1-3 戦闘
その叫び声は、老いた男性らしかった。
キダラはいつの間にか足を止め、威嚇か、それとも怯えているのか、しきりに首を振り、鼻を鳴らしている。
叫び声は絶え間なく続いていた。
このとき、わずかながら、何かがおかしいと思った。だが、それは、胸を焦がすような熱を持った焦燥感の一つの錯覚に過ぎない。そのときのぼくは、そう思っていた。
何を言い出そうとしていたかも忘れ、ぼくは荷台の後ろから飛び降るべく腰をあげた。だが、非常に強い力が肩に加わり、荷台の床へと引きずり戻された。
あまりの力強さに、一瞬何が起きたのか理解できなかったが、荷台の天井が見えたから、そういうことだった。
寝ころぶぼくを跨いで、ネロは顔を見ずに、
「ダメですよ。シシさんはこのまま、これに乗って村に行ってください」
先ほどまでとは打って変わって、冷たい声色だった。
ネロは荷台の隅に置かれていた細長い箱を開いて、中にあるものを取り出した。手に取ったそれは、なんと剣であった。傾きつつある太陽の光を鋭く反射し、しかし派手な装飾などが一切なされていないそれは、ネロの身長の半分以上を占めるほど長い。
刀身には、以前から使われているような、何かを防いで出来たような痕跡があった。柄には滑り止め用に包帯が巻かれ、鍔の部分はところどころ欠けている。
細身の剣ではあるが、それが真剣であるとするならば、重さは相当なものだろう。しかし、ネロはそれを軽い木刀のように持ち上げ、荷台から身を乗り出していた。
呆気に取られて、剣ばかり眺めていると、ネロは困ったように笑った。地面に降りて、側面の箱からいくつか医療道具を持ち出すと、キダラに向かって何かを話しかける。それに答えるかのように、キダラは鼻を鳴らした。
「ど、どこに行くの!?」
「おそらくそう遠くはないはずなので!! その子の綱を握れば動いてくれますから!!」
――そう遠くはないって言ったって。
そんな物騒なものをそんな軽そうに持って走っていく姿を見れば、どう考えたって危ないことが起きていることには違いない。だが、追いかけても何の役にならないだろう。なにせ剣を持ち出していくくらいの相手だ。
ネロは躊躇いもなく、木々の中に突っ込んでいった。キダラが鼻息を荒くしている音と風の音以外が消える。いやに静かになり、自分の鼓動が何よりもうるさく聞こえる。悲鳴が聞こえたのに、今ではなにも聞こえない。妙な静けさだ。ぼくとキダラだけが、大きな防音室に取り残されたかのような。
キダラの手綱を握ると、彼はにゅっと首をこっちにむけて、ぶるると鼻を鳴らした。そしてやや早足に動き出す。
あまりの静かさに耳鳴りがする。明らかな異常事態に鼓動が早くなり、そのせいで周りの音が聞こえなくなってきた。何もしてないのに手汗が溢れてくる。冷や汗や脂汗なんてものじゃない。くそう、やっぱり着いていけばよかったな、とぼくは心の中で思う。キダラの耳が反応する。口に出てしまっていたかも。でもそんなことはどうでも良い。このキダラ以外に人語を解する生物が居ないことを願おう。
そうだ、と、手綱を持ちながら荷台に入る。荷台には、もう一つ細長い箱があった。
運転席で、ネロが椅子代わりに座っていた奴だ。運転席から降りて、椅子の布を取り払う。
思っていた通り、席は木箱で、開閉するための金具があった。本体は、ところどころニスのようなものが剥げていたり、金具が錆びていたり、四隅が欠けていたりと、見るからにぼろなのだが、置き方からすれば、中を開けたりする機会がないとも言える。
上下と前後が逆になっているようで、正しい置き方に戻すと、今度は仰々しい鍵穴が姿を見せた。
「…ッ、開かないか。そりゃそうだろうね」
几帳面そうな彼女のことだ。よく使うのであろうあの剣を仕舞っていた箱でも、どこからか取り出した鍵を使って開け、そしてちゃんと閉めて走っていったくらいだ。鍵束のようなものも持っていたし、おそらくこの箱の鍵もあるのだろう。
幸い金具はかなり錆びている。思い切り地面に叩きつけるか、あるいは石か何かで叩いてやれば開くのではないだろうか。いや、そもそも中身が武器とは限らない。開けてないだけの、開けられないだけの理由があるようなものが入っているのかもしれない。
ハッとして口をふさぐ。
音がした。草木をかき分けるような音。風で揺れた枝の音ではない。しっかりと地面に足を下すような踏みしめる音だ。
一回だけではない。ゆっくりだが、近づいてきている。
これはおそらく、人ではない。少なくとも盗賊とか言うのではない。音を隠そうとしていないのだ。
このキダラ車はそこそこ立派だ。良い家の人間が乗っているという判断はできるくらいに。こんなにゆっくり走っているのなら、狙われるのも当然と言っていい。
音がやむ。キダラは変わらず進んでいるのに、その足音さえ心臓の音にかき消される。
静寂。鼓動が一度大きく高鳴る。
勘。ぼくはそれに従って頭を床に伏せた。
瞬間、荷台の木の支柱が砕け散る。天井代わりの布を支えていたやつだ。木片がそこら中に飛び散る。
寒気がする。ついさっきまで頭があった高さのあたりが、粉々に砕けている。夕日で影が映っていたのか? それにしてはあまりにも正確すぎる。
キダラが嘶いて、その足を止めてしまう。手綱を姿を見せないように手綱を掴むと、しきりにあたりを見渡している。彼も何が起きているかを把握できていないみたいだ。
何をされた、撃たれた? いや、発砲音はしていない。
また足音、草や落ちた枝を踏みつける音。
変わった。砂利の音。すぐ近くにいる。
息を潜めることはもうできない。意味はないだろう。
箱を持つ。重たい、何が入っているのか。武器であるのを祈るばかり。
再び静寂。
思うように動け。さっきはそれで正解だった。
一呼吸。
ふっと、箱を投げ出す。
同時にぼくも転がり出る。
影が荷台を覆う。
ゴシャァッッ!! と、派手な音を立てて、荷台は粉々に砕けた。
それと同時に、布がその影を隠すように、音もなく覆いかぶさった。
恐れをなしたキダラが、荷車を放棄して、いななきながら走って離れて行ってしまう。重量から放たれた彼は、ものすごい速度であり、あっという間に見えなくなった。
あれで、村かなにかに、ぼくたちの危機を伝えられればいいのだが。
音を立てないよう、静かに箱に近づく。
目論見通り、鍵が開いていた。
留め具を外して、蓋を開くと、不思議なものが収まっていた。
先に刃が付いた棒と、ただの棒、その二つだった。長さはネロの持って行った剣よりも長いから、おそらく槍なのだろうが、槍というのは短すぎる。
布が破かれる。とにかくその二本を盗むかのように取り、それから距離を取った。
(なんだ、あれは…、生物なのか?)
赤褐色の太い何かが一対。その中央に収まっている人形のようなものには、あまりにもアンバランスな大きさの口が一つ。口があるから、そちらが顔なのだろうが、のっぺりとしたその顔に、目はなかった。
ドスン、と太い何かで地面を叩く。そしてくるりとこっちを見た。目がないのにもかかわらず、どうやってぼくを認識してるんだろう。
すぐにそんなことはどうでもよくなった。あの太い何かは、あれは腕だ。影になっていて良く見えなかったのだが、四本の指がある。あの生物の形を文字で表すならば、「M」字にそっくりなのだが、その両端の縦棒、すなわち腕は、筋骨隆々、太さは子供の胴回り以上にも見える。
中心にある本体思しき物体は、おおよそ三〇センチ、対して腕の長さは一メートル以上。腕の先になるにつれ、赤褐色が強くなっているということは、あれが武器なのだ。
イヤに冴えた頭が、危機感を覚えさせ、そして麻痺させていた。
だから、対峙しようなどと思ったのかもしれない。
勢いをつけて、アイツが上に跳ねる。
受け止めるなんて馬鹿なことはできない。
素直に右に避ける。
十分な体重と重力と遠心力が乗った一撃は、こぶし型にクレータを作るのに十分な威力を持っていた。頭に血が上っているからか、背筋の汗がやたら冷たく感じる。
防戦一方ではやられるのを待つだけと変わらない。手に握るものは、槍のような刃物が付いている、飾りではない。
(もう一方は、刃はついていない…。こういう事か!?)
この武器は、どうやら二つで一つだ。刃のついている方を上に、ついていない方を下にすると、きっちりと継ぎ目すら見えないほど綺麗な、一本の槍になった。携行性を重視した槍のようだが、接続部分がある分、派手にぶん回せば折れそうだ。
(でも、槍なんてどう使えばいいかわからない…!!)
持ち方だってわからない。振り回すだけではだめだ、突き出した槍をつかまれただけで終わりなのだ。重さだってある。
幸い、アイツはぼくが弱いことを知っている。確実に仕留める方法、頭を狙う攻撃以外はやってこない。つまり、知能はそこまで高くはない、が、筋力の差は歴然。一発貰っても終わりだ。
そして、筋力の差はスピードやスタミナにも如実に表れる。地面を跳躍するだけでも、ゆうに五メートル浮くのを何度もやってくるアイツに、ぼくはへっぴり腰だ。
「このやろ…!!」
意を決して、砂を蹴り上げる。小石がアイツの腕に当たるが、無反応だ。だが、砂煙は防げない。邪魔くさそうに一度払う動作をする。
ステップ。狙うはおそらく本体である場所。躰をしならせ、右手に構えた槍と左の指先までをほぼ一直線に、レールがあるように突き出す。
が、その穂先は金属に当てたように震え、ぼくの腕をしびれさせた。
「かっっっった⁉」
人形の、首あたりに当たっている。運と狙いがよかった。しかし、柔らかそうな見た目に反してそれは驚くほど硬かった。
だが、それ自体が硬いわけではなさそうだ。本体らしき部分は動けば波打つ。まるで形が定まっていないかのように。捻れば余分がしわとなってはみ出る。
ただ、体表がうねうねと動くたび、ぼんやりとした薄い膜のような何かが、やつの身体を覆っているのが見えた。
あれは、バリアのようなものだろうか。
だとすると。
(やっぱり、この世界は魔法か何かがあるみたいだ……ッッ)
ファンタジィ世界らしくなってきたことにより、テンションが方向音痴な上がり方をしたが、落ち着いていられる暇はない。しびれた右腕を庇いながら、後ろに飛びのくと、すぐさまカウンターが飛んできた。つかみ取るような横なぎ。
腕部分を狙っても、かえってこっちの腕がやられる。やはり本体を狙うしかない。
見れば、先ほど防がれた首元の部分が、妙な色に変色していた。そもそも、本体部分も形容しがたいケミカルな色をしているが、それ以上におかしな色になっている。効いている、と思いたい。
唐突に世界が裏返る。
頭に鈍い衝撃。見れば、足元が盛り上がっている。
「しまっ―――」
槍が入っていた箱に、なんともまあ無様に引っかかったわけだ。
無論睨みあっていたアイツがその隙を見逃さず、また大きく跳躍する。
横に転がってもダメージは受ける。箱を蹴飛ばして起き上がっても回避は間に合わない。
でかい拳が眼前に広がる。
本体についているでかい口が、弧を描くような笑みを浮かべていた。