強く優しき男
事件から数日後、西京府警察署の入り口の鳥居の前に、幸村朱鷺と高山紫紺の姿があっ た。警察署の一階は四百年の歴史のある由緒正しき神社である。鳥居をくぐり、境内を抜けて本殿を裏に回るとエレベータがあり、三階に上がると警察所の窓口がある。建物は神社を覆い隠すように五階ほどの高さに聳え、今更何の負い目か、屋根は茅葺きである。
目の前の砂利道を路面電車がチンチンと音をたてて通過する。そして橋も渡さず浅い川底に敷いた線路の上を、水しぶきを上げ走り去り、対岸の雑居ビルの間に吸い込まれて行っ た。
深緑の並木の中を、氷菓子を咥えて歩く制服を来た学生カップルを幸村が目で追っていると、やがて七分丈の黒いパンツに真っ白なシャツを着て黒いハットを被った有沢獅子が出て来た。有沢はふたりを認めると立ち止まり、蝋を塗ったような目で路面電車の去って行った方角を眺めていた。
有沢は何か言おうとした幸村を制し、少し口を緩めた。
「下手な挨拶なんかいらねえよ。何もかもわかっているメンツだ。そうだろ?」
「あなたのような有志を失うのは観光協会にとって多大なる損失です」
「最後まで喰えねえな、高山」
「私は本心を申し上げているだけです」
高山はそう言うと深々と頭を下げた。そしてまた、頭を上げると、その場にしゃがみ、背後に隠すかのようにしていた守を抱きかかえた。
「母親はすでに実家に戻っています。気持ちもだいぶ落ち着いているようです。彼女の両 親、つまりこいつの祖父母も引き取りを強く希望しています。どうしますか?」
「調べたが、お前が半殺しにした男とはもう切れている」
振り返ると灰色の草臥れたスーツを着て無精ひげを生やした木村刑事が立っていた。
「現場が葦原京でなければ今頃は刑務所の中だ。せっかくその謹慎が解けたというのに、聖女無天村の者にやられるとは、しょっぱい最後だったな、有沢よ」
木村刑事はそう言ってひとり笑った。
「それで、守はどうします?」
幸村の問いに、有沢は興味も無いという顔をした。
「お前らに任せるよ。もはや俺がどうこう言う問題でもない」
「でじゃ、母親の元に返しますよ」
「いいんじゃないか、それで」
そう言うと有沢は歩き出したが、高山の前でふと足を止め、暫く黙っていたが不意に守の頭に手を置き、まるで別人が宿ったかのような穏やかな目をして「元気でな」と囁き、そのままポケットに手を入れて東の方に去って行った。
「あいつにも息子がいるそうだ」
高山が言った。「もう何年も会っていないそうだが、親の気持ちになったんだろう」
有沢が謹慎したきっかけは、ある男を半殺しにした事件によるものだった。
ある日の深夜、部員らも寝床に入ろうという頃合いに老婦が観光協会を訪ねてきて、隣家から、尋常ではない男の叫び声と女の悲鳴、それに子供の泣き声が聞こえるという。それも毎夜のことだ。役所や警察に訴えて訪問させても虐待の証拠が無いといって埒が明かない。母親も男の仕返しを恐れてか、何も話さないようだ。観光協会の自治権で何とか調査してもらえないかというのが老婦の相談であったが、幸村も「そこまで行くと警察沙汰だしな」と言って困った。
「警察が頼りにならないからこうして来てるんよ。何とかしてやってよ」
「わかった。俺たちから警察に掛け合う」
高山がそう言った時、「何を回りくどいことを言ってやがる」と言ったのは有沢だった。
「ご婦人、今夜案内してくれ」
有沢はそういうと、ひとりで老婦とともに会館を出てい行き、明け方に子供を抱いて帰って来た。
その日のうちに会館に警察が入り、有沢を連行した。その後、高山が根回しし何とか議会にも取り入ってう有耶無耶にし、その上、件の老婦が町内会に呼びかけて行きすぎた部分はあるにせよ、子供の保護の正当性を訴えたことで有沢は保釈され、協会は一応のけじめとして有沢を謹慎処分にした。
あの事件の時、追いかけた鈴方らが止めに入ってなければ、本当に男を殺していたかもしれない。
「俺にも愚息がいてな」今度は木村刑事が言った。「俺もあの件に関しては内心、有沢の肩を持つ気持ちだったよ。あれがもう少し利口なら、お前らなんぞ、今頃は平の協部員でせこせこゴミ拾いでもしているところだな」
木村が厭味を吐きながら鳥居を潜って署へ戻って行った。
果たしてこれで良かったのか。幸村は高山に抱かれてぽかんと指を咥えている守を見ながらそう思った。そして頭を掻きむしりながら、今はがむしゃらに葦原京を世界一の観光都市にする、それこそが有沢への恩返しだと、己に言い聞かせた。
「さあ、その子を送り届けに行こう」
幸村は守の頭を撫でながら言った。
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