5-1 見知らぬ…
――待って。
――待って。
――置いていかないで。
――どうして。
――どうして、手を取って、戻ってきて。
――どうして。
――笑わないで。
――泣かないで。
――戻ってきて。
――戻ってきて、また、過ごそうよ。
――待って。
――待って。
*
(――文字が並び替えられる。紙に水滴の痕が現れる――)
*
右の目頭に熱いものが溜まっている。意識をハッキリさせるために瞼を開くと、それはつぅと耳の方へと流れていった。左も同様だった。
左手でそれをぬぐう。
「おかえりなさい」
声がする。頭だけを動かして、その方向を見ると、誰かがこちらを見ていた。しかし、潤んだ目のせいで、はっきり見えなかった。
ぼやけた視界をどうにかしようと、瞬きをすると、まだまだ涙が溢れ出てきた。親指の根元で目をこする。ようやく、少し見えるようになった。今度は、強くこすりすぎたせいで、目が痛くなった。
失ったはずの左手を確かめながら、再び、声の方向を見る。
短髪の、眼鏡の女性がそこに座っていた。彼女の手元には本があり、そばの机に置かれたライトの隣に、何冊かの本が積まれている。
するり、という擬音が似合うような、無駄のない、絹のような滑り心地の動作でしおりをそこに挟み、本を閉じ、眼鏡を外した。彼女の左目の方に、縦に傷がある。しかし、瞳はしっかりとぼくの目を見ていた。
それから、すっと椅子から離れ、ぼくの枕元に近づいて、そこでしゃがんだ。彼女の顔が一気に近くなる。
やられる、と、一瞬思って、身体が強張った。
しかし、何にやられるのか、詳しく思い出せなかった。
「もしもし? 見えてます?」
小さく、手を振った。あまりにも小さな動作であり、指の先端だけを振っているようなものだった。
ぼくは、聞き覚えのある声の名前を探った。
「リンネさん……?」
彼女に、柔らかい微笑みが浮かんだ。
さっと、ぼくの額に彼女の手が添えられる。そして、頷き、椅子に戻って、ペンを持ち、何かに書き込み始めた。
ペン先と机が紙を挟んでぶつかる音を聞きながら、天井の方を向いた。照明器具のない、しかし新しめの木材で造られた天井だった。
五感が徐々に戻ってくる。手足、鼻が冷たいと、今ようやくわかった。再び、左手を目の前に持ってくる。何も無かったかのように、全ての指が揃っている。肩もある。右目を触ろうと指が近づくと、自動的に瞼が閉じて、視界が変になる。手を放すと、天井までの遠近感が戻る。
違和感があって、右の眉毛のあたりを指先でなぞる。一部が欠けているような感触だった。それは眉毛よりも上に続いている。
「気になりますわよね」
リンネさんの方を見ると、彼女はペンを持っていない手で、左目の傷跡をなぞっていた。
「見えて、いるんですか」
「ええ。以前のように」
「ああ……」
ため息のような、安堵の呼吸だった。
左腕に体重をかけつつ、ゆっくりと上体を起こす。上半身には何も着ていなかったので、寒かった。掛け布団をそのまま肩までかける。
「ああ……」
膝を抱える。寒さを全身に感じるようになってから、意識がハッキリしてきた。
現状把握のために、否が応でもフラッシュバックが起きる。脳が勝手に、記憶と言う引き出しや扉をすべて開け放っていく。
思い出される。
死が。
連鎖していく。
フェンデル。
リカルド。
マテウス。
ポボル。
教官たち。
見知った人たちの、親友たちの叫び声。
断末魔。
引き千切られ、断裂する筋肉の音。
喉を食われ、溢れる血に溺れていく人の声。
耳を塞いでも。
目を閉じても。
思考を止めても。
終わらない。
鮮明に。克明に。
再生されていく。
「くそ、くそッ……!!」
握りこぶしを壁に叩きつける。
何度も、何度も。
痛み。
倦怠感。
血が出る。
力が抜けていく。
ベッドに拳を叩きつけようとして、置くことしかできない。
「守れなかった、守れなかった……ッ!!」
身体が引き寄せられる。
優しいにおい。
ぼくはそれに縋る。
腕を回して、抱きしめる。
きっと強い力だっただろうに、彼女はそれを同じように受け止める。
喪失感がぼくを苛む。
虚無感がぼくを脅す。
唯一あるのは、彼女の身体の暖かさ、柔らかさ。
ぼくは弱い。
ぼくの弱さ。
それが、みんなを死なせた。
強かったら、ぼくがもっと強かったら。
みんなを守れたかもしれない。
「あなたは、守った」
声が、言葉が、心に沈む。
頭を撫でられる。
「あなたは、二度もわたくしの命を救った」
背中に暖かみを感じる。
「あなたは、村の人々を救った」
呼吸が落ち着いていく。鼓動が言葉一つ一つに反応して、嗚咽を生む。
今度こそ、脱力する。
「あなたは、守れたのです」
そうだろうか。
なあ、フェンデル。
親友。
ぼくは、守れたのだろうか。
なあ。
返事がないけど。
それでいいのか。
なあ。
おまえは、笑っていられたか。
これからも、笑ってくれるか。




