想い
碧小夜は毎日、観光協会会館の奥にある部屋の縁側に座り、庭を眺めながら過ごしてい た。ここは有沢獅子が館長室として使っていた和室である。
有沢が敗北したあの夜、碧小夜は戦後のドタバタの中で突然、体を抱えられ、そのまま建物の奥に連れ去られた。抵抗する間も無く、気が付けばこの暗い部屋に押し込められ、目の前には四つん這いになって息を切らせている、血と泥にまみれて顔を腫らせた犬若がいた。
碧小夜は意識的に我を取り戻すと、立ち上がろうとした。が、彼女の裾を犬若が掴み、哀れみに満ちたような目で碧小夜を見つめながら「もうお前を放したくない」と震える声で言う。その目には、もしこのまま自分がこの場を去れば、彼は命を絶ってしまうのではない か、と思われるような危うい煌めきが充満していた。それは予感ではなく、彼がそれほど危うい男であることを、碧小夜は昔からよく知っていた。故に逃げることもできず、呆然としたままへたり込んだ。外のほうからかすかに、那智の春道や大山大和の怒鳴り声が聞こえる中、碧小夜は蹲って震える犬若に優しく、覆いかぶさった。
観光協会青年会館においては、碧小夜はまるで、賓客かのように丁重に扱われた。玄米ご飯や新鮮な野菜の料理など、男の巣窟とは思えない、バランスの取れた食事が朝、昼、晩と運ばれてくる。センスはともかく、清潔な浴衣も揃えられ、退屈凌ぎに雑誌や手芸キット、ラジオ等が持ち込まれて来る。また、タブレットという便利な機械に彼女は初めて触れた。とてもニュースを読んだり、ゲームができたり、色々な映像を観たり、大変凄いものだということは分かったが、使い続けることはなかった。文明の段階を踏んでいないので使うこなすことができなかったという理由もあるが、それ以上に、下界の生活に順応することで村へ戻れなくなるような怖さがあった。そのA4版大のタブレットは床の間の隅にそっと置いて、それ以上手を触れることをしなかった。
差し入れを持って来てくれるのはいつも、堀川清介という気難しそうな老人であった。しかし、彼の顔を見ると、彼女は不思議と心が落ち着くような気がした。
「ありがとうございます」
と、お礼を言うと、老人は少しだけ目じりを下げ、頭を下げて静かに部屋を出て行く。
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