的だった大きな噴水は撤去されていた。あれはシンボルとして機能していたので、広場に寂しさが訪れているように見える。しかし、なぜだか、おれはあまり見たいとは思っていなかった。


 ギルドの赤レンガの建物や、役所、学校なども散々な有様だった。特にクエストギルドは大いに崩れ、内装は土まみれで、豪華なシャンデリアっぽい照明が床に散乱していた。役所も壁に爆発痕がある。学校は一から立て直しする必要があるらしいが、それと繋がっている鐘楼のある孤児院はほとんど無事だった。こんなことになっているのは、おれが主にここで暴れていたせいでもあると聞かされたせいで、できれば長居したくは無かった。


 そんな、唯一無事の孤児院の庭先に、見知った人影が立っていた。その人はおれたち二人をみるなり、大きく手を振った。それに応える。


「あの人、年中あの黒コートですの?」


 当然の疑問である。おれも、ちょうどそう思った。


 カーサラさんは柵を慣れた感じで飛び越え、小走りで駆け寄ってくると、真っ先におれに抱き着いた。彼の方が、身長が高いので、胸に取り込まれるように引き寄せられただけである。


「よくやった、シシくん。キミはこの村の救世主だ。英雄だよ」


 黒コートの中で、わしゃわしゃと頭を撫でられる。珍しく手袋をしていないようだった。少しだけ骨の主張が強い大きな手に、また違った安心感を覚える。


 おれはどうにかしてコートの中から出ると、今度は拳を差し出された。それに、自分の拳を当てた。


「自分一人の力ではありません。リンネ、彼女の力がなければ、やられていましたし」

「ああ、たしかにそうだ。リンネくんも、この村の英雄だ。二人の英雄だよ」


 リンネの方にも握りこぶしを向けると、彼女はドアをノックするように当てた。


「助けてくれたことには感謝していますわ」

「気にしなくていいよ。いや、それよりも――」


 カーサラさんは右手に手を当てて、深く礼をする。


「エッダ国王、ならびに、親衛隊隊長グラーファ殿、そのほか、討伐隊の方々に、謹んでお悔やみ申し上げます」


 リンネの表情を見る。一瞬、諦めるような顔が浮かび、目を閉じた。そして、柔らかく笑った。


「カーサラどの、あなたは特にエッダ王と親しかった。あなたがわたくしを死の淵から引き揚げたことを、あのお方は女神のもとでお喜びになられているはずです」


「そうであれば、幸甚に存じます。もっとも、今頃、女神を口説いていそうで、それが心配だけど」


「仰る通りですわ」


 二人が笑う。カーサラさんの身の上を考えれば、親しいのは必然ともいえるだろう。エッダ王と、もう少しだけ話したかった。心残りと言えばそんなところだ。


 孤児院の扉が開く。三人の視線がそちらに向くと、頭が倍近くにまで膨らんでしまっている、寝癖が凄いネロが居た。髪飾りも着けていないのを見るに、本当に寝起きなのだろう。彼女の髪の質はクセっ気が強く、毎朝難儀しているのを見ていた。


 そんなもこもこな彼女は、おれら三人の姿をみて、一瞬固まった。眠い目をこすりつつ。


 いや、あれは霞んだ視界を正そうとしている。目ヤニとかがあるから、こすったってあまり意味はないだろう。


 扉を開けっぱなしにしているせいで、外の騒々しさが直接伝わったのだろう、むにゃむにゃと言いながら、似たようにアリアも顔を出した。どちらかと言えば、彼女の方は朝には強いはずだった記憶がある。いや、今は朝になったばかりだ。訓練生の朝は今よりもう少しだけ遅い。

 ただ、おれとフェンデルは、朝早くから剣を振ったりしていたから、この時間には起きていた。


 大小の少女が二人。おれは、彼女たちに小さく手を振った。


 孤児院の玄関から、この位置まではおおよそ十メートルと少し。


 扉は蝶番が少し馬鹿になっているから、閉まるのが早かったと記憶している。ちゃんと最後まで閉めるんだよ、手を挟むなよ、と、カーサラさんが子どもたちに向けて言っていたはずだ。


 そんな扉が閉まった音がしたのは、首と、腹に、彼女らの腕を引っ掛けられ、そのままの勢いで、地面に張り倒されてからだった。もちろん、首はアリア、腹はネロだ。


「あらら~」


 カーサラさんの抜けた声が遠く聞こえる。しかし、直後にもう一度、腹に衝撃が来る。空っぽなはずなのだが、何かが噴き出しそうになった。


 見れば、ネロが乗っていた。二人とも、小刻みに震えている。


「モテモテですわねぇ」


 おれは二人の頭に手を添えた。そしてこうつぶやいた。


「息が、できない」


 ネロは鼻水と涙でずびずびになった顔をくしゃくしゃとこすっていたので、顔を洗ってきたらと言うと、走って行ってしまった。


 アリアはちょっと冷たい手で、おれの顔を何度もこねくり回し、何度も手を触り、その存在を確かめた。


 そしてようやく、笑ってくれた。何度も見た、アリアらしい、歯を見せて、唇の端だけをくいっと上げる、ちょっと悪そうな笑い方だ。この笑みを見ることで、おれも、現実に戻った感触を得る。


「バカヤロ、あたしは泣いてなんかないからな」

「なら今、アリアの目から出てる水はなんだろうね?」

「水魔法だ」

「鼻からも出てるけど」

「水魔法だ、何度も言わせんな」


 ひとしきり肩を叩いたり、拳をぶつけたりしたあと、おれたちは笑った。おれからしてみれば、寝て起きた感覚なのに、そんな自分でも、懐かしさを覚える。何事にも代えられない、大切な仲間だと、実感できる。


「もう、大丈夫なのか?」

「なにが?」

「その、アイツらのこと」


「うーん」ちらりと視線を外した。その先には偶然にも、カーサラさんとしゃべるリンネが居た。「まあ、未だに受け入れられていないかも。でも、泣いたりはしない。仇はとったから」


「やっぱり、シシはすごい奴だ。アイツも喜んでるだろうさ」

「模擬戦で負け越してたから、悔しがっていると思うよ」

「そうか、そういえばそうだったな。ざまあみろってんだ」


 もう一度、孤児院の扉が明けられる。やっぱり髪飾りはしていないが、少なくとも寝癖は多少直され、顔もはっきりしているネロが、こちらを見ていた。おいで、と手招きすると、ゆっくりと扉を閉め、そしてパタパタと走ってきた。


 少しの間だけ、抱擁する。ネロの頭は、おれの肩あたりにくる。ちょっとだけやりづらかったが、あんまり気にならなかった。


「怪我とか、大丈夫なんですか?」鼻声だ。「あの人が連れてきたときは、かなり傷だらけだったんですよ」


「そうだ、あんたもだ」


 アリアがリンネに向けて言う。彼女は笑みを浮かべるだけで、何も言わない。


「気づいたら、空飛んでたんだぜ、戦姫サンが」

「あれも、なんだったのでしょう」

「おれも、よくわからないんだ」


 上目遣いをしていたネロと、向こうを見ていたアリアが、目を丸くしてこっちを見る。


「おれ? シシ、あんた今、おれって言った?」

「あの人に、なにを吹き込まれたんです? 本当に、シシさんなんですか?」


 急に気恥ずかしくなった。頭を掻きむしって、心変わりだよ、とだけ言った。それは本当のことだ。


「怪我のことと、不思議な現象については、ぼくの方から推測を述べさせていただきたいかな」


 カーサラさんが手を挙げて言った。ただ、と付け足す。


「立ち話もなんだし、壁と屋根が揃っているところに行こう。ここじゃ近所迷惑だ」


 そう言って、おれたちは先ほどから何度も何度も開閉させられている扉をくぐった。


 そこで、簡単な朝食を摂ることにした。みんなはパンを焼いていたが、おれだけ、水とお粥だった。それもそのはず、一週間程度寝ていたのだから、固形物をいきなり胃に運ぶことは、避けるべきだと、誰しも口を揃えて言った。


 この時、ラーメンを食いそびれたことを思い出した。そして、とてつもない空腹感を自覚するとともに、腹の音が鳴った。


 片づけをして、みんなが食後のコーヒーを飲んでいると、カーサラさんが一冊の分厚い本を持ち出してきた。机の上にどすんと置かれたそれは、おそらくこの世界で育った人ならば誰でも知っているであろう、童話の本だった。


 女神アイドゥン、それにまつわる神話を、童話の形にしたものだ。


 話の大まかな流れは、本当によくある話である。とある所の出身の男の子は、実は勇者の血を引いていて、彼が十五歳になったときが、魔王が再びこの世に現れる時だった。彼は仲間たちを集いつつ、女神アイドゥンによって設けられた試練をこなし、困難を乗り越える力を授けられ、無事、魔王に打ちち、世界に平和をもたらした。こんな感じだ。


 実は勇者の直系は続いているらしく、その子孫たちは強い力を遺伝して有しているため、それを人々のために使おうと、安心して暮らせる国を作った、というエピローグがあったりなかったりする。


 あったりなかったり、というのは、その本を出版した会社の所在が、西か東かに関係する。つまり、そういうことだ。どちらにも大きな国はあるのだから、好きなように使えばいいのに、と。確か、自警団の入団試験勉強の時に、先生をしてくれたネロにそんなふうなことをこぼした記憶がある。


 その本は古く、今から百年以上前に出版されたものだ、とカーサラさんは言った。もはや古典に近いが、印刷活字は今でもハッキリ読めるくらいには残っている。相当な代物だ。


 あれ、と。珍しく素っ頓狂な声を漏らしたのは、アリアだった。


「この流れだと、まさか、そういうことなのか?」

「え、本当に?」ネロが続く。「本当に、そうなのですか?」

「すごく大まかに言えば、そうと言えるかもしれない」


 おれはよく、リカルドやマテウス、そしてフェンデルに、おまえは頭はいいけど鈍感だな、と言われた。そのたびに、素直と言ってほしいな、と返していた。決まって、彼らは笑っていた。決まり文句のようなものだ。いわば、「山」に続く「川」という認証コード状態でもあった。


 そんなおれでも、今の流れは分かる。簡単な文章として口に出す。


「つまり、自分と彼女の二人は、その女神さまの授けた力に目覚めた、という事ですか?」


「断言はできない」


「どういう事なんです? ハッキリしてくださいよ」

「まあまあ。ネロだってわかるだろう?」

「んもう、そうやってまた子ども扱いですか」


「違うよ。これはあくまで神話だ、童話の中での出来事だ。似たような事例を元ネタにした作り話だってこと」


「そう言ってしまうと、ほとんどの神話がそうなってしまうんじゃ」


 アリアの発言に、否定はできないさ、とカーサラさんは言う。


「確かめようがないもの。こういうのが作られるのって、今から何百、何千年も昔の話だから」


 でも、これは違う。


 この世界フリュークに、一年くらい前にきたおれは、この話はある程度は確かめられるものだと思っていた。


 記録がある。至る場所にその痕跡を残してあるのだ。


 女神像として。

 女神が設けた困難を示す場所は、分かりやすいように、しるべがある。この世界の各地に、大きな女神像が存在するのは、その名残だと言われている。アラム王国は、王城城下町ですら巨大なため、二つほど存在する。オーバ地区と呼ばれた、学校がある場所に一つあるのを、おれたちは見ている。その時もフェンデルが、ほとんど反対側の地区にもう一つあることを教えてくれた。それを、リンネが保証した。


 この村にもある。今は撤去されているが、中央広場にある噴水の女神像がそうだと伝えられている。


「シシが壊したものですわね」

「え、おれが?」


「うわ、シシ、悪いヤツ」

「悪いね」


「申し訳、ありません……」

「村長兼ギルド支部長は気にするな、と言ってました。気を落とさないでください」


「女神像には、その試練の内容が刻まれている。もちろん、シシくんが、壊しちゃった像にもね」


 キッと、ネロが睨む。カーサラさんは笑った。


「この村は、資料によれば五、六百年前には存在している。そこから現在に至るまで、あの噴水が“修理”された回数は、十二回だ。だから、気に病む必要は全くないさ。魔物の襲撃で何度も壊されているもんだから、後から作られた設計図すらある。ちなみに、何がどうなって壊れたか、と言うのも、きっちり記録されてあるんだよ。見てみるかい?」


「あたし、それ見たことあるかも」アリアは笑いながら言った。「前回はたしか、バダラグ教官がぶっ壊したんだ。素手で」


「懐かしいな、あの時の彼の落ち込みっぷりは何年も肴になったもんだよ」


 しかも、とカーサラさんは言う。


「初代女神像噴水ブレイカーは誰だと思う?」


 とんでもなくふざけた称号だが、ギルドの称号も実際こんな感じである。称号センスがないというより、ギルドの称号を考える部門のトップは、それはもう、かなり変な人なのだとか。


 面食らっているおれを見て微笑みつつ、リンネが手を挙げる。みんなが彼女を見ると、


「初代女神像噴水ブレイカーは、その童話の勇者さま、ですわ。俗説ではありますが、破壊したことに意味があるという考えもあります」


「そう。なんじゃそりゃ、と思うかもしれないけど、その俗説はおおよそ本当だろう。当時はただの落ちこぼれ団員だったバダラグくんが、めきめきと頭角を現していったのも、その事件があってからなんだ」


 そんなことが。バダラグ教官に師事していたアリアは知っているようだった。

 もしかすると、彼のあの驚異的な気配の消し方も、その事件から会得したものなのだろうか。


「しかし、それはあくまで、才能の開花が女神像の破壊と同時期に起きただけですわ。女神像が破壊される原因は魔物の襲撃であり、危機を乗り越えた人が強くなっただけで、ついでに起きたことでしかない、その可能性もありますわよ」


 リンネの指摘に、カーサラさんは腕を小さく広げた。つまりはほとんど冗談だということ。


「まあ、女神像が何度も破壊されてるんだ。女神像が本当に鍵なら、キミたちみたいな『ヤバい』ものを持っている人が何人もいなくちゃならない」


「ヤバいもの、ですか」


「まず第一に、あり得ない再生能力」


 そう言われて、おれは左手を動かし、そしてリンネは、左の眉にある傷跡をなぞった。

 人体の再生はあり得ない。医療がそれ相応に進歩すれば可能かもしれないが、もちろん、この世界はそうではない。


 二人とも、記憶はある。無意識に動かすおれの左手、リンネの右手は、確かに自分の身体から切り離されたのを見た。その時の痛みも、絶望も、鮮明に思い出せる。


 そもそも、おれはリンネが瀕死の状態で、ベッドに横たわっているのを見たではないか。あるべきところにあるはずのシルエットがないシーツ、至る所が赤く染まった包帯。しかし、いま、目の前に居る彼女は、五体満足である。左目も右目も存在している。


 コップの水を飲むリンネと、()が合う。おそらく、彼女も、おれのそうだった状態を見ているのだろう。


「そして第二に、ぼくらが見た、リンネくんの異常な姿」

「異常な、姿?」


 おれとアリアが首をひねると、リンネが続けた。


「翼が生えて、空を飛びましたわ」


「……。空を飛ぶ魔法はあるけどさ」アリアが詰まったように言う。「でも確か、戦姫サンは、魔法適正はゼロに等しいって聞いたことあるんだけど」


「ええ。ほぼ、ゼロです」


 ゼロなんだ、とおれは呟いた。


 魔法適正がゼロであることは特段珍しい事例ではない。フェンデルもそうだったように。


 空を飛ぶ魔法については、これは厳密に言えば魔術である。五科のうち土、三華のうち無の属性魔法を混合させ、その混ぜたものをあれやこれやして、反重力空間を作り出して、飛ぶ。難易度としては、下級から中級に昇格するためのもの、と言った位置付けになっている魔術だ。


 もちろん、それは適性がある人間が、訓練を積み重ね、己の適性を見極めたうえで行使する前提で組み立てられている。もしも、訓練をしていない人が空を飛ぼうと、例えば本を見ながら行使したとすれば、九割九分、死亡事故が起きる。


 土か無の属性に変換した比率が狂えば、地面にぺしゃんこになるほどの重力強化空間が出来上がる、気圧が無効化されて破裂する、膨張する空間が生じて皮膚がはがされ続ける、そういうことが起き得る。


 あの、入団初日の適性検査のおれのように、ただただ火を出すだけの単純な火魔法でも、死亡事故は起きるのだ。


 あの時のおれを例として、魔法適正ゼロのリンネで考えてみる。彼女の場合、魔力容量キャパシティが極端に小さいことが適正ゼロの要因だそうだ。確か、あの月夜の戦闘で、筋力増強の魔法は扱えていたように見えたから、それは間違いないと思う。しかし、あの火柱を作ろうとすれば、たちまちリンネの体内に保有されている魔力は使い果たされ、最悪の場合、二度と魔力が体内に貯められなくなり、魔法を行使できなくなるだろう。


 件の、空を飛ぶ魔法の魔力消費量はかなり多い。ならなぜ、下級から中級魔術に位置付けられているかと言うと、それは紙やペン、コップなど軽い物を対象としており、人のように重たいものを浮かせることを想定していないからだ。重たいものを浮かせようとするならば、当然、それだけ大きく、そして強い、重力に抗う力を、魔力によって補わなければならないのだ。


 例えば、おれの魔力容量が、仮に百であるとすると、このメンツの中で最も軽量なはずのネロを一分間浮かせるためには、七十五ほどの消費が必要だ。


 たった一分。それ以上はおれもネロも()()である。


 もちろん、何回も訓練していけば、二、三年で消費量をおそらくは五〇程度にまで減らせる。しかし、残念ながら、そうなるまでの努力と時間、そして危険に見合っている結果とは、到底言えないものだ。


 だから、リンネが飛んだ、というのは、()()()()()()()()()からすると、明らかに異常なのだ。


 奇しくも、この場にはリンネ以外は魔法に対して一定以上の適性を持つ者しかいない。その異常性は、誰かが語らずとも皆が理解していた。


 ネロが問う。


「だけど、あの時のあなたからは、とんでもない魔力の奔流を感じました。あれはいったい?」

「わたくしにも分かりませんわ」


 何かを思い出す素振りなどもなく、リンネは即答した。


「夢心地というほど記憶がないわけではありませんが、あの時のわたくし自身、それができると思ったから、飛べたのです。これに関しては、そうとしか、言いようがありません」


「その後も、魔法を使えたんだってね?」

「ええ」おれを見る。「彼の手によって」


 目線が集まる。が、おれにはやはり記憶がない。


「シシくんもまた、異常な姿だった」

「そうなんですか?」間抜けな声が出た。

「わたくしが見たものは、口、と言うべきでしょうね」


 巨大な、口。黒い口が、何度も何度も、魔物たちを喰らった。それは斬り落とされた左腕を補完するように生まれ、そして自由意思を持つかのように、おれと、彼女を守ったらしい。


 しかし、先ほどのリンネの話を聞くと、まるで正反対のイメージが浮かぶ。彼女は翼が生えて、空を飛んで、使えないはずの魔法が使えるようになった。おれは、黒い口が生えてきた。


 そんな。

 おれは胸にずしんと重く来る衝撃を、人知れず受けていた。


 そんなの、まるで。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「そうだ。面白いことに、そこもその神話と合致する」


 そう言って、カーサラさんはパラパラと分厚い本を捲り、かなり後ろの方で手を止めた。そこは、勇者の中に魔物の血を引く仲間が居て、女神の試練を受けた際、闇の力を操ることがバレてしまい、糾弾される場面である。

 

 勇者は、他の仲間たちをけん制し、その女性に対して、「これでわたしたちは完璧だ」と励ますのだ。光と闇の両方を扱うパーティに怖いものなしと、その心の寛大さと闇すらもコントロールしてしまう勇者は素晴らしい。そういうふうに、後世の人間は賛美している。


 勇者の他に、女神の試練で「新たな力」に目覚めたのは、その闇の力を持つ女性のみであった。

 

 視線を落とす。手のひらを眺める。なんの変哲もない、しかしそれがおかしいはずの、左手を。


「おれは、闇の力を……」


「件の、ギガンテスとやらを倒した後、眠るキミの体内の、魔力に異変が起きた。キミの身体を攻撃するような、そういった類のものだ。宿主を攻撃する魔力は、闇由来のものだと考えられる」


「シシの記憶がないのも、それが影響しているのか。一時的に魔物になったんだから、そういうこともあり得ないことはない、と。……あたし、そんな前例、聞いたことないぞ」


「あるはずもないでしょう。これはまさにχ化です。ヒトは、一度でもχ化してしまうと、戻れないはず」


「じゃあ、おれはどうやって、戻ったんだ?」


「わたくしの力を与えました」


 アリアの至極まっとうな指摘に対して、リンネは再び即答した。


 彼女は、自分の膝に置いていた右の手のひらを、おれに開いて差し出すように見せた。


「すると、シシの中の魔力は急激に落ち着き、いつものあなたが戻りました。同時に、わたくしの中の力も消散したのです」


「ここも、童話と同じじゃないのか」

「そう、アリアくんの言う通り。勇者が光の力に『飲まれ』そうになったとき、闇の力をもって相殺し、彼を現世の人のままにすることができた、そう書かれているんだ」


 これは第三のポイントだ、と言って、カーサラさんは左手で三本の指を立てる。


「つまり、キミたちに発現した力は、童話に出てくる超能力、『ゼルテ』と呼ばれるものと同じなんだ」


 カーサラさんが言い終えると同時に、おれの後ろにあった古い振り子時計が作動する。時計は九時を示している。外はようやく明るくなりつつあり、人の姿が見えていた。


 何かがのどにつっかえている気がする。それは、現状を飲み込めないおれが、そこに立ち塞がっているのだろう。手元のカップには、すっかり冷めてしまったブラックコーヒーが入っている。ネロが淹れてくれたものだ。飲んだ形跡は全くない。

 

 ため息を吐く代わりに、それを口に含んで、呑み込んだ。

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