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欲望のカボチャ村と古都の荒くれ観光協会  作者: 源健司
フフシル事件
58/125

犬若が去った不幸な日のこと

 五年ほど前になる。

 その年は梅雨が長く、七月に入っても雨が続いていた。


 ある日、彼は高天の宮の桃龍の部屋に呼ばれた。柔らかい深紅の絨毯を踏んで部屋に入ると、ソファーに横になって上半身だけを上げている桃龍と、地べたに正座している碧小夜がいた。碧小夜は百合が描かれた藍色の浴衣姿で、髪も肩で切り揃えていて、昨日までの小鳥のような彼女とは打って変わり、とても大人びて見えた。


「この村では十六になると大人の男として扱うことになる」


 そのまま身を起こすことも無く言う桃龍の御前で、犬若は碧小夜の変貌におっとりと見とれながら「はあ」と答えた。


「お前も私が数えるところ、そろそろいい歳かと思ってね」


 犬若は幼少の頃にこの村に来た。しかし、誰がどこから連れてきたかはわからない。夜 毎、夢南瓜によって村の大人は大抵酩酊している。子供ひとり増えたところで、気にする者もいなかった。村人皆がそんな感じでどこかから湧いて出て来てしれっと居座っているというのが、王道たる入村手段である。なので、犬若も実際の生年月日はおろか、年齢も定かではない。それは那智の春道もしかりである。


「今日からあなたは成人として扱います。南瓜も好きなだけやりなさい」と桃龍は言った。「その代わり、しっかりと働かなくてはいけないよ」


 犬若はこくりと頷いた。そして当然、成人男性としての見返りが気になった。彼もとうの昔に思春期を迎えている。

 が、彼の問いを待たずして、桃龍は命じた。


「お前は碧小夜の氏子になりなさい」


 胸がドクンと高鳴り、瞼から脳へ血が走るような感覚がした。碧小夜は正座したまま、恥ずかしそうに下唇の両端を窄めて犬若の膝頭あたりを見ていた。


「恐悦至極に存じます」


 犬若は上目遣いで彼女を見上げて言った。

 碧小夜は声を出さず、二、三度、小さく頷いた。犬若は実際、跳ね上がるほどの喜びを感じていたが、その反面、碧小夜が己の意思で自分を氏子としたのか、母の選択であったの か、気がかりであった。もしも後者ならば、己を受け入れるのに吝かではないのだろうか。そんな不安を感じながら退出した。


「頑張ろう」


 日が差し込む廊下を歩きながら力強く呟いた。さっきまで降っていた雨が嘘のようにさっぱりと上がっていた。

 玄関のところで那智の春道とすれ違った。


 「お前も呼ばれたのか?」と春道。


「ああ」


「何の用だった?」


 犬若は言葉を濁した。


「もしかして、隠れて種を齧っていたのがばれたのか?それか夜中に下界に下りて遊んでいたことか?」

「別に怒られたんじゃないよ。俺は俺の用だったから、お前はお前で別の話だと思うよ」


「なんか他所他所しいな。まあいいや、怒られないなら」


 春道はそう言って廊下を奥へ歩いて行った。


 犬若にはとても、自分が碧小夜の氏子に選ばれたなどとは言えなかった。別段、春道の気持ちを慮ったわけではい。彼は鈍い。単なる年頃の恥じらいというやつだった。


 その夜、獏爺に呼ばれて彼の住処へ行った。路上に丸い木のテーブルと椅子が二脚、置いてあり、一脚には獏爺が座っていた。犬若が腰を下ろすと、「おめでとう」と獏爺は言っ た。


「碧小夜も相手がお前なら安心だ」


 獏爺は三人の幼馴染をとても可愛がってくれた。淡泊で薄情な人間が大半を占める村で数少ない温かな大人である。村の催しや畑仕事の手伝いの時など、わからないことがあれば彼に頼った。

 とりわけ、碧小夜を娘のように可愛がっていて、アコースティックギターを片手に歌を教えたり、遊び過ぎて帰りが遅くなると、目と鼻の先の高天の宮まで送って行ったり、まるでお姫様とその世話役のようにも見えた。

 一度、獏爺がパンプキンバーで大暴れしたことがある。碧小夜が成人した暁には、氏子の座を狙っているのだろうと揶揄った男がいた。無論、質の悪い冗談である。しかし獏爺は男の頭をカウンターテーブルに叩き付けて、丸椅子で尻を横殴りにした。温厚な老人が地獄の閻魔と化したその事件以降、ふたりの関係を揶揄するものはいなくなった。


 「早速だが」と獏爺は切り出した。「明日、営業に出るぞ。なに、簡単なお使いだ。葦原京の中心部に八角堂という寺があって、その裏手で待ち合わせている客に南瓜の葉巻を届けて金をもらうだけだ」

 犬若は胸の辺りにもじゃもじゃとしたものが渦巻くような気持になった。初めての営業。その後に待っているのは初夜である。これは村の暗黙の決まり事で、初仕事の後には必ず、報酬が与えられる。


 余談だが、中には成人となれども主人がいない危篤な者もいるが、高天の宮には特定の氏子を持たない仕込み女という、普段は男に身体開発を専門とする熟練の、所謂フリーの宮様がいて、ひとり身の男の初仕事後は彼女らが相手をする。実際に味わった者に言わせればその技術ときたらもう魔法のようで、何故に男体をここまで熟知しているのか、誰にも漏らしたことのない性感帯を、まるでそこに目印が付いているようにピンポイントで刺激する。刺激した後は放置する。放置されると、当然焦れて、再びの刺激を求める。しかし、その間、彼女らは相手の男自身も目覚めていなかった新たなる性感帯を、それも矢印が指し示しているがごとく、見事に突き止めあっと驚く早業で開発して見せる。


 夜になると時折、高天の宮から狼の遠吠えのような只ならぬ叫び声が聞こえて来るのだ が、それは往々にして彼女らの仕業による男の喘ぎ声である。


 獏爺との打合せを終えた犬若はその足でパンプキンバーへ行ってみようと歩き出した。


 バーの前へ来ると中が妙に騒がしい。

 「おい、お前がそっちを抱えてやれ」「机をどかせろ!」「この餓鬼ゃあ、無茶し腐っ て、ボケナスが!」

 というような叫び声がしたかと思うと、両脇を抱えられた那智の春道が伸ばした両足を引きずりながら外に出されてきて、入り口へ上がる低い階段に足の先をゴンゴンと打ち付けながら降ろされると、そのままどこかへ運ばれて行った。


「あいつ、大宮様の氏子になったそうだぞ」


「そりゃあ、嬉しくて呑みすぎるのも無理ないな」


「それにしては冴えない面をしてやがったぞ」


 外に出て来た客たちが口々にそんな話をしていたのを犬若は聞いた。


(春道が大宮様の氏子)


 犬若は運ばれてゆく春道の背中を見送りながら、もしも碧小夜の氏子になるのが自分ではなく他の誰かだと知ったら、しかもその他の誰かが春道であったら、今、引きずられて行ったのは自分だったかもしれない。そう思った。その時、犬若は初めて、春道の碧小夜に対する感情が、自分が碧小夜に抱いているそれと同じ想いであることを悟った。


 翌日もまだ、雨が降っていた。西院熊二郎が傘を掲げた傘の中で、真新しい作務衣を着こんだ犬若は出立の儀式を経て、丁度雨も小降りになったところで、獏爺と共に出発した。

 山下にはこれから向かう葦原京の風景がぼんやりと見下ろせた。今は西の彼方に聳える友愛の像も、この時はまだ着工前でその姿は無く、南のほうに西京府の建築物の黒い影がうっすらと見えるだけであった。

 背後から見送る村人たちの声援が聞こえる。振り向いて手を上げたが、最後まで、那智の春道の姿は見えなかった。


「さあて、いよいよだな。といっても今日は簡単な仕事だ。まあ、形式的な初仕事みたいなもんだから肩の力を抜いてればいいさ」


 獏爺は丸い体を揺らしながら、砂利道をすたすたと下って行く。その歩く速度の速さに犬若は驚いた。


「おお、情けないな、若いのに」


 必死に付いて行く犬若に獏爺が声を掛けた。「何事も迅速に、無駄無く行動する。これが村の仕事の第一条件だ。もたもたしていたら捕まっちまうからな。最近、観光協会の若い荒くれ者達が何故か夢南瓜を麻薬のように扱い始めて排除する運動を起こしておるのを知っているだろ?それもかなり暴力的なやり方だ」


「はい。この前も東の長屋の兄さんたちがあばらを折られたとか」


「葦原ワースポの誘致に成功してからというもの、葦原京全体が盛り上がってきて、外人客も増えているが、観光協会が過剰な伝統文化の保護と治安維持活動に邁進している。夢南瓜の蔓延は葦原京のイメージを損ねると主張しているそうだ。酒を呑んだくれているよりは南瓜のほうがよほど、健康的だと思うがな。それはそうと話は変わるが、春道は大宮様の氏子になったそうだな」


「そうなのですか?」


 犬若はわざととぼけて見せた。


「俺もさっき、馬方さんから聞いたんだがな。あれも、碧小夜に惚れてたみたいだからな」


「えっ?」


「気づかなかったのか?お前の目も節穴だな。すぐ傍にいた恋のライバルに気づかないなんて」


「皆、知っていたんですか?」


「知るも何も、見てればわかるだろう」


「そうかなあ。俺にはあいつが碧小夜に意地悪をしたり、余計なことを言って怒らせたり、どっちかっていうと嫌いなんじゃないかと思ってたけど・・・」


「ほら見ろ、そこまで見ていて何で気が付かない。それも愛情表現ってやつのひとつじゃないか」


 そういえば先だって入村して来た室戸の陰松という少し年上の男と春道がひと悶着起こしたことがあったのを思い出した。悶着の原因については春道も口を噤んだ が、噂によると春道と碧小夜が一緒にいた時、室戸が何やら要らぬちょっかいを出したらしい。別段、大したことをされたわけではないのだが、春道の導火線にはしっかりと火をつけてしまったようだ。今にも野犬のごとく飛びかからんばかりなったので、これには室戸も呆気にとられるしかなかった。


(人間とは難しいもんだな)


 犬若は歩きながら考え込んだ。気が付くと、山を下りきって葦原京の市街地に来ていた。石畳の路面を、観光客を乗せた人力車が横切って行く。


「じゃあ、春道は俺のことを恨んでいるのかな。そうなると村には帰りにくいな」

「恨む恨まぬはわからないが、己の胸に腕を抉り込み、心臓をわしづかみにしてもみ潰したいほどのジェラシーは感じとるだろうな」


「ジェラシー・・・」


 犬若にはそれが最初、どんな感情がよくわからなかったが、「逆の立場になって考えてみろ」と獏爺に言われた時、確かに心臓をわし掴みにしたくなるかもしれないと、何となく想像できた。そういえば昨夜、南瓜に潰れ、引きずられて行く春道を見た時も、同じように考えた。


「だから大宮様は春道を自分の氏子にしたのだろう。俺もそれが最善の手段だと思う。碧小夜の意思でお前を選んだのか、大宮様がそう決めたのか、俺は知らんが、現実としてお前が碧小夜の氏子になった。その責任というと重い言い方だが、せめて自分の手で春道を至高の快楽へと導き、碧小夜の氏子になる以上の幸福へと導くことで、娘への想いを断ち切られた男への責任を全うしようと考えたのだろうな。ありゃ、話をしているうちに到着したぞ」


 八角堂の土塀を通り過ぎて、獏爺は細い路地へ入った。顔を出すと、たった今、通り過ぎてきた土塀が向うのほうまで見渡せる。客が到着するまで、そこに身を隠すようだ。


「それに、大宮様の氏子になるということは、聖女無天村ではこの上無く栄誉なことだ。その立場に不平不満を抱くなど、罰当たりも甚だしい。逆に言えばそれで春道の面子もお釣りがくるほど立つというわけだ」


 その時、土塀が伸びる南の角から男がふたり、歩いて来て、暫くすると立ち止まり、その場にしゃがみ込んだ。ふたりは南の角に近い路地にいる。


「あの馬鹿ども、北東の角へ来いと連絡したはずなのに。よし、犬若よ。ちょっと行って、あの二人をここまで連れてきてくれ」


「はい」


 大仕事だぞと、犬若は肩に力を入れ、路地を出ると南へ向かって歩いた。やがて二人組の前に立つと、彼らも立ち上がった。ひとりはキャップを被った首元に入れ墨のある若い男、もうひとりはアフロ頭に口髭を生やした男だ。


「あちらですよ。北東って連絡したはずですが」犬若は勇気を出して言った。

「そうだっけ?すまんね」


 アフロがそう言ってははっと笑った。村人以外の人間と接触する機会はあまり無く、不安だったが、おかしな風貌の割にふたりとも物腰は柔らかく、犬若もほっとした。

 三人は連れ立って、道を北へ向かって歩いた。


 小降りだった雨も上がり、今は止んでしまっている。しかし太陽は今尚、分厚い雲に遮られ、辺りは気味の悪い暗さが充満していた。


「若いねえ、君。何歳?」


 入れ墨のほうが訊ねてきた。犬若は「十六くらいです」と答えた。

「くらいって何だよ」アフロが笑う。


「まあ、色々訳ありなんだよな。ゴメンね」と入れ墨。


「あ、それは悪かった」


 アフロも笑うのを辞めて首を窄めたその時、「後ろだ、逃げろ!」という獏爺の声に振り返ると黒い集団がばく進して来て、あっと言う間に囲まれた。集団の中の数人がそのままその場を突っ切り、獏爺のほうへ向かって行く。間もなく獏爺が、逃げ込もうとした路地から引きずられて出て来た。


 犬若等を取り囲んだのは五人。


(逃げよう)


 咄嗟にそう考え、犬若は五人のうちでいちばん体に小さい男めがけて突進した。小さい男は意外に脆く、後方へ下がった。


(今だ)


 犬若は南の方へ走り出す。しかし、それもつかの間、土塀の角から更に二人の協会部員が現れ、道を閉ざした。取り囲んだ五人とは体の大きさが違う。


 振り返り、北へ逃げようとするが、そっちはすでに塞がれている。入れ墨とアフロは土塀に凭れるように大人しくしている。


「馬鹿野郎!何で今、飛び出すんだ!」


 後から現れたふたりのうち、がっちりした体格の男が、腹の最底辺から湧き上がらせたような野太い声で吠えた。その声に脅されて、先に現れた者たちが背筋を伸ばして頭を下げ る。


「どうするんだ、お前たち。このままだと試験失格だぞ」


 五人の一団は再び身構えた。すると、先ほど吠えた男の隣にいた、細身の背の高い男が進み出て来て腕を組んだ。


「飛び出すのが早すぎる。取引現場を押さえないと現行犯でしょっ引けないんだよ」


 その時、犬若は背中が一気に冷えたような感覚に陥った。村にも死んだような目つきをした男がいくらかいるが、かくも非情に凍てついた目は覚えがない。例えるなら、氷柱が二 本、左右に吊り上がるようにして、へばり付いているような目だ。


「仕方がない。こういう時はそっちのふたりはもう諦める。夢南瓜所持でしょっ引けるのは聖女無天村の二人だけだ。こっちは幸村さんと俺で塞いでおく、とっととその小僧を捕まえろ!」


 高山が命じるが早いか、試験中の部員五人が、入れ墨とアフロを放って、一斉に犬若めがけて飛びかかった。


 犬若は咄嗟に、真っ先に来たひとりの腕を掴んで抱え込み、体を捻った。相手の体が地面に打ち付けられた。あまりに必死だったとはいえ、それには自分でも驚いた。次に向かって来た男の脇を交わすと右足を踏ん張り、踵を返した。北は五人と獏爺を捕まえている三人、南は二人。ならば二人を何とか突破しよう。本能的にそう考えて、幸村、高山が閉ざす突破口へ全力で走った。

 が、次の瞬間、後頭部の一点に硬い衝撃を受け、額を貫かれるような感覚に陥り、気が付けばもう目の前は曇った空が広がっていた。何等かの攻撃を受けて地面にしこたま頭を打ち付けたようだ。そして雲の総柄を見つめていたところに、高山紫紺の刃物のような顔が覆い被さって来た。遠くのほうで何やら喚いている獏爺の声が聞こえる中、高山が法被の懐から一本の注射器を取り出した。


「若いのに生きる大きな楽しみを奪うことになるが、仕方がない。恨むなら恨むがいい」


 そう言って、犬若の左腕の血管に針の先を突き刺し、ぐっと差し込んだ。何か粘度のある液状物質が流れ込むのを、体全体で感じた。

 針の抜くと高山紫紺は立ち上がり、尚も仰向けに倒れている犬若を見下した。


「後で体の異変に気付いてあれこれ悩ませるのも可哀想だから、はっきり教えておいてや る。今、俺はお前の生殖機能を奪った。お前たちの村の男は性的快楽を見返りに夢南瓜の営業活動に邁進しているようだが、もはやお前にはその見返りを受けたところで何も感じない体にしてやった。残酷な宣告になるが、お前はもう聖女無天村で生きる意義を失ったのだ。俺たちはこのやり方で、貴様らを殲滅するつもりだ。村に戻るならこう伝えろ。勃たなくなるが嫌なら葦原京には近づくなとな」


 空に稲光が走ったかと思うと雷鳴が響き、唐突に大粒の雨が降りだした。


「引き上げるぞ」


 高山がそう命じると、部員たちの足が犬若の頭の横を通り過ぎて行った。


 動くことも出来なかった。体中の精力が、天高に向かって煙のように舞い上がって行くのが見えるようだった。


 それからどれだけの時間が経ったのかわからない。意識はずっと保っていた。ただその 間、色々と変な風景を見ていた。鬼の子供たちが自分の周りをくるくる周っていたかと思うと、大きな団扇を持った熊さんが現れ、団扇で顔面をバシンと叩かれた。今度は何者かによって異臭を放つ豆腐が鼻の下に置かれ、その臭いが口の中に充満すると花びらとなって口から吐き出て行った。最初は無数に吐き出された花びらが、だんだんとその量が減って行くに従って、彼の意識は次第にはっきりとしてゆき、最後の一枚が夜空に舞い上がると、ようやく視界もはっきりした。

立ち上がった彼は、あてもなく歩き出した。


 獏爺もどこへ行ったのかわからないし、ここがどこなのかもわからない。商店街に迷い込むと、いくらかの人々が往来していたので、身を隠すように路地に入り、延びる道に従って歩いた。


 やがて明るい大きな通りに出た。酒に酔っているのか、大声を張り上げた学生風の若者の集団が目の前を通り過ぎた。

 犬若は彼らに交じってはしゃいでいる自分の姿を想像しながらふっと笑った。

 その時、西のほうから吹き抜けのトロリーバスが走って来るのが見えた。回送という文字が見え、かなり速度を出して走っている。


(あれに飛び込んだらそれで済む話じゃないか)


 犬若はえもいわれぬ晴れやかな気持ちになり、バスのヘッドライトに吸い込まれるようにして、道路に飛び出した。


(そのままぶつかるよりも踏みつぶされたほうが確実に逝けるかな)


 そう思って体を屈めた瞬間、後方から襟首を掴まれ、無理やり歩道へ引き戻された。

 紺色のジャージに法被を羽織った男が自分を見下し立っている。


「死ぬなら勝手に死ぬがいい。しかしこんな街中で内臓をぶちまけられたら迷惑なんだよ」


 昼間は居なかった男だ。体もあの幹部らしき二人ほど大きくない。しかし、その二人とも遜色の無い貫禄とそれを凌ぐ狂気が漂っている。


「もう一度、言ってやろう。死にたければ死ぬがいい。だが死に幸福を求めるな。死ぬなら己を恥じて死ね」


 死に損なった己の姿を容赦なく見下す有沢獅子の瞳の冷淡さが、かえって犬若の縊られたような気分に僅かな安らぎを与えた。

 


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