覚悟の変身
「儂は大宮様にその夜、起こった事の全てを告げた」
獏爺の独白を、碧小夜は隣に座って聞いていた。正面で旦国寺猫の坊が腕組みをしてい て、脇の砂利の上に、春道が胡坐を掻いて俯いていた。
離れた場所にある鳥居の左右には北野修郭斎と牛飼いの譲、江州悪源太が立って、観光協会の帰陣に神経を尖らせながら見張っている。
突然、騒ぎ声が聞こえたので皆が一斉に身構えたが、酔っぱらった若者が通り過ぎただけであった。
獏爺が改めて話を始めた。
彼は去勢されたが故に村を去ったかと見せかけ、葦原京へ舞い戻った。犬若の行方を探し始めたのである。見つけ出せる可能性は低いと思った。絶望の淵に立ったまま、風のように遠くへ消えたかもしれない。あるいは、最悪の事を、彼が自ら命を絶つということも考え た。彼の精神的危うさは、獏爺もよく知っている。
犬若は碧小夜や春道と一緒にいる時も、何か見えない壁の外にいた。その壁のドアを開いてのぞき見しながら笑ったり、冗談を飛ばすこともあったが、ドアを閉ざすと空気のようになってしまう。遠くをぼんやりと眺めていたり、俯いたまま動かなかったり、そんな時、獏爺にはまるで、彼が自分にしか見えない妖精のように見えた。
「あいつは聖女無天村に己の居場所を見いだせなかったのかもしれない。あいつは自分の意思で村にいたのではない。物心ついたらそこにいたというだけじゃ。それは今も変わらず、観光協会に身を置きながらも、果たしてここが己の身の置き所なのか、自問自答しているのかもしれない」
「それは俺も同じだ」
春道は何だか自分が、何も考えていない馬鹿のように思えた。
葦原京へ降りた獏爺は冬木何某という数件の飲食店を経営する男から、空き家になっていた古い町屋を間借りして過ごした。冬木氏は夢南瓜を愛好する懇意の客である。
町屋での生活を始めてひと月ほどしたある晴れた日の昼下がり、獏爺は犬若の、思わぬ姿を目にすることになった。
着流しを着て、剃り上げた頭を隠すためにハットを被り、ひと昔前の老紳士のような恰好で街を歩いていると、観光協会の集団に出くわした。獏爺は俯きながらすれ違い、連中が通り過ぎたのを見計らって振り返ったその時、集団の最後尾に見慣れた人間の後ろ姿を認め た。法被を着込んでいるが、あの左右に肩を上下させなが特徴的な歩き方をするのは、まぎれもなく犬若だった。
獏爺は後をつけた。
やがて、集団が観光客に囲まれ、写真撮影が始まった。その時、ゆらゆらと揺れるよう に、脇の軒下に入って凭れたその男の横顔を見て、間違いなくそれが犬若だということが確認できた。彼の無事は獏爺に天にも昇る喜びを与えたが、一方で彼の、男としての存在価値の大きな要素を奪った、悪の組織たる中に身を置いた動機や心境が理解の範疇を超えてい て、獏爺は朦朧とした。
「何をやっておるか!」と首根っこをひっ捕まえたい衝動もあったが、彼の理性はそれを阻んだ。袋叩きにあっておしまいである。
獏爺は暫く、遠目から犬若を観察した。軒下の日陰で呆けっと空を眺めている。そのう ち、ひとりの部員が寄って来て彼にカメラを渡した。撮影役に引っ張り出されたようであ る。今にして思うと、引っ張り出したのは沢井宗八あたりであろう。あるいは、有沢獅子だっのかもしれない。
ともかく、犬若は抱えきれないほどのカメラを持って、不自由に体をくねらせながら、撮影をしていたが、そのうち若い女性のグループが、強引に犬若と腕を組んで写真を撮り始めた。しかも、それにつられて別のグループも犬若と寄り添い、撮影した。周りで他の部員たちが、感心したような、納得したような顔をして頷いている。やがて犬若も他の部員に交じって集合写真の一員になり、時折笑顔を見せるようになった。
寝床に戻った獏爺は、その後暫く、暗い四畳半の一室で秋を過ごした。古い町やの二階 で、天井には太く黒い梁が走っていて、今にもドスンと落ちて来そうなほど老朽していた。
外に出るのは、食料の調達の時くらいだった。家主が差し入れを申し出たが、居候の身でそこまでは申し訳なく、何よりも聖女無天育ちで、喰えるものにも色々と規則がある為、反対に気を使わせるとして断った。それでも食肉文化が定着して久しいこのご時世、規則に従うと想像以上に喰うものが無く、手持ちの金も底を尽きかけて来た。
ある日、鏡を覗くと、白い頭髪はや髭は伸び放題、顔もひと回り小さくなっていて、革命前を生きていたどこぞの学者の肖像画でも見ているようだった。
獏爺は家主に頼んでハサミと剃刀を借りて来くると、頭頂部の髪を掴み上げ、ハサミを入れようとした。が、そこでふと、漠然とある考えが頭に浮かび、腕を下げた。そうして、ハサミと剃刀は使わないまま、家主に返した。
長屋でひとり、新年を迎えた。頭髪は更に伸びて耳が隠れている。髪があるというのはこんなに暖かいものなのだと実感した。
やがて越冬し、春を迎えた。
秋から春まで毎日、朝夕にお粥くらいしか口にしていない。頬を撫でると、半年前までは丸みがあったが、今では顎に向かってあからさまに直線が描かれているような感触がした。何となく、踊るような気持ちを含みながら鏡を覗くと、仙人が映っていた。我ながら何とも可笑しく、「わはは」と声を上げてひとり、笑った。
そうしてまた、家主に頼んでハサミを借り、今度はちゃんと使用した。顎髭を逆三角形の整え、口髭は上唇に掛からないところに揃えた。髪は櫛で何度も撫で、何となく見栄えも良くなった。
獏爺はハサミを返す為に冬木氏を呼んで、これまでの礼を言った。
「他は騙せても、さすがにこんな姿になった経過を知っているあんたは騙せんので正直に話しておく」
彼は冬木氏を四畳半に置いてあるちゃぶ台の対面に座らせた。
「儂は観光協会に潜り込む」
「えっ?」
冬木氏は、「何を言っているのだ、この爺さんは」と眉をしかめた。しかし、獏爺は大まじめである。だが、本当の理由は言わなかった。話したところで、冬木氏には関わりの無いことで、余計に話がややこしくなる。だから、夢南瓜の理不尽な取り締まりが厳しさを増すが故の戦略だと言って納得させた。南瓜が手に入らなくなるのは冬木氏のとっても由々しき問題だから、「絶対に口外しない」と約束してくれた。
「そこで相談だが、こんな爺がふらりと入隊を申し出ても相手にされぬどころか、脳みそが腐ったのだろうと思われて門前払い喰らう。紹介状のようなものがあれば有り難いのだが、伝手はないか?」
「無いこともないが」
「やはりこんな爺の紹介状など誰も書いてはくれんか?」
「いやあ」
冬木氏の困り果てた表情に獏爺は苦笑した。
暫くお互い黙って試案していたが、冬木氏が何かを思いついたように顔を上げた。
「観光協会本部の重鎮に重田屋文四郎という老人がいて、私も大事な客をよく彼の料亭へ連れて行くので懇意になっているのですが、重田屋さんの紹介ということなら上手くゆくかもしれません。何せ重田屋さんは良く言えば大らか、まあ悪く言えば適当な性格の老人なの で、私があなたの年嵩のことは伏せた文章を作ってサインだけ頼めば、何の疑いも無しに書いてくれるかもしれません」
「すまんな。苦労をかけるが、我がままついでにのうひとつ頼まれてくれるか。儂が観光協会の様子を報告するのに伝達手段が要る。そこで、ここに手紙を預けることにしたい。あんたが夢南瓜の取引をする折に来た村民にでも預けれくれればいい。宛名は大宮様にしてお く」
果たして、重田屋文四郎は料亭の厨房で、左手に持った小皿に口を付けて出汁の味見をしながら、右手ですらすらとサインしてくれた。おそらくお上りの若者ひとり、観光協会青年部に入会する程度に思っただけだろう。まさか、間者の爺を潜り込ませてしまったなど、夢にも思っていない。そして、そんなサインしたことなど、三日と経たないうちに忘れてしまった。協会への紹介を頼まれる事など、よくあることだ。
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