薄壁の向こうの密会
葦原京の市街地に入る頃、雨の丞は再び、南極亭常夏の背中を捉えていた。住宅街を通って、寺社がつらなる東京極通りを越え、路地を西に歩いて行く。やがて、上条大橋の東詰めにたどり着くと、交差点の北東にある公衆トイレに入って行く。
東の路地の陰から雨の丞が見張っていると、暫くして常夏が出て来た。
危ないところであった。
というのも、彼は着流し姿になり、丸めていた背中もしゃんと伸ばして、今までとは歩き癖さえも違う、颯爽とした態度で横断歩道を渡って行く。眼鏡もつけていないし、寝起きのようだった髪の毛も、綺麗に撫でつけられていて、まるで由緒ある呉服屋の若旦那のような出で立ちになっていた為、抱えた風呂敷と不釣り合いなリュックが無ければ、それが彼だと気が付かなかったかもしれない。歩いているとやはり、どうもその着流しに合わないリュックを気にしているようである。
常夏は上条大橋を渡ると、上条通を更に西へ進む。二十分ほど歩いただろうか、辿り着いたのは直角堂という葦原京の中心の中心と言われる古い寺だった。彼は南の大門から中に入ろうとして、一瞬立ち止まり、袖からスマートフォンを取り出して何やら確かめるように画面を見た後、踵を返した。雨の丞は咄嗟に対面の長屋の陰に隠れた。
常夏は狭い道路を横断すると、堂の対面にある低いビルに入って行って、すぐに出て来た。彼はリュックを持っていなかった。それを見た雨の丞が拳を強く握る間に、常夏は境内に入って行く。たくさんの観光客が行き来している境内の西の脇に、茶屋があった。赤い緋毛氈を掛けた縁台が並んでいる。その南端の縁台に彼は腰かけた。境内の南東の端の端の隅っこで大変、見晴らしがよく、境内全体が見渡せる。雨の丞が迂闊に境内に入れば一瞬で発見されてしまうだろう。
雨の丞は一旦その場を離れると、寺の土壁に沿って東に回ってみた。すると、壁に小さな古い木でできた扉があるのに気づいた。関係者出入り口という張り紙がしてある。数センチほどの小さな長方形の取っ手が付いている。雨の丞がそれを抓んで右に引くと、開いた。扉を押すと、小さな小屋の裏手だった。小さな小屋は常夏がいる茶屋である。雨の丞はほくそ笑みながら中に侵入した。
茶屋と土塀の間は約人ひとり分の幅ほどで、瓶ケースや凹んだアルミのバケツ、汚いジョウロなどが無造作に置かれている。箒やブラシなども転がっていた。雨の丞はそんな放置物を避けながら進んで行き、茶屋の建物とその南側に面した土壁の隙間を覗くと、常夏の左肩がちらほら見えた。
雨の丞が暫くじっと視線をその隙間に注ぎ続けていたその時、長い影が一瞬横切ったのが見えた。
(来たな)
その影は見まがうことはない。観光協会の隊服こそ着てはいないが、上下とも黒のラフな格好で通り過ぎた男は高山紫紺で間違いない。
何とかこの隙間に入り込み、二人の会話が聞こえる距離まで接近したいと考えた。が、このような隙間に挟まっていては、いくら境内の端の端とはいえ、往来する人間の目に留まる。
辺りを見回すと、小屋の裏の反対の隅に、小さな段ボール箱が三つ、あるのが見えた。業務用の団子でも運んで来た箱だろう。その奥行の寸法が丁度、この隙間にすっぽりと入りそうだ。雨の丞はその箱を三つ縦に積んで、隙間に壁を作ると体制を横にしてカニ歩きになりながら、段ボールとともに前進した。しかし、高さが足りない。首から上が出てしまっているので、寝大仏のような恰好で横になった。彼の頭の先は常夏の背後一歩の位置である。耳をすませた。会話が聞こえて来る。高山の低い声と、常夏の小さな羽音のような声がしっかりと捉えられる。
「十七日の二十時、二十一日の二十三時、それだけか?」
高山の問いに、「はい、日時まで特定できたのはこの二日間だけです」と常夏が答える。
(当たった)
雨の丞の鼓動が軽い段ボールを揺らすのではないかと言うほど高鳴った。
「相手は?」
「どちらも二名ずつで営業に出る。四人とも若いが大した奴はいない。伍長クラスで十分片付きますよ」
「ここ最近は捕り物が少ないな。喜ばしいことだが、もの足りない」
「これからが収穫時期ですよ。忙しくなるでしょう」
それを聞いた高山は「なるほど」とくっくと笑った。
「スマホで情報をくれれば助かるのだが」
「村に電波が無いので。全く不便です。ところで、高山さん。あの話は考えて下さいましたか?」
「あの話?」
「もうそろそろ、本隊に合流したいって話ですよ。俺もそう長くは正体を隠せない気がするんです。岡莉菜を調略して以来、村民は高揚している。何か、大きな自信を付けたかのように。特に、那智の春道、天空雨の丞あたりの若い衆は頭も切れる」
「しかし、まだ早い。今はもっと働いてもらいたい」
「那智の野郎が、千奈を犯そうとしやっがた」
「なんだと」
「俺は奴を許せねえ。このまま村にいれば、奴の寝首を掻き切ってしまうかもしれませんよ。野郎の顔を見ると、理性では抑えきれない怒りが沸いてきます。高山さん、これは約束でしたよね?妹に危険が及ぶようならこの任務は退かせてもらうと。あれは多少の護身の心得はありますが、それも気休めにしかなりません。おまけに岡莉菜がいる。奴は千奈を攫った前科がある」
「しかし、お前と千奈のふたりで笠子慎之助だ。ひとりが欠けては得られる情報も半減する。今は村の男社会と女社会の両方から上手く情報が引き出せている絶好の環境だ。もう暫く我慢してくれ」
「俺は」と、常夏、否、笠子慎之助は呼吸を置いて覚悟を決めたように言った。「千奈に何かあれば、那智であろうが、岡莉菜であろうが差し違える覚悟です。その時は命を賭けて千奈も開放し、二度と観光協会には戻らない」
ドンっという衝撃が走り、雨の丞は高鳴る鼓動が止まるような思いがした。
高山は後部の壁を叩いた拳をゆっくりと下げると立ち上がり、砂利を蹴りながら境内から出て行った。
直角堂を出た笠子慎之助は、東へ引き返し始めた。天空雨の丞も後を追う。昼も短い季節になり、日が落ちる時間も早い。
(最高の結果だ)
雨の丞は思った。最悪の結果とは、笠子が今夜の取引の件を高山の報告することである。もし、このことが高山紫紺、如いては観光協会全体に露見すれば、観光協会の結束に大きなヒビを入れることができる最高の結末が破たんすることになる。
(脅し文句が効いたな)
雨の丞は、悪党子こと笠子千奈を、あの一言で人質に取ったと言っても過言ではない。これは旦国寺猫の坊の卑劣な策略である。南極亭常夏と悪党子の関係は、単なる宮女と氏子の関係ではないと、あの僧侶は見抜いた。
「そこには愛がある」
猫の坊は旦国寺の山門から葦原京を見下ろしながら目を細めて言った。気色の悪い言葉をどの口が宣うのか、と雨の丞は吐き捨てたが、そこには確かに愛があった。それも、血肉の繋がった愛である。これで更に状況を好転した、と雨の丞は考えた。愛情が深ければ深いほど、人質としての重みは増す。
―しくじった時は悪党子がどうなるか知らねえぜ―
千奈の身の危険を想えば、高山に今夜の取引を漏らすことはない。上手く協会の目を潜り抜けて取引を成立させれば、とりあえず妹の身の安全は確保される。
(あの糞坊主め、素晴らしいじゃないか)
上条通の繁華街を笠子慎之助は東へ歩く。約束の場所に向かっているが、時間はまだ早い。雑踏に紛れて雨の丞はその背中を追う。
やがて上条大橋を渡ると、笠子は交差点をさらに東へ渡り、南東の角にある過剰に和の雰囲気を強調した大きな瓦屋根に白壁造りで聳える建物に入って行った。入り口に幾つかの上りが立ち、スタンド看板にポスターが貼られている。落語、歌舞伎、狂言やその他の舞台が毎夜、繰り広げられる上条座という演芸場だ。
(今度はまた、落語家になるのか。器用な男だ)
ポスター隅のほうに、歌舞伎文字で「南極亭常夏」と書いてあり、扇子を掲げながらひょっとこのような顔をしている彼の写真があった。
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