15.……終わりじゃない
毒の効果はある日突然に現れた。
つい昨日までは元気に料理をして、家の掃除もして、買い物にいってたりしていたのに、翌朝から体に力が入らなくなった。熱もなく、だるさもなく、頭痛もない。もちろん怪我もしておらず、感染症の症状も一切ない。
それなのに操り人形の糸がプッツンと切れてしまったかのように、力だけが入らない。
往診してくれた近所の医者は、私の症状に首を捻った。そして大きな街へ行ってしっかりと調べてもらうようにと告げて、手早く紹介状と書いてくれた。
それは良心的な対応だった。自分の手に負えないことを誤魔化したりしなかったのだから。
「先生、ありがとうございます!」
「ありがとうございました」
お大事にと言って我が家から去っていく医者に、私とジェイの言葉が重なる。
ジェイはたぶん気づいている、……これが毒の影響だと。
それなのに医者が書いてくれた紹介状を受け取ったのは、たぶん一縷の望みを抱いてだろう。
彼の目はまだ諦めていない。
でも私は違う。ここでそれを受け取らずにいたら、親切な医者は納得しないと思ったから、形だけ受け取ったのだ。
――残り少ない時間を無駄にしたくない。
数年前に診てくれた毒に詳しい医者はこう言っていた。
人によって出てくる症状も余命も異なるが、一番良い最後は『ある日突然体から力が抜け、物理的に苦しむことなく数日のうちに安らかな死を迎えることだ』と。
それを聞いた時、毒によって死ぬのに良い最後なんて随分と無神経な言い方だと、内心では思っていた。
けれど、今なら分かる。
あの医者の言葉はある意味的確だった。
私は苦しまずに逝けて、弱っていく私を見て苦しむ大切な人をずっと見続けずにすむ。
そしてなにより、愛する人に介護や金銭的な負担を長期間強いることなく、開放してあげられる。
死ぬ者と残される者、どちらにとっても、これが一番良い最後なのだ。
ふふ、自分の馬並みの健康体に感謝だわね。
クスリと笑いながら、のんきにそんな事を思っていると、ジェイが一番大きな鞄に黙々と洋服を詰めているのに気がついた。
彼は大きな街へ行く仕度をしていた。
「ねえ、ジェイ。そんなこと必要ないわ」
「シンシアは休んでいてくれ。俺が準備はするからっ」
私のほうを見ずに彼はそう答える。
彼の気持ちが痛いほど伝わってくる。君を失いたくないっと、その大きな背中が叫んでいる。
本当なら彼の気が済むまで付き合ってあげたい。
でもその時間は私にはもうない。
ごめんね、ジェイ……
残り僅かな時間を、ここでジェイと一緒に過ごしたい。
何をするでもなく、いつも通りでいい。
――だってそれが私にとって幸せなのだから。
私は幸運にも『良い最後』で終われるようだから、その時が来るまでこのままがいい。
諦めたわけではない。
私は欲張りだから、最後の最後まで、愛する人の隣にいたいだけ。
「この毒には治療法はないわ。それはあなただって分かっているでしょ?行っても無駄足に終わるだけ。それならここにいたいの」
「でも、シンシアっ――」
「あなたの隣がいいの」
私はジェイの言葉を遮って、最後のお願いを口にする。
普段通りの口調で、『ちょっと帰りに牛乳を買ってきてね』というのと同じように告げた。
だって平凡な毎日が幸せなのだから、何も変える必要はない。
――何ひとつ変えたくはない。
私は幸せだった。
ねえ、そうでしょ? ジェイ
でも、私は彼を幸せにできたのだろうか……
彼を残して逝くことは分かっていた。
私も彼も最初から承知のことだった。
それでも、彼に申し訳ないと思ってしまう。
一緒に歳を重ねて老いることが出来ないことが、彼の子を産んであげられずに一人ぼっちにしてしまうことが…。
「そんな顔するなよ、シンシア。俺は幸せは君の隣にしかない。……そうだな、これはいらないな」
そう言ってジェイは、手にしていた紹介状をビリビリと破り捨てた。
自分の選んだ道に後悔はないと、自分も幸せだと、私の気持ちを察して伝えようとしている。
「ジェイ、……ありがとう」
微笑みながらそう言う私に、ジェイはそっと口づけを落とす。最初は額に、次に髪に、そして頬に…それから唇に。
私がまだここにいるのを、確認するかのように何度も何度も繰り返していく。
そして私も彼に手を伸ばす。
――お互いに、何も変えなかった。
一緒に笑って、たくさんお喋りをして、愛の言葉を囁く。
いつもと違うのは、私がベットの上にいることだけだ。
ただそれだけ……。
その日はなんとなく予感がした。
この世から旅立つのが、もうそろそろかなって感じたのだ。
とくに変わったことはなく、相変わらずに体に力が入らないだけで痛みもない。でも分かったのだ。なんでと問われても上手く答えることは出来ないだろう。
なんとなく分かるみたいね……
もしかしたら神様が別れの言葉を告げる時間を与えようと、気を利かせてくれたのかもしれないなと思った。
……そんな必要はないのにね。
私とジェイは最後までいつも通りでいい、……違う、いつも通りがいい。
――だから何も言わない。
私に代わって家事を済ませたジェイが、ベットの脇に置いてある椅子に座る。彼は時間が許す限り、こうして私の側にいてくれる。他愛もないことを話して、ゆっくりと二人で時間を紡いでいく。
「またジェイが泥だらけになっていたよ。全く、何度注意しても止めないんだから」
「ワンワンッ!」
ジェイがぼやいていると、その足元で犬のジェイは嬉しそうに尻尾を振っている。体が濡れているのは、ジェイに泥だらけになった体を洗われたからだろう。
「ふふ、名前が同じだと性格も似るのね。不思議だわ。人と犬なのに、人種どころか種を超えてる」
「…似てないからなっ!俺はコイツみたいに、お馬鹿じゃないぞ」
「でもジェイも小さい頃は毎日のように泥だらけになっていたわよ。忘れた?」
「……忘れたい……」
私がそう言って笑うと、犬のジェイもそれに合わせるかのようにワンワン♪と声を上げる。
ジェイは私の額にコツンと自分の額を合わせて、『もう忘れて…』とお願いをしてくる。
忘れない、どんな些細なこともあなたのことは…。
私は柔らかく微笑んで誤魔化す。忘れたくないとは言わなかった。
――もう言えなかった。
さっきまで、本当にさっきまで普通に話が出来ていたの、唇が上手く動かなくなっていた。体と同じように……。
でも私はまだ微笑める。
最後のその瞬間まで、この表情で想いを伝えられる。
……良かった、ジェイ。
ジェイは笑顔を浮かべながら、私に話し掛け続ける。私が返事を返さなくとも、話を止めることはない。
私が大好きな彼の笑顔。
何よりも大切にしてきた彼との時間。
――彼は何ひとつ変えずにいてくれる。
彼も気づいている。
もう私が声を出すことが出来ないことを。
別れの時が、すぐそこまで迫っていることを。
それでも私の為に、私がそれを望んだから、いつも通りに笑顔で話し続ける。
「明日はさ、一緒に川で釣りをしよう。大丈夫、俺がシンシアを抱いていくからさ。大物を釣るから見ててくれ」
「……(うん、見たいな)」
私はゆっくりと頷く。
よく一緒に釣りをしていた。彼が釣って、私がそれを串に刺してその場で焼いて、二人で美味しくいただいた。
楽しかったな…。
「それからさ、明後日は花を見に行こう。確か、あの黄色い花が見頃だよなー。毎年この時期に二人で一緒に見に行っていただろ。シンシアが花冠を作って俺の頭に載せてくれた…」
「……(ふふ、嫌がっていたわよね)」
私は作った花冠を『私の王子様だから』と言いながら、毎年ふざけてジェイに被せていた。彼は恥ずかしいからと嫌がっていたけど、決して花冠を自分から取ることはなかった。
『シンシアの王子様なのは、本当だからなっ』と照れながら言ってくれた。
今年も作りたかったな、私の王子様に……
そして彼に花冠を載せてから、彼の頬に自分から口づけをするの。
いつもなら恥ずかしいけれど、その時だけは少しだけ大胆な自分になれた。
それから彼はいつも通りに、口づけを返してくれて、お互いに愛を囁く。
……今年はもう、それもない。
「俺だけがシンシアの王子様だ」
「……(う‥ん…、そぅ…ね…)」
答えたい、でも言葉はでない。
微笑みたい。
……微笑めているのかな。
それすら、よく分からなくなっている。
でも彼の顔だけは見える。
彼は笑っている、………そして泣いている。
「これからもずっと変わらない」
「……(…ぅ…ん…)」
彼はきっぱりとそう告げてくる。
もう何も見えないけれど、愛しい人の声は聞こえている。
…忘れないわ、この声を。
もっと聞いていたいけど、たぶんあと少ししか聞けない。
「慌てて生まれ変わらないで、待っていて。今度は俺が先に生まれるからっ!そして先に大人になって、俺の腕の中で思いっきりシンシアを甘やかして、一緒にじいさんとばあさんになって……」
「……(…ぇぇ、…)」
私を強く抱きしめているのはジェイ。
見えなくても分かる、これは愛しい人の腕。
――ここが私の居場所。
「だからっ…!絶対に俺を持っていて…お願いだ、シンシア…っ…。俺の側から離れないでくれ」
「……(……)」
ずっと待っているわ、あなたのことを。
あなたの側にいるから、ずっと……
あなたが望んでいてくれる限り、私の居場所はジェイの隣よ……
「シンシア、愛してっ…い…る…よ」
…ゎた…し‥、も……
最後の瞬間まで、私は幸せだった。
死は怖くない。だって来世の幸せまで私には約束されているから…。
ジェイ、今度は一人で残したりしないからね。
ちょっとだけ先に逝くけど、慌てて追いかけたいしないで…。
「くぃーん…」と寂しそうにジェイが鳴いている。良かった、ジェイは一人じゃない。手が掛かる犬のジェイが彼の側にいてくれた。
あと一話で完結です、最後までお付き合い頂けたら幸いです。