心地よい春の夕暮れ
高天の宮に居住する宮女が、自身が下僕たる男、所謂「氏子」と関係を持つことを誓約と呼ぶ。
村に伝統的に伝わる風俗、習慣であり、この村の生活の核であると言っても過言ではな い。
男は夢南瓜を売ることで村に利益をもたらし、宮の女性を養い、その対価として、極上の誓約を賜ることでまた、夢南瓜の営業に精を出す。売れば売るほど褒められ、快楽的虐待を受けることができる。男の悲しい性を用いた、究極とも言える生活システムがこの村にはある。
那智の春道は桃龍から誓約を受けた後も尚、分娩台の縛られたまま、果てた身体を尚も弄ばれていた。襖が開け広げられ、赤い夕陽が光と春の風が部屋に入り込んでいる。
廊下を隔てた向こうには葦原京が見渡せる。
「良い季節になってきたね」桃龍が言った。
「はい、春はお好きですか?」
「別に、特別好きってことでもないわ。でも、春は人の気分を明るくするからね」
桃龍は春道の体を触る手を止めて、少しぼんやりとした。
「どうかしましたか?」
「何?手を休めるなって?」
「いえ、そんなつもりじゃありません」
「情けない恰好して、遠慮してんじゃないよ。正直にもっと下さいと言いなさい」
赤面して黙り込む春道の体に向かって、桃龍はまた手を動かし始めた。
「しかし、困ったものね」
「観光協会ですか?」
桃龍は今朝、石切四朗という村民が西京府の刑事に送り届けられて来た話をした。
「顔も体も痣だらけで、着物もぼろぼろ、ひどい状態だったそうだよ」そう言いながら春道の太腿を指でなぞる。
春道も今朝、天空雨の丞という男を見舞った。昨夜、観光協会の襲撃に遭い、明け方にボロボロになって戻ってきたのだ。
朝になって木村という西京府警の刑事が、精も魂も抜けきった石切を連れて村に来ていたのも知っている。
「今年に入って何人目?」
「もうすでに八人がやられました」
そう答えながら、春道はまた、体をビクリと動かした。
「去年は年間で六人。今年に入って明らかに取締が厳しくなっているわね」
「このままじゃ、男は全滅しちまうよ?」
「俺はそんなドジは踏みません」
ふたりは暫く黙っていたが、やがて春道が思い切ったかのように言った。
「昨夜の現場に犬若がいたと聞きました」
桃龍は尚も何の反応も示さなかったが、最後に「そう」とだけ呟いて立ち上がり、春道を残したまま奥の間へ戻って行った。春道は少し眠ろうと、目を閉じた。
春道が廊下へ出ると空にはもう星が出ていた。庭の池には月が映って揺らめいている。
庭を囲むようにして続く鴬張りの廊下を、指でガラスを擦るような音を立てながら歩いて行くと、その先で廊下から庭に向かって足を下ろし、座っている人影が見えた。
春道にはそれが碧小夜だと即座に判別できた。
一瞬躊躇い、足が止まりそうになった。が、何とか不自然さを醸し出さないように、意識を保って前へ進んだ。
近づいて行くと彼女の影が動いた。伸ばしてした背筋を曲げて、膝を支えに頬杖をついた。
春道は碧小夜の姿をなるべく視界にいれないようにした。代わりに彼女の足元に置かれた紺碧の大きな鉢を視界に入れた。中には三匹の大きな朱い金魚が泳いでいる。
彼女の背後を通過する時、春道はようやくその彼女の身体を意識的に見た。市松格子の浴衣を着た華奢で小さな背中は、背丈も比較的大きくグラマラスな母とは似ていない。
父親が小柄な人なのだろうと察することができたが、彼女の父が誰なのか、春道は知らなかった。他の村民も皆、知らない。「よお」と背中に声を掛けると、碧小夜は「うん」と返事した。ただ、それだけだった。
通り過ぎた後、彼は今、碧小夜の視線は何に向けられているのかと考えた。池に映る夜空の星か、鉢の中を泳ぐ金魚か、もしくは己の去りゆく後ろ姿か。
夜風に揺られた風鈴が音を鳴らした。
あの事件があってから、いつもこんな調子だ。