碧小夜の真実と春道の転落
残暑が再び舞い戻ってきた日の午後、那智の春道は旦国寺を参り、仏前で長らく黙想した後、山を下りて、その足で高天の宮に入り、大宮桃龍への拝謁を請うた。
前室で長らく待たされている間、春道はずっと平伏していた。
前室の中はとても蒸している。汗が畳の上にぽたぽたと落ちた。その汗が暑さによるものなのか、はたまた別のものなのか。おそらく後者であろう。彼は進退を極めるほどの致命的な嘘がばれた時のような、悪寒すら感じていた。
やがて、奥の襖が空き、大宮桃龍がぴたりと脚に張り付いた黒いスポーツタイツにキャミソールという何ともラフな格好で現れた。
「折り入って話って、何だい?」
桃龍は平伏する那智の春道のうなじをめがけて冷たく言った。覚悟はしていたつもりだったが、いざとなると春道は心臓を掴まれたように言葉が出てこない。桃龍を説得すべく、数週間前からあれほど綿密に言葉を選び、話す順序や流れを考えていたのに、夢南瓜の葉巻で脳を燻されたかのように、頭が真っ白になって、何から切り出せばよいのかわからなくなった。
「あの…」と言ったまま、次の言葉が出てこない。
適当な世間話をして、本題は後日に持ち越してしまいたいと思った。
が、「引き下がるな、馬鹿垂れ!ここで逃げても恋の炎が勢いを増すだけやぞ!お前の心を焼き尽してしまうど!」と、もうひとつの理性が押し留めた。その理性はどことなく、大山大和の形をしている。
そこで、彼は閃いた。このことは本題にも大きく関わることなので、聞いておいて損は無いと思った。その結果如何では、碧小夜のことを綺麗さっぱり諦められる、あるいは、こっちから願い下げだと言わんばかりに、胸を焦がす恋の炎を瞬く間に鎮火して、何の蟠りもなく明日も大宮氏子筆頭としてのうのうと生活できるかもしれない。猫の坊が自分を殺しにくるかもしれないが、あんな老いぼれ変態坊主、返り討ちにしてくれる。
「私には聞いておきたいことがあります」
「言ってみな」
桃龍の口調は、彼のまどろっこしさに苛ついたのか、少し怒気を含んでいた。春道は頭を上げた。
「碧小夜が室戸を波羅愛したのは本当に、村で噂されているようなことがあったからですか?」
「噂とは、室戸があの娘を腕づくで押し倒してという噂か?」
「はい」
「事実は違うと申すのか?」
「事実なら事実でいいのです。しかし、事実ならば室戸には然るべき処分をすべきではなかったですか?波羅愛しただけでは甘すぎる」
「だから天罰が下ったではないか。あの男、種無しにされて、気がふれたらしいな」
「ええ、今は豚箱の中ですよ」
フフシル事件の日、生殖機能を奪われた室戸の陰松は、「まんせーる?まんせーる?」と訳の分からない事は繰り返し、叫びながら御玉通りから甲羅町通りを、行き交う人々を無差別にとび蹴りを喰らわせながら駆け抜け、手ごろな居酒屋に乱入すると、大学生の飲み会に乱入して作務衣を脱ぎ捨てた。そうして、テーブルの上に仁王立ちすると、「だからだれですかー、おれにやさしく毛布をかけてくれるのは!いまさむい、かけてくれぬか」と喚きながらその場にいた若い女性に、ぶらぶらぶら下がったものを振り乱しつつ飛びかかったものだから、周りの男からボコボコにされた挙句、傷害罪、公然わいせつ罪でしょっ引かれた。
「あいつが言ったのです。碧小夜は恐ろしい女だと。そのことから考えても、噂が事実だと言われても釈然としないのです」
「あの娘、室戸を刺したのよ」
「えっ?」
「恐ろしい娘なの。碧小夜はね、恥辱的快楽に溺れる男の姿には何も感じない。それよりも視覚的に猟奇的な苦痛を捉えることで、あの娘は快楽中枢を刺激される。男が悶えれば悶えるほど、苦しめば苦しむほど、あの娘の鼓動は高鳴り、血沸き肉躍る。性行為が始まると恥も外聞もなく喘ぎ叫ぶのと同じように、彼女もタガが外れると自ら加虐することも厭わない。理性を失い、果てしない責め苦の付与を求めるのよ。それが生々しければ生々しいほど、ドーパミンがあふれ出す。地獄の鬼みたいなものね。あの夜、男の悲鳴が聞こえたのと同時に、禿が飛び込んで来たので、私たちはふたりの誓約の場に駆けつけた。そこには太ももにナイフを刺さされて血をながしながら気絶している室戸がいた。分娩台で開いた両脚の間から血が滴り落ちていて、本当に出産したみたいだった。その前で、碧小夜は笑っていたの。本当に、嬉しそうに。美味しいお菓子を食べた子供のように、そして彼女はもっともっとって言って、おかわりを欲した。ナイフを抜いてまた振り上げる。そこで大玉引きや極楽導師が割って入って無理矢理ナイフを取り上げた。碧小夜は泣き喚いた。成熟した娘が、お菓子をもらえない子供のように泣いてダダをこねるの。もっと見たい、血を流して苦しむ男を見たいと泣くのよ。こんな娘に氏子は与えられない。私はその時、そう決めた。だって、殺してしまうもの、あの娘は」
「ではまるで室戸は悪くない」
「しかし、あの男は受けいれたのよ。自分が罪を被るから碧小夜のほうから自分を波羅愛してほしいと。自分が罪を被る代わって碧小夜、あるいは高天の宮の面子に傷をつけぬようにするから、この村には置いてほしいと」
「私は受けいれらますよ。碧小夜の全てを。私を碧小夜の氏子として頂きたい」
春道は眼下の畳に吐きつけるかのように言った。腹を括って切り出した、というより、思わず、口に出したと言ったほうがいい。人間、腹が括れていなくとも、いざという場になると、勢いで流れて行くものだ。しかし、結果はいつも好ましく転がるとは限らない。
恐る恐る顔を上げると、そこには人食い女鬼にような出で立ちでこちらを見下す桃龍がいた。春道は再び、頭を畳に擦りつけた。
「あんた、自分で何を言っているのかわかっているのかい?氏子が大宮を波羅愛しようなんて話、聞いた事がないよ!」
「底なしの無礼を働いているのは百も承知!しかし、燃え上がった恋の炎に、我が身を顧みず飛び込まずは、一生の悔いとなるのです!」
「何を言っておるのだ、お前は」
「ははあ」
春道は弱々しく、呻いた。
「お前はわたしの顔に泥を塗ったね。もう後戻りはできないよ」
「…」
「しかし、お前は今までわたしの氏子筆頭として立派に勤め上げてきた。有沢事件と言い、今回の碧小夜の件と言い、日ごろの営業も含めてよう働いてきた。チャンスをやろう。碧小夜がお前を望むなら、認めてやろう。例外中の例外だ。あくまで、お前だからこそだ。碧小夜を呼んで参れ!」
やがて、禿の少女に連れられ、碧小夜が部屋に現れた。西日を背に、白い浴衣だけが、そこに浮かんでいるように見える。
「那智の春道が以後、お前の氏子として精進したいと願い出てきておる。碧小夜よ、お前の意思で決めるがいい。わたしに遠慮はいらんぞ」
碧小夜は沈黙した。春道は畳のい草を右から左に目で追いながら、今すぐ結論は聞かなくてもいい、考えさせてほしい、という保留の回答を望みながら待った。今ここで結論が出たとすれば、どこかに傷がつくからだ。
しかし、その願いもむなしかった。
やがて碧小夜が、小さな声で、「お断り、致します」と言って頭を下げ、退出した。
後に残された平伏したままの春道を残し、桃龍は「金輪際、たれの氏子となれるとも思うな」と言い残して、奥の間への襖を閉めた。
差し込む残暑の熱が、春道の背中を熱くした。
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