怨嗟の混沌
那智の春道は旦国寺の石段を駆け下りた。
前方にかがり火が焚かれ、大宮桃龍の氏子が立ちふさがっている。
「那智よ、逃げる気か!」
柘植重衛が立ちふさがるも、その脇をひらりとかいくぐり、南瓜畑を駆け抜けて大通りに出た。そのままゲートを目指して走る。
「那智が逃げるぞ」
「放っておけ」
「そうじゃ、去る者追わず」
すれ違う男の声など意に介さず、ゲートを抜けて下山する。
(何が俺をこうさせる)
春道は自分でも何故、このような行動に出たのかわからない。ただ、天空雨の丞との契約を履行するに、えもいわれぬ抵抗感を感じた。
森の中の坂道を下る。先行する下半身に上半身が引きずられて行くようだ。一瞬でも気を抜けば、糸一本程で支えられたバランスが崩れ、そのまま急な坂道を転がり落ちて行くだろうという猛スピードで駆け抜け、やがて住宅街に入るとようやく、体が地面から垂直に伸びるようになると、今度は前傾姿勢になって、まるでクワガタムシのような不細工な恰好になりながら走る。
東京極通りに出ると、赤信号も意に介さず、横断を試みた。南から走って来るトロリーバスのクラクションが夜空に響く。作務衣の袖にそのバンパーが掠ったのを認めた頃には、ガードレールを飛び越え、西に向かう路地に飛び込んでいた。交差点を五つほど超えると、目の前に清水川が広がった。空には甲羅町通りの繁華街が放つ光が、水平線のようにぼんやりと浮かぶ。その中に無数の喚き声が光をかき消さんばかりに響き渡っていた。
春道はその光景すら確かめぬまま、土手に向かう下り歩道を挟むスチールの手すりを飛び越え、のぼりを掲げた観光協会の法被の群れに飛び込んだ。空中にその身を浮かせたその目下、岡莉菜が飛びかかる協会部員を振りほどいている。春道は部員の頭上を襲うと、二、三人を巻き込んで、地面に転がった。そうして、うつ伏せになったところで、糠床に閉じ込められた古漬けように、目の前が真っ暗になった。背中に漬物石がずんずんと積まれて行くような感覚に襲われる。頬が石畳に擦りつけられ、肌が削られて行くのがわかった。意識を失ってなるものかと、目を見開いて歯を食いしばった。しかし呼吸はままならず、視界を支配する暗闇がぼんやりと灰色に染まり始めたその時、宇宙を遊泳しているのかと思うほど、背中が一気に軽くなった。あるいは一瞬、死んだか、と考えた。が目の前の灰色は澄み渡り、水面の向うに建物の光が点々と見えた。その傍らには岡莉菜の太い脹脛。春道に覆い被さっていた部員たちはその人山の横っ腹から岡莉菜に突進され、四散して呻いている。
「すまん、助かった」
岡莉菜は無言。視線の先には観光協会の幹部が真打登場とも言わんばかりに、臨戦態勢に入っている。幸村が羽織を脱ぎ、高山が首を回し。沢井が舌なめずりながら肩を揺らしている。
「てめえ、何しに来た!」
息を切らせながら天空雨の丞が近づいて来た。「まさか今更、碧小夜を出し惜しむ気じゃねえだろうな」
「悪いが、やっぱり碧小夜は俺だけのもんだ」
「おいおい、ここまでどれだけ骨を折ったと思ってんだ。冗談じゃねえぞ」
「なんじゃい、この期に及んで女の取り合いか。そんなこと、この状況を打破してからやれ」
「大山、何でお前がいるんだ。関係ないだろう」
「やかましい!碧小夜が絡んでるとなれば、儂も一枚噛んで然るべきじゃろ。それにあの男も黙ってそうにないぞ」
そう言って大山は河原に橋に立っている男を指さした。
「さっきまで飼い犬のようぼんやりと戦況を見とったが、お前が来たとたん、顔色が変わったぞ」
犬若はまるで幹部たちを制止するかのように、彼らに背中を向けて立ちふさがった。
「あれは抜いてもいいんですか?高山さん」
「ああ、南瓜が存在する現場にいるんだからな。奴も現行犯だ」
もしも、自分も生殖機能を失えば、昔のように戻れるのだろうか、と春道は考えた。まだ幼かった頃、犬若も自分も、碧小夜はただの幼馴染であり、女という認識はなかった。もちろん、犬若を恋のライバルなどと考えた事もなかった。今、自分が男としての機能を失えば、今後、彼女を女として見ることはなく、子供の頃に抱いていた三人互いの感情が取り戻せるのではないか。否、犬若は未だ、碧小夜への慕情がある。自分も同じ慕情を抱き続けるとなると、種無し男の奪い合いの渦中に嵌り込んだ碧小夜にとっては甚だ迷惑な話で、余計にややこしい。
もはや、あの頃に戻れんな。それならば、抜かれるのは御免被る。
「退却、退却うーっ!」
踵を返して土手を駆け上がろうとした春道に、頭上から「おのれ、那智!」という怒声が降り注ぐと同時、人間が飛んできた。春道がその体を受け止める形になり、背中から斜面に倒れるとふたりがもつれ合うように坂を転がった。
(常夏の野郎!)
と春道が立ち上がって反撃を試みた瞬間、まだ横たわっていた笠子の頭を巨大な大岩のような物体が踏みつぶした。そのまま笠子に馬乗りになった岡莉菜は、躊躇うこともなく、器械的に彼の頭を右から、左から、何度も殴り続けた。遠くから悪党子の悲鳴が聞こえた。唖然とする春道の横で、「お、おい、殺してしまうぞ!」と大山が呟いた時、幸村、高山、沢井が岡莉菜の背中めがけて飛びかかる。
「お、おい、逃げるのは今だぞ!」
雨の丞の声に我を取り戻したが、その時、すでに追っ手が春道を攻撃の射程圏に捉えていた。空中からの蹴りを間一髪かわすそのまま、横殴りに振った右の拳が、自分でも驚くほど綺麗に犬若の左頬を捉えた。それは紛れもない、まぐれ当たりだった。吹っ飛んだ犬若も立ち上がった後、少し驚いたような表情をしていた。運動神経なら負けないという自負があったのだろう。ふたりは睨み合った。
「待て待て!犬若よ、お前、こいつに当たるのは筋違いとちゃうか。そらあ、悔しいじゃろう。羨ましいじゃろう。だが、こいつがお前に何かしたか?お前を嵌めて観光協会に売ったような事実もないやろうが!儂はお前の気持ちはわからんし、気の毒やっとしか言えんが、とりあえずええ加減にせえ!」
大山はそう言い終わると、「はい、お前の言いたいことを代わりに言うてやったぞ」と澄んだ目で春道を見た。お前が負い目を感じることはない、その目がそう言っていた。有り難かった。それはもう、有り難かった。
春道は「うおおおお」と奇声を上げ、犬若に突進した。そうして犬若の左頬を殴りつける。大きなモーションで殴り掛かったので、避けようと思えば避けられただろう。だが、犬若はまともに喰らった。しかし、今度は倒れなかった。殴られ右に振られた大勢を反動にして、今度は春道の左頬を殴りつけた。春道も倒れず、同じように反動をつけてまた、殴り掛かる。
「いや、開き直るな!そういうこっちゃない」
大山が慌てた時、その後方もまた、大変な事態になっていた。血まみれの幸村、沢井、そして協会の幹部たちが、両腕と両足、そして腰に両脇を六人がかりで押さえられた岡莉菜が引き立たされて奇声を上げていた。空に満月が浮かんでいる。その姿はまるで狼男のようだ。
橋の上から覗く人々の騒めき声に交じってパトカーのサイレン音が聞こえてきた。パトカーは緊急事態のみ、葦原京街への乗り入れが許可される。
その音を合図にしたかのように、高山紫紺が注射器を取り出した。観念したかのように見えた岡莉菜がそれを見て、再び体を捻って暴れた。更に四人の部員が飛び掛かる。
後ろから岡莉菜を羽交い絞めにしている幸村が「よし、やれ!」と号令した。高山が、沢井が抑える右腕に注射器を刺そうとしたが硬いタイヤのゴムのような皮膚に阻まれて上手く刺さらない。それどころか、針が曲がる有様だ。
「くそが!」
高山が部員から新しい注射器を奪い取り、もう一度刺すも駄目。
「場所を変える」
そう言って高山は太った部員を呼んで何やら命令をした。
「早くしろ!こっちももたん」
幸村が叫ぶ。
太った部員はその場にしゃがむと、岡莉菜の作務衣のズボンの腰に手を掛け、勢いよくずり下げると露わになった睾丸を牛の乳でも絞るかのように、丸い部分がむき出しになるよう親指と人差し指で挟むようにすると、高山が素早くその丸い睾丸に直接、針を突き刺した。岡莉菜は暴れに暴れた。押さえつけていた部員をひとり残らず振り切り、股間にいた高山の顔面を膝で蹴とばすと、前方へ突進しかけたが、降ろされたズボンが邪魔になり、間抜けな恰好で頭から地面にずっこけ、しかしもう一度立ち上がるとズボンを上げて河原を南に走り去ってしまった。
血がしたたり落ちる鼻を押さえながら立ち上がる高山に幸村が、「抜けたのか?」と訊ねた。
「わからん。注入しきれなかった」
高山が落ちた注射器を拾い上げて残った薬液の分量を確かめた。注射筒に三分の一ほど、薬液が残っている。
そらから間もなく、パトカーが五台、六台と土手の上に泊まり、中から警官が続々と、河原に降り立った。
まず、お互い無防御で殴り合っていた春道と犬若が引き離された。両者、頬も瞼も青くはれ上がり、鼻や口から血がしたたり落ちて、もはや誰だかわからぬ顔になっていた。警官に両脇を支えられながら、ふたりとも土手を上がって、後から来た救急車に収容され、手当てを受けた。お互い無言のまま止血され、絆創膏を貼られる。
そういえば幼い頃、こうやって並んで獏爺に絆創膏を貼ってもらったことを思い出した。普段は大人しい犬若が珍しく逆上して殴り合いになったっけか。原因は何だったかな、と春道は考えていたが思い出せない。そういえば結局、犬若が何で怒ったのか、わからないままなんじゃなかったか。
犬若もまた、同じ事を考えていた。彼は原因をはっきりと覚えていた。そして、傍らでその様子を眺めていた碧小夜のことも。彼女は口に手を当てていたが、何かその目が微笑んでいたような感じがして、幼い犬若は恐ろしく感じたこともはっきりと覚えていた。
「お前はもういいだろう、来い!」
木村刑事に呼び出され、手当ての終わった春道は立ち上がり、救急車の後部から外に出ようとした。ふと、後ろを振り返ると、犬若は前を見据えたまま、何の抵抗もせずにオキシドールを顔に塗られていた。
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