老人の正体
観光協会会館の廊下も高天の宮同様に、鴬張りで貼られてあり、歩くごとに、キュッキュと音がして、春道らの進行を精神的に阻んだ。
屋敷は藤田伊一という地主の所有物だ。伊一は藤田翔の父である。建物はかなりの築年数が経っていると見て取れ、おそらく、昔の偉い人物の離宮か何かを買い取ったものであろ う。
春道らはできるだけ音を立てまいと、剣道のすり足のようにして奥へ進んだ。
館内はひっそりとしていた。旦国寺猫の坊の策略は、想像以上の成果をもたらしていた。人っ子一人、鼠一匹の気配もしない。協会は本当のひとり残らず動員したのであろうか。
門前には提灯に火が入っていたし、いくつかの部屋にも電気がついている。しかし、留守を公然と主張するのも不自然だ。ひとり残らず動員するにせよ、まるで人がいるかのよう に、装うのは不思議なことではない。
屋敷の中は意外に広く感じた。
大山大和は確かに、碧小夜は奥の部屋にいると言った。しかし、なかなかそこまで辿り着かない。会館内部は外観よりも何倍も広く感じられ、静まり返った空間で、春道は己の鼓動のひとつひとつをしっかりと聞き取った。
突如、左右の襖が開き、法被姿の藤田翔、沢井宗八が立ちはだかる。正面から幸村朱鷺、高山紫紺、その背後には岡莉菜が火の玉のような眼球を光らせる、というのを想像すると、足と床をセメントで固められるかのうように、次なる一歩が更に重く感じた。
「ここだ」
猫の坊の潜めに潜めた声が微かに聞こえたことで、目の前に廊下が突き当たったってい て、一枚の襖があるのに気が付いた。隙間から光は漏れてはいない。物音もしない。
見張りとして門前に残った北野修郭斎を除いた四人がその場にしゃがみ込み、猫の坊がゆっくりと襖の手掛けを引いた。
春道が中を覗くと、和室の真ん中の白い長方形の布団の上に、綺麗な形で仰向けになっている人影があった。生温い部屋の中で、その胸が浮き沈みしているのが見える。
猫の坊が頷いたのを合図に、春道は音もたてずに室内に忍び込んだ。そして素早く中央にすり寄ると、布団の横に腰を下ろし、横になっている碧小夜を覗き込む。闇の中に浮き上がる白い顔は、口を軽く閉じたまま微動だにしていない、と認めた瞬間、左右に流れていた目じりが動いたかと思うと、大きな瞳が春道に注がれた。あっ、と声を出した時、碧小夜は身をひるがえし、布団の枠の外で立膝の状態になって身構えていた。春道はとっさに飛びかかった。悲鳴を上げられまいと口を塞ぎにかかったのだ。碧小夜は目が慣れていないせいか、春道をまだ、突如侵入して来た暴漢だと思っているらしく、彼の手を振り払うようにして必死に抵抗した。
「俺だ!」
潜めた声で目いっぱい叫んだ時、ようやく彼女の体から力が抜けた。
「ハル君?」
「そうだ。俺だ」
碧小夜は荒い呼吸をしながら、睨むように春道を見つめていた。
「何をしている!早く」と、猫の坊の声が聞こえた。
春道は碧小夜の腕を掴んだ。
「ハル君」起こされて畳に膝を立てた碧小夜が言った。「わたしを迎えに来てくれた の?」
「そうだ」
「村に戻っていいの?」
「当たり前だ。何を言ってるんだ」
「何でもない。ごめんなさい」
「もう、碧小夜様も話は後にしてください。のんびりしている余裕はないですぞ」
廊下で猫の坊が半身になって手招きしている。
会館の玄関まで五人は一気に駆け抜けた。廊下がけたたましく鳴るもの気に掛けないように、前だけを見つめて走った。後ろは一切振り向かず、このまま村まで駆け戻る。恐れていたことが起こったのは、そう己に言い聞かせ、玄関の敷居を跨いだ時だった。
門まで続く、飛び石の上に作業着のような服を着て、法被を羽織った男が立っていた。五人が一斉に足を止め、身構えたが、不思議なことに、男からは殺気が感じられない。むし ろ、殺気など忘れて久しい、何とも貧相な体形でもある。
「堀川さん」
碧小夜が小さく呟いた。
春道の目にはその殺気もない老いた猿の骸骨のような顔が、余計に不気味に見えた。しかし、だんだんと彼の表情は実はとても穏やかな表情であることが見て取れて来て、自分達の行く手を阻む意思が無いことが伝わってきた。
碧小夜が老人に歩み寄りながら言った。
「ごめんなさい。わたし、やっぱり村に戻りたい」
「あなたがそう思うならそうしなさい」
碧小夜は今、自身が置かれている立場をすでに、把握しているようだった。もしもこのまま村に戻ったら、この老人が何等かの御咎めを受けるかもしれない。そう思うと、それ以 上、前に進むことが出来なくなった。
それを察してか、老人のほうからまるで、孫に何かを言い聞かせるような優しい口調で話しかける。
「いいのですよ、気にしなくても。儂は最初からこの役目を果たす為に、ここにいるのですから」
堀川老人はそう言うと、皺だらけの顔を、更にくちゃくちゃにして微笑んだ。
その時、不意の動いたのは猫の坊だ。彼はまるで、死にかけの猫のような足取りで堀川老人に寄りながら、震えて消え入りそうな声で言った。
「あんた、獏さんじゃないのかい?」
そう言うと、老人の細い手を取った。
「間違いない。いくら痩せこけて姿が変わっても、その目は確かに獏さんだ。あんた、ここで何しとる?」
老人は照れ臭そうにふふっと鼻を鳴らした。
その時、春道の遠くかすんでいた記憶もまた、吸い寄せられるように蘇っていた。ふっくらとした顔、体はまるで鶏骨だ。剃り上げていた頭には、肩につくほど長い白髪生えてい る。しかし、あの特徴的な極端に白い部分の多い三白眼は見覚えがある。
碧小夜も同じように幼い頃の記憶に包み込まれているのだろう。そのまま崩れ落ちそう震えながら、両手で口を押えている。
「さあ、皆の衆。碧小夜様を連れて村へ戻るがよい」
老人は春道らに碧小夜を連れて去るように促したが、皆、根を張ったように動かなかっ た。
「一体どういうことだ、獏さん。何があったのか、何であんたがここにおるのか、それを聞かぬまま拙僧はこのまま去ることは出来んぞ」
「馬鹿なことを言うとらんで、早く行け。奴らが帰ってくる」
「この間、お祭のあった神社に行きましょう」碧小夜が言った。彼女の目に、このままでは帰れないという意思が漂っている。
事によっては、碧小夜はこのまま観光協会の元に身を置く道を選ぶのではないか。春道はそう考えると、背後から首筋を糸で引かれるような、体が騒めき立つ思いがして、手荒な真似をしてでも彼女を引きずって行きたい気持ちになった。
もしよろしければ、ブックマークや評価をお願い申し上げます!




