小さく深い歪み
次回2/23AM8時
「俺は飼い犬のようになった。いや、飼い主に合わせる顔もない、飼い犬以下だ。どの面下げて村に戻れる」
犬若は立てた膝に顔を埋めたまま、消え入りそうな声を出した。
いつしか夜も更けはじめ、子供の声も聞こえなくなり、缶ビールを持った大人が時折、静かに行き来する。その砂利を蹴とばす音だけが、耳に入ってきた。
「ひとつ聞いてもいいか?」
犬若が顔を上げて碧小夜を見た。
「お前の意思で、俺を氏子に選んだのか?」
碧小夜はこくりと頷いた。「だって、ハルくんは今でも村で暮らしているもの。でももし私がハルくんを選んでいたら、ワンちゃんはいなくなっていたと思う」
「俺はそんなに脆い男か?」
「ちがうの、そういう意味じゃ。でも、それがワンちゃんだから」
確かに、あの時、かくも容易に死を選ぼうとした己の行動を振り返っても、碧小夜の判断は的を射ている。しかし、それだけの理由なら、あまりにも残酷だ。
思わず、「俺を選んだのは哀れみか?」という言葉が出た。怒気を含んだように、頭を上げて睨む碧小夜の丸い視線から逃れるように、犬若は立ち上がろうとした。
「ワンちゃんは、村を潰す気なの?だから今でも観光協会にいるの?」
「ああ、そうだ。俺は聖女無天村を潰し、お前を解放しようと思った。お前を俺のものにする為にはそれしか方法が思いつかなかった。そう考えたとたん、気持ちが晴れやかになっ た。それで観光協会に入隊するのにも何の躊躇いもなくなった」
「身勝手なんだね、ワンちゃん。それで救われるのはあなただけじゃない」
「俺は何をしたってもう、救われないんだよ!種無しにされてるんだぞ。もう希望も何もない。ドツボに嵌ってるんだよ。ドツボに嵌ってさあ大変、ドツボが出て来てこんにちは、坊ちゃんドツボに嵌りましょ」
「何言ってるの?」
「もう俺には何も無いんだ。辛うじて、観光協会犬若って肩書きだけが、ああやってきゃあきゃあ言われることだけが、俺の存在が認められているって、俺が存在しているって証なんだよ。だから、俺は協会から離れることはできなんだよ!」
犬若は立ち上がると「頼む、村に戻ろうなんて思わないでくれ。今は俺のそばにいてくれ」と呟き、参道のほうへ歩き出した。
彼は店じまいをする出店を横目に歩いた。それでも歩きながら、碧小夜が追って来ることを心のどこかで期待していたのかもしれない。
小刻みに足音が聞こえて来た。怒りに満ちて頬を真っ赤に染め、下唇を噛みしめた碧小夜の顔が浮かんだ。そうだ、それでいい。振り向きざま、まるで五年の歳月を振り払うかのように、己の頬を平手でぶっ叩けばいい。
犬若はゆっくりと体を反転させた。しかし、そこに碧小夜はいなかった。代わりに赤い浴衣を着た女が小刻みに足音を立て、犬若の脇をすり抜けて行った。
「待ってよ!」と連れの人間に掛ける女の声を聴きながら、残された視線の先の神楽殿の隅で、碧小夜が両手を顔に当て俯いているのが見えた。
犬若は再び、体を前に向けて歩き出した。
目の前を赤い着物の女が、背の高い男の腕を掴んで、仲良さそうに歩いた。
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