1-1 目覚め
あかい海に
倒れこむ影
毛布で眠る
――光を感じる。
すると、意識が、水面下から急速に引き揚げられた。
突如として光が視界を支配した。
あまりの眩しさに目が痛くなる。思わず目を手で覆うが、鈍い痛みは消えなかった。
瞼の裏は、うごめく暗闇があった。
直前の記憶は、水中のように生ぬるい空間をもがいて進んでいた。光を探して動かす顔や、もがく腕や手に纏わりつくのは、血、だったかもしれない。そんな不気味な感触が、その時は残っていた。
ゆっくりと、光をさえぎっていた腕を動かす。
その腕には、暗闇での感触が残っていた。なら、夢ではないのは確かだ、と言いたいが、意識した途端、それはすぐに身体から消えていった。ならば、やはり夢だったのかもしれない。
上半身を起こす。今度は右ひじが痛んだ。小石がめり込んでいることに気づいたので落とす。じっとりと汗ばんでいる背中側に雑草がへばりついていたのでそれも落とした。呼吸を整える。
ようやく、意識がはっきりしてきた。
そこで、ハッとして腹を抑えた。次に背中やこめかみなどをなぞっていく。まるで、忘れ物がないかを確認するように、自分の身体を探り、そして何もないことが分かって、ほっと胸をなでおろした。
どうしてそんなことをする必要があったのかは、分からなかった。ただただ、なにもないことを確かめないことが、気持ち悪かったのかもしれない。
顔を振って周囲を見渡すと、おそらく、ぼくは森の中にいるようだった。おそらくは、というのは、森と言えば、起伏があったり、人の手が入らなかったりする山にあるようなものなのだが、ここはそんなイメージの中の森とは違っていた。
見える限りでは、地面は平坦で、木々は異様に背が高く、その頂点は、仰げども太陽光によって輪郭すら拝めないほどだ。
木々は自らの葉に光を多くあてるため、枝分かれが複雑化し、直射日光が当たっている場所はほとんどなかった。そのせいか、地面にはあまり光が届いておらず、くるぶしまでの高さもない雑草ばかりが生えているし、尻の下にある土も、なんだか柔らかかった。
ここがどんなところかはわからないが、少なくとも、頻繁に人が往来するような場所ではないことはわかった。
水を多く含んでゆるんでいる地面に、ぼくの形が残っていたが、寝転んでいたこのスペースの頭の部分に、日光がちょうど頭のところに当たるようになっていた。
――なんとも、不自然で好都合な場所だ。
頭のあった場所のすぐ左には切り株がある。腰掛けるにはちょうどいい高さ、幅の、丸い切り株だ。
そこには誰かが居たのかもしれないと思って触ってみたが、少し湿っているだけで、ひんやりと冷たかった。
三半規管が再起動を完了したようで、ようやく立ち上がれた。嗅覚も動き始めたようで、身体から土のにおいがほんわりと漂った。
とにかく人のいる場所に行きたい。このまま闇雲に歩いてみても野垂れ死にして、木々の良い栄養分になるだけだろう。ふたたび周囲を見渡すと、清流が流れているのを見つけた。
みてみると、恐ろしくゆったりとした流れの中で、川魚が泳いでいた。水深は浅いが、良く澄んでいる。舐める程度ならば問題なさそうだった。
両手で水を掬い、顔にぶちまけた。口の中に入ってきた水は、前歯に染みるくらい冷たかった。
この川に沿って歩けば人里に辿り着くのではないか。生活排水が混じっているようには思えなったので、流れに沿って行くと、もしかすると、人に会えるかもしれない。
そう考え、日が暮れてしまっては大変なので、ぼくは立ち上がり、やや早歩きで、川に沿って動き始めた。
森の中は、心地よい騒音であふれていた。木々を撫でる風が、枝葉をこする音、川の流れる音、甲高い鳥の鳴き声。暑くもなく、寒くもなく、ただ少し湿度が高いことを除けば、そんなに悪くない。
しばらく歩いてみたが、景色はさほど変わることは無かった。ほとんど直線の小川は、幅すらも変えることなく、ぼくの歩行スピードよりも数段遅く、流れていた。
急に不安になってきた。もしかすると、進む方向をまちがえたかもしれない、この森はとんでもなく広い場所かもしれない、などと、次々とネガティブな思考が溢れてくる。
だめだ、パニックになっては――。
「――」
鳥の声、いや、違う。
どこからか笛の音が聞こえてきた。それを聞いた瞬間、ぼくは叫びたくなった。
誰かが笛を吹いている。
人が居るのだ。
でも、ここで叫べば変質者になるかもしれない。山男と噂されてしまうかも、というどうでも良い妄想が一瞬よぎった。
そういった雑念がやたらと頭を飛び交う。あの笛で遭難している人をおびき寄せて狩る危ない民族かもしれないと、いろいろな可能性を、ぼくの頭は冷静に妄想していた。
――行くしかない。
笛の音はやたらと明瞭に聞こえてきた。その場で回転してみると、聞こえてくる方向がきっちり分かる。
進んでいた方向の、斜め左からだった。足をそちらへ運んだ。
だんだんと密度が高くなる木々への不安を、進むための力に変換しながら進む。最後は走っていたかもしれない。
何度か幹に体当たりしながらも行くと、急に前方が開けた。
目の前には、恐ろしく巨大な、それはもうとにかく巨大な、木が鎮座していた。そのサイズのあまり、幹もそれ相応に巨大であり、まるで目の前にあるかのような錯覚を覚えるほどだった。
思わず後ずさりし、幹を目で下からなぞっていくと、頭はほぼ真上を向いた。頂点は、青い空気に遮られてしまい、ここからは見えなかった。
森の木々はこの巨大樹を避けているため、結果的にこの巨大樹の周辺は広場のようになっていた。
あまりの大きさに啞然としていると、その巨大樹の中に、白っぽい箱があるのを見つけた。
箱の近くには、長い柱、建物らしきものの一角。それに、細かいプロペラみたいなものが無数にある円柱の物体。それらを、あの規格外に太い幹が無造作に飲み込んでいる。
驚愕と混乱の最中、この圧倒的な存在感の質量に引き寄せられるかのように、いつの間にか巨大樹に近づいていた。広場をふらふらと通り過ぎ、巨大樹の根元にある、箱状の建物の残骸、その口元にいた。口の中は、逆光になっていて様子を窺いにくい。
建物と床は同じような材質でできているようだ。長い年月ここにあったのか、壁や天井は水が隙間を草が割って伸びていた。
音を立てないよう、入ってみた。
ここは建物の中のある部屋で、奥にはまだ何かがある様子が見えたが、途中で、この木が下から突き抜けてしまったらしい。壁があったらしい向こう側は、太さがまちまちな幹が昇っていくのが、壁の代わりになっていた。
何もないことが分かったので、外に出ようとその場から振り返ろうとしたとき、がらんどうの箱の中に落ちていた、砂利を踏みつける。がりっとした感触のあと、それはすぐに粉々になった。
音は、やけに反響した。
もう一度、砂利の音がした。しかしそれはぼくの足元からではなかった。
顔を上げて見てみると、笛を持った人影が、箱の口元に立っていた。逆光で、小さな人影であることしか分からなかった。
それを認識したその時、ぼくは一瞬だけ、身体の自由を奪われた。頭の先からつま先まで、電流が走ったあと、形容しがたい感覚とともに、めまいに近い余韻を受けた。
反射的に左目を抑える。瞼の裏の暗闇が、ぼこぼこと音立てて泡立っている。この感覚はなんだ? これは一体、何が起きているのだ。
一つ、息を入れると、めまいのようなものはあっさりと収まってしまった。顔から手を離して、再び人影を見据えた。
それは何もしてこない。見たところ、武器のようなものは持っていないようだ。
めまいが収まってしまって、どうすればいいのかわからない。そういえば、ぼくはこの世界の言葉を話せるだろうか。もともと話していた言葉は、何だっただろう。急にわからなくなってきた。声は出せるだろうか。
あれこれ考えているうち、影の人は笛を仕舞って、こちらに近づいてきた。ぼくは思わず後ずさりをした、ように錯覚した。実際は一歩も進んでも退いてもいなかった。
人影は、少女だった。
彼女はぼくより少しだけ幼く見えた。身長も低い。緑色の髪は肩につくかどうかの長さであり、癖なくストレートであり、風に従ってはためいていた。
左前に着けている、髪飾りが光った。丸の中に細かい模様と装飾が施されているようだ。
彼女は、立ち尽くすぼくの目の前まで来て、口を開いた。
「こんにちは、呼人さん。はじめまして」
幼くとも芯を感じさせる声。
彼女の発する言葉が、挨拶をしてくれた、ということが分かった。直後、ぼくの身体を縛っていた何かがすっと引いていく。
箱の中に、そよ風が吹いた。それが持って行ってくれたのだろう。変なものに意識が持っていかれていたのを、交換するようにして。
「わたしの名前はネロ。あなたのお名前は?」
名前。
そうか、名前か。
不思議な事に、名乗るという考えが出てこなかった。
それはどうやら、名前が分からなかったせいだった。というか、なにも思い出せなかった。確かにあったはずなのだが、どうしてもそれが思い出せなかった。
なにかそれっぽい名前がないものかと、すっからかんの頭の中を探っていくと、一つだけ、短い単語を思い出した。
「ぼくの名前は、シシ。シシって言うんだ」
――昔、そう呼ばれていた気がする。
そんな名前を、ここで生きるぼくの名前にした。
長いお付き合いになるかと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。